Special Article

Trinh T Minh-ha

その眼が赤を射止めるとき
When the Eye Frames Red

トリン・T・ミンハ・インタヴュー2
TRINH Minh-ha
インタヴュアー:アキラ・ミズタ・リピット
とちぎあきら 訳

RIGHT前号(28号)トリン・T・ミンハ・インタヴュー1へ

アキラ・ミズタ・リピット――《愛のお話》にはいろいろと驚かされたのですが,とりわけ色とフィルターの使い方から,《ありのままの場所》の冒頭で一見着色したような染み込んだ色合いの画が使われていたことを思い出しました.映画全体の色彩や肌理がとても鮮やかで艶めかしいので,感覚を麻痺させてしまうほど人をクラクラとさせるような場が,そこに生まれているんですね.あるシーンを取ってみても,いわば本物の色が何であるかわからなくなってしまうくらい,イメージのみならず感覚や自己投影,空想さえもが染み込んだ色になっている.
空想でも現実でもあるようなハイブリッドな場が,そこに生まれているわけです.しかも,《愛のお話》は「金雲翹」という昔の物語を翻案したものですが,こうした色づかいが歴史からの引用としてではなく,歴史上の文書とその解釈とのあいだにハイブリッドなテクストを生み出すものとして機能しているようにも思うんですよ.この点については,作品からも明らかですし,《愛のお話》の上映会であなたが体験したある観客との出会いからもわかるんです.年配のヴェトナム人女性が,《愛のお話》は自分が学校で習ったお話とまったく違うと言い張っていましたよね.でも,それってこの映画に最もふさわしい反応のように思えるんですよ.
あなたが言わんとしていることはまさに,人が自らの外に置かれた現実という場と出会うと,必ずそのあいだにハイブリッドなものができるということ,すなわち,両者のすきまに一種の場が生まれるということですから.《愛のお話》のねらいやこのプロジェクトに惹きつけられた思いについて,話していただけますか.

トリン・T・ミンハ――あなたがおっしゃったことから二つの点を取り上げて,話を進めていければと思います.最初に,色を通して二つの作品を結びつけられた点がとてもおもしろいと思いました.次に,ヴェトナム人女性の否定的な反応を,生起した場に対する正しい反応に変えてしまうようなねじれがあることを,あなたのほうから明らかにしていただきましたが,まずその点から振り返ってみたいと思います.
じつは,この映画を見てくれたヴェトナム人のなかには,ほかにもいろいろとおもしろい感想を返してくれた人がいるんです.例えば,映画の冒頭で画面に出てくる言葉は3254行からなる詩の結びを引用したものなのですが,「どうして結びから始めるのか」と訝り,「初めばかりか,その後もあちらこちらにその詩が出てくるから,つかみどころを失い,途方に暮れてしまった」と言葉を継いでくる人が何人もいたんですね.
その一方で,このように容赦なく一つの詩をバラバラにしてしまったせいで,全編を通して作り手と登場人物のあいだに距離を感じたという男性もいました.その人の本意は決して肯定的だったわけではなく,むしろ「登場人物はおどおどとしてはっきりしないのに,あなたのほうはずいぶん頑固ですね」というふうに,両者が隔たっているのは望ましくないという言い方だったのですが,私にとってはうれしい反応だったんです.

家父長的なヴェトナムの文化に即してみれば,これは決して褒め言葉ではありません.でも,そのときはとても興味をそそられたので,もっと具体的にどうしてそう思ったのかと尋ねてみました.するとその人は,詩のつながりが見えてきたなと感じて,ホッと一息つくたびに場面が切り替わってしまうので,何度も何度も物語という空間から投げ出されてしまったというのです.
つまり,彼は声の裂け目とでも呼べるようなものを編集のなかに感じたわけですが,これは映画作家を主人公と同一視しがちな西洋の観客と比べてみると,とてもおもしろい見方なんですね.じつは,この映画が個人的な体験を描いたものかどうかという質問で,話が堂々巡りしてしまうことがよくあるんです――「これはあなた自身の生活から生まれたものですか」と.確かに,自分自身が強く惹きつけられなければ,映画を作るなんてことはとうてい無理でしょうが,だからといって映画とその人の生き方とは関係ありませんから,こうした質問はとても困るんですね.映画を作ることや見ることが,一個人の自我よりも大きいもの――すなわち,自らの内なる広さ――との出会いを与えてくれるのではなく,単に一体感を呼び起こすだけのものだったら,きっとつまらないでしょう.

色の問題に話を戻すと,《ありのままの場所》において冒頭のシークエンスの画が着色したように見えるのは,むしろ「自然の」プロセスから生まれたことなのです.コダックの生フィルムを手に,私たちは9か月のあいだ,西アフリカを旅していたのですが,細心の注意を払っていたおかげで,現像の上がりは概ね良好でした.
ところが,熱の働きでしょうか,正しい色味のフィルムに混じって2巻,真赤になって上がってきたロールが思いがけず見つかったのです.何が起きたのかと現像所に電話で問い合わせてみましたが,どうしてこんなに真赤になったのか誰にもわからない――古くなった生フィルムは少しばかり着色したように見えることもありますが,せいぜい茶色がかるか,部分的に赤みを帯びるくらいが普通ですから.でも,じつのところ,私にはこの見た目がすごく気に入ったんです.わざと作り出した色合いではないわけですから,これもまた撮影を通して私が呼び込もうとしてきた「他者性」の一つだということに,すぐさま思い当たったんですよ.

この映画では,アフリカの住居における壁画にも焦点を当てているのですが,絵の色は私たちの感じ方や一日の光の動きとともに変化します.光と闇が,人間の生きている空間を組み立て,女性の日々の行ないを左右しているわけです.
つまり,《ありのままの場所》では,光,色,音といった要素を通して,映画,音楽,建築,社会生活をつなぐ大きな網目が作られているんですね.そのため,たまたま熱によって生まれた赤い色も,一つの自然のプロセスとして,作品の大きな流れのなかにスッと収まっているように見えるんですよ.
ただし,この赤のシークエンスから映画を始めたということは,見ている人にいつもとは違ったふうに映画に入ってきてもらうための目印として,この色を使っているということでもあるんです.次の画面に登場する,人を引きずり出すような緑色との違いを際立たせるために,ここでは人を遠くへと引きずり込むような光を使っています――その光によって,モノを「そのものとして」見つめながら,別の気分へと投げ出されることになるんですね.
こうした状態で色と出くわすと,あなたからとても適確に表現していただいたように,内と外という二元論がしっくりといかなくなってしまう――こちらから出てきた色なのか,あちらからやってきた色なのか,もはや定かではなくなってしまいます.私の眼には家もそのように映りました――ある場所に留まりながら,一日のうち何度か違う時間にその場を撮影していると,半ば盲目のような日常の眼差しには映らない内なる風景へと開いていくかのように,光と色が不断に変化していくさまが見えるのです.

《愛のお話》の場合,色の問題はまったくといっていいほど違いますね――これははっきりと照明に関する問題として現われます.大人数のクルーが脚本に基づいて撮影する「物語映画」では,細部にわたって綿密に計画を立てねばなりませんから,締めつけの厳しい場を相手にすることになる.ならば,場を取り繕うためだけに照明を使うのではなく,心理上のリアリズムに基づいて物事を読みやすくし,序列をつけ,劇的にするために用いるとすれば,照明とはどのようなものと考えればいいのだろうか.
例えば,光を投げかけるだけでなく,光を吸収することによって,それを目に見えるものにしてみたら,どうなるか.ここで私が打った手は,質の異なる闇と,環境に応じて外のものを受容していく物の特性(質感,色調,動感,反射力)によって作られるものとして,光を体験させることでした.ここで初めて,光そのものが形をとるありようの一つとして,(《ありのままの場所》においては生の属性であったような)色の出番が回ってくるのです.ちょうどこの作品の特徴でもある原色が(相補的というよりむしろ)多様性という,互いに張り合いのある関係のなかで自己主張するように,フレームを横切る多くの光もそれぞれに独自の形や色を帯びることになるのです.
前半の話に出た言葉を用いれば,《愛のお話》における場には,人為的なものが充満していると言っていいかもしれません.もちろん,これ――すなわち,顛末ができあがっているとまではいかないまでも,念入りに組み立てられている場――は脚本のある映画を作る際には受け入れざるをえないものですから,それはそれで構いません.
ただし,繰り返しになりますが,「人為的」ということは「現実」や「本物」と対立しているわけではないのです.ある現実を形にして表わすには,「本物ならざるもの」の助けを借りなくてはならないし――画であれ,言葉であれ――作りごとを通して初めて真実が語られることになるんですよ.

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