Computer Graphics: A Half-technological Introduction

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光学メディアがグーテンベルクの印刷術と同時期にヨーロッパ文化を変革したのは偶然ではない.光学メディアは,光学として光学に対して立ち向かったのであった.カメラ・オブスキュラ[★4]から今日のテレビカメラに至るまで,このメディアはいずれも,古代の反射法則と近代の屈折法則をハードウェアに取り込んできたものである.反射と線遠近法,屈折と空気遠近法,この二つのメカニズムこそが,ヨーロッパにおける知覚に対して,遠近法的投影への帰順を誓わせたのであった.その結びつきはとても強固で,近代美術からのさまざまな反撃にも動じることはなかった.造形芸術の世界でマニュアルだけであった,あるいはフェルメールと彼のカメラ・オブスキュラにおけるように,セミオートマチックでしかなかったものを,技術メディアは視覚的なフルオートマチックとして取り入れていったのである.
ある素晴らしい日のこと,ヘンリー・フォックス・タルボットは,それまであまり上手とはいえない絵描きとしての腕を鉛筆代わりに支えてくれてきたカメラ・クララを捨てて,写真に鞍替えした.彼は自分で写真というものを,「自然の鉛筆」であると称讃したものだ.またそれほど素晴らしくないある日のこと,E・T・A・ホフマンの「砂男」の登場人物ナタナエルは,彼のクララを脇に追いやって望遠鏡を目に当てて確実な死を選び取ったのであった[★5].

そのような光学メディアに対するコンピュータ・グラフィックスの関係は,眼に対するそうした光学メディアの関係と似ている.カメラのレンズが文字通りのハードウェアとして,文字通りの「湿ったウェア」である眼をシミュレートするとすると,コンピュータ・グラフィックスとしてのソフトウェアはハードウェアをシミュレートするのである.確かにまだ反射や屈折といった光学法則はモニターや液晶(LCD)画面といった出力装置においては依然として効力をもっているが,そうした出力装置を操作するプログラムは,関係するあらゆる光学法則を代数的な純粋論理に転換してしまっているのである.
もっとも,急いで付け加えると,そこで問題になるのがたいてい視野や表面,影,あるいは光の作用といったものに関係する,光学法則のごく一部にすぎないのは事実である.しかしながら,ここではこれら一部の法則それ自身が無効となってしまっているのであって,単にほかの光学メディアにおけるように法則に対応する効果だけが無効になっただけではないのだ.芸術史家マイケル・バクサンドールは,コンピュータ・グラフィックスというものをある論理的空間としてとらえ,そこではさまざまな遠近法的描写が多かれ少なかれ豊かな部分量を形成していると考えているが,こうした考え方も驚くには値しない[★6].

光学を完全にヴァーチュアル化するということを実現させるためには,あらゆるピクセルを完全にアドレス化するということが前提となる.遠近法的空間の不連続な三次元マトリクスを行や列からなる不連続の二次元マトリクスに対応させることは双方向的には不可能であるが,片方向であれば可能である.前後上下左右といういかなる三次元的要素もヴァーチュアルなドットに対応するのであり,そのときにはそれらの二次元における代理ドットが実際の役割を果たすことになる.
こうした世界の豊かさや細部の整合性を唯一制約する要素は,利用できるコンピュータのメモリーである.そうした世界をどのような光学が支配すべきかということに関する,避けて通ることのできない,しかし必ず一面的たらざるをえない決定だけが,その世界の美学を制約するのである.

以下,私はこうしたオプションとして存在する光学の中で最も重要な二つを紹介してみたいと思う.ただ予め強調しておきたいのだが,アナログの光学メディアと比較するとき,コンピュータ・グラフィックスが光学というものをそもそもオプションにしているという事実だけでも途方もない革命なのである.確かに写真や映画であっても,広角レンズと望遠レンズのあいだで,またいろいろなカラー・フィルターのなかから,気に入ったものを選び出すということができるようになっている.
しかし,その光学的ハードウェアは,単に所与の物理的条件のもとでしなくてはならなかったことをしただけであって,「いったい画像にとって最良であるようなアルゴリズムとは何なのか」という問いは決して一度として発せられることはなかったのだ.

それに対してコンピュータ・グラフィックスというのは,ソフトウェアであるから,アルゴリズムによって成り立っており,それ以外のものではない.それゆえ,自動画像合成へと至る理想的なアルゴリズムは,何の問題もなく非アルゴリズム的に表わすことができる.つまりそれは,あらゆる光学的な,すなわち測定可能な空間に関して量子電磁力学が知っているあらゆる電磁方程式をヴァーチュアル空間にも適応しさえすればよいのであって,簡単に言えば,リチャード・ファインマンの『物理学講義』三巻本をソフトウェアに流し込めばよいのだ.そうすれば猫の皮は,異方性的表面を形成しているから,猫の皮のように光沢を放つことだろうし,ワイングラスに見える光の縞模様も,その屈折率が場所ごとに少しずつ変わっていくのであるから,後ろにあるものの光を色のスペクトルに展開する,ということになるだろう.

原理的にそうした奇跡を邪魔するものはない.普遍的な離散型マシン,一般には特にコンピュータのことを考えてよいが,それはおよそプログラム可能なものすべてを実行することができるのである.
しかし,リルケの『マルテの手記』においてだけでなく,量子電磁力学においても「現実はゆっくりしていて,筆舌に尽くしがたいほど詳細である」[★7]というのが事実である.完全な光学というものは,それでもなんとか有限の時間内でプログラムすることができるだろうが,完全な画像再現を行なうためには永遠に続くモニター待ち時間というものを必要とする.
コンピュータ・グラフィックスが光学娯楽メディアの安っぽいリアルタイム効果と異なるのは,時間を浪費するという点である.この点で古き良き画家たちが時間をたっぷり浪費したのと互角の勝負であるが,それも利用者がいらいらせずにゆっくり待ってくれればの話である.「そんなに待っていられない」という金科玉条の要求があればこそ,現実に存在するコンピュータ・グラフィックスはおしなべて「理想化」を行なわざるをえないというわけであるが,無論この理想化(Idealisierung)という言葉,ここでは哲学の場合とは反対に,ののしり言葉となっている.

最初の基本的な「理想化」というものは,物体を面として取り扱うという点に見られる.コンピュータ医学であれば,どうしても三次元の身体を表現しないわけにはいかないものだが,対照的にコンピュータ・グラフィックスは,三次元でインプットされるものを最初から二次元でアウトプットするかたちで一つ次元を減らしてしまう.しかしそうしたやり方は,先ほど例をあげたワイングラスのように透明ないし一部透明なものを扱えないだけではない.
それは,(少なくともベノワ・マンデルブロー以来[★8])例えば猫の皮や絹積雲といったものには整数で二次元とか三次元といった次元だけがあるのではなくて,例えば2.37次元といったいわゆるハウスドルフ次元があるのだという事実に対し,面と向かって侮辱するようなものなのである.したがって,例えば《ジュラシック・パーク》のようなコンピュータが作り上げた映画が,ハンス・ホルバインの描いた肖像画《大使たち》(1533)に見られる毛皮のコートと張りあおうなどとは考えないで,鎧で身を固めた,つまり視覚的には空虚な恐竜で満足していたのも,当然のことなのである.

物体が面へと還元され,ハウスドルフ次元が画像へと引き下ろされたとき,初めてコンピュータ・グラフィックスは次の問題と取り組むことになる.
すなわち,「どのヴァーチュアル・メカニズムがどの面を見せることにするのか」という問題である.選択肢として考えられるのは二つのアルゴリズム・オプションであるが,この二つは互いに矛盾しあうものであり,その結果,ほかのすべてを排斥するような一つの美学を作り上げている.リアリスティックなコンピュータ・グラフィックス,すなわち,単なる安っぽいワイヤーフレーム・モデルとは違って,伝統的なさまざまな芸術ジャンルと対抗できるようなコンピュータ・
グラフィックスというものは,レイ・トレーシングか,あるいはラジオシティのいずれかでしかありえない.ただし,この両者が同時に並び立つということはありえない.

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