Feature: music/noise

DISC GUIDE

佐々木敦
SASAKI Atsushi

テクノイズ・ジオグラフィー

 ここでは「ノイズ・ギャラリー」および拙稿「テクノイズ・マテリアリズム」で紹介したアーティストに関連したディスクを中心に取り上げていくことにする.

 まずはメゴ関係から.[s-1]はレーベルの創設者でもあるレーモン・バウアーとアンディ・ピーパーのユニット,ジェネラル・マジックのファーストCD.全編ダンス・ミュージックのパロディのような倒錯的なアイデアに満ちている.彼らはピタ(=ピーター・レーバーグ)との共作も多く,ジェネラル・マジック&ピタ,レーバーグ&バウアー名義の作品もリリースされている.そのうちの1枚,タッチからのアルバムに続きリリースされた10インチ・シングル[s-2]は,フランス・デ・ワード(カポテ・ムジーク)の電子音楽レーベルから.ここからはロエル・メールコップもリリースしている.ノイズと沈黙の狭間を行き来する,緊張感のある電子音響.[s-3]はウィーンの実験ラジオ局クンストラジオの開局10周年を記念したミニCDで,クンストラジオの音源をピタが過激にDJミックスしている.ほとんどオリジナルにしか聴こえないテクノイジィな世界である.ファーマーズ・マニュアルは,音楽のみならず,ヴィジュアル・アートやマルチメディア方面でも活躍する注目の三人組.メゴからのデビューCD[s-4]はCDエクストラになっており,一筋縄でいかないミステリアスな仕掛けが楽しめる.タッチがメゴと協力して設立したレーベル,トレイからのセカンド作[s-5]はエクストラ仕様ではないものの,サウンド的には前作を上回る奇怪な電子音響&リズムが詰め込まれている.タッチ傘下の新レーベルOR(オア)からの最新アルバムは初回のみボーナス・ライヴ盤が付いた2枚組[s-6].鼓膜を破りかねないほどのラウドな高周波エレクトロ・ノイズ.複数のレーベルよりセンス抜群のダンス・チューンを続々と発表して注目を浴びつつあるリチャード・ポタズニクの初のフル・アルバム[s-7]は,メゴとしてはやや異色のファンキーなエレクトロ集(だがやはり変).ジャズ系のベーシストだったというクリスチャン・フェネスのデビューCD[s-8]のほうは,いかにもメゴ的な反則だらけのエレクトロ作品.現時点での最新リリースであるドイツ人ヘッカーのアルバム[s-9]は,ローファイ電子機器によるノイズ・アンビエント・ミュージックである.ウィーンのシーンでは,ダンス系とノイズ系がごく自然に混じりあっていることを如実に伝えるコンピレーションが[s-10].ファーマーズ・マニュアルやフェネスといったメゴ勢に加えて,世界各国からドラムンベースやエレクトロ・ジャズ系の最先端のミュージシャンたちが参加している.日本からは池田亮司とAUBEがエントリー.

 ロエル・メールコップの作品群[s-11][s-12][s-13]は,いずれも驚くべき繊細さをもった電子音響の秀作である.彼とフランス・デ・ワードによるテクノ・デュオ,ゴームと,メールコップと同じTHU20出身で,現在はコンピュータによる音作りに専念しているイオス・スモールダースのスピリット7インチ盤[s-14]をリリースしているのは,オランダのV2が新たに立ち上げたミニマル・テクノ専門レーベル,オーディオNL.ここからはゴームの“ダンサブル”な12インチも出ている.

 [s-15]は,オヴァルの過去のアルバムからセレクトされた日本独自編集盤.最初に聴くならこれだろう.オヴァルことマーカス・ポップと,日本でも人気の高い電子ポップ・ユニット,マウス・オン・マーズのヤン・ヴェルナーの二人によるミクロストーリアのアルバム[s-16]では,ブライアン・イーノのアンビエント作品がヴァージョン・アップしたようなオブスキュアな音響空間を聴くことができる.オヴァルとアルバム『ドク』を共作しているクリストフ・シャルルのCD[s-17]は,現実音を精緻に加工した秀逸なサウンドとともにテキストや映像データが大量にコンバインされたCDエキストラである.

 カーステン・ニコライが運営するノートンは,彼自身の作品だけではなく,レーベルとしてもおおいに注目に価する.リリースはCDもアナログ盤もすべてクリアに統一されており,一貫した美学を感じさせる.シリーズの最初の作品[s-18]はソ(サイン!)ことミカ・ヴァイニオ(パンソニック)と共同で行なったインスタレーションのサウンドトラックで,いつものミクロトーンとは異なった持続的な電子音響が収録されている.[s-19]のウィリアム・バシンスキーのプロフィール等は不明だが,1982年に行なわれた短波ラジオによるパフォーマンスの記録である.まもなくリリースされるはずの[s-20]は,かつてアメリカ最初のアンビエント・テクノ・レーベル,サイレントのオーナーであり,PGR,ヘヴンリー・ミュージック・コーポレーション等複数の名義で作品を発表していたキム・カスコーンが,本名で初めてリリースするコンピュータ・ミュージック.以前の作品にはあったロマンチシズムは払拭され,幾何学的なデジタル・サウンドになっている.

 タッチからの《0℃》とほぼ並行して制作が進められたという池田亮司の[s-21]は,オランダ,スタールプラートからのリリース.「タイム」と「スペース」の2枚のミニCDから成る作品で,池田の時間論+空間論をかいま見ることができる.

 続いて,何枚かのコンピレーションを紹介する.[s-22]はMERZBOWへのトリビュート・アルバム.ジム・オルーク,パナソニック,バーナード・ギュンター,レーバーグ&バウアー,オウテカといった名だたるアーティストたちが,それぞれMERZBOWをリミックスしている.ハーシュ・ノイズを加工して静寂電子音響に仕上げてしまったギュンターの手腕には脱帽させられる.このアルバムのコンパイラーでもあり,自身もMERZBOWの何十曲かを緻密に接合した興味深いトラックを寄せているハズウェルことラッセル・ハズウェルは,サイモン・ターナーやパナソニックのエンジニア,ライヴPAでもあり,タッチ,アッシュ・インターナショナル,オアのディレクターでもあり,また現代美術のアーティストとしても注目されつつある要注意人物.メゴからソロCDをリリースする予定もあるという.そのハズウェルとマイク・ハーディング(タッチ)がプロデュースした[s-23]は「無」をテーマにした傑作2枚組コンピ.パナソニック,レーバーグ&バウアー,オヴァル,ダニエル・メンシェ,ラルフ・ウエホウスキー,CM・フォン・ハウスウォルフ,ジョン・ヒューダック&バーナード・ギュンター,M・ベーレンス,J・スモールダース,ジョン・ダンカン,エドワード・グラハム・ルイス,池田亮司,メルツバウなど,テクノイズの世界を一望するには最適.[s-24]は電磁波やラジオバンドを用いた硬質の音響作品[s-25]で知られるディスインフォメーションのリミックスを集めたものだが,コンピとしても楽しめる.アトム・ハート,ベーレンス,ブルース・ギルバート,カポテ・ムジーク,ズビグニュー・カルコフスキー,クリス&コージー等.[s-26][s-27][s-28]は,それぞれ日本(ユタ・カワサキ,丸谷功二,MSBR,アキラ・ヤマミチ,タマル,山中透),アメリカ(ケヴィン・ドラム,J・ヒューダック,ジム・オルーク,アース,D・メンシェ),ヨーロッパ(フランシスコ・ロペス,プットプット,ヘッカー,フェネス,ノト等)の先鋭的なサウンド・クリエイターを集めた3部作.アッシュの上部レーベルのタッチの最新レーベル・コンピ[s-29]には,パナソニック,クリス・ワトソン,バイオスフィア,フィリップ・ジェック,レーバーグ&バウアー,ディスインフォメーション,ファーマーズ・マニュアル,B・ギルバート,スカラ等の楽曲に,ガムランやアフリカの現地録音が絶妙に編集されている.なお,タッチの最新譜[s-32]は元キャバレー・ヴォルテール,元ハフラー・トリオのワトソンによる美しいフィールド・レコーディング.オアの[s-33]はノイズ界の注目株の緩急に富んだ摩擦音響作品である.P16D4のリーダーだったR・ウエホウスキーの作品を総勢50組のアーティストがリミックスした圧倒的ヴォリュームの5枚組[s-30]には,新旧の実験音響作家が勢ぞろいしている.そして手前味噌ながら筆者が運営するレーベルのコンピ[s-31]には,ヒューダック,レーバーグ&バウアー,オルーク,ハウスウォルフ,ウルトラサウンド,ベーレンス,池田亮司,杉本拓,スコラ,タマル,スティルアップステイパ,ローレン・マザケイン・コナーズが収録されている.

 既に紙数も少ないが,他の注目すべきアーティストを何人か駆け足で挙げてみよう.テクノイズを代表するアーティストといえるパナソニックは,最近パンソニックと改名した.彼らのデビュー・アルバム[s-34]は決定的名作.その後のシングルではややマンネリな部分もあったが,スーサイドのアラン・ヴェガと共演した[s-35]や,プラモデルのような箱に入った7インチ盤2枚組[s-36]では,初期のラディカリズムを取り戻している.[s-37][s-38]はいずれもミカ・ヴァイニオのソロ.テクノ的なリズムは取り払われ,鋭利な実験的電子音響が剥き出しになっている.ポスト・ノイズのもう一方の極といえるバーナード・ギュンターについて詳しく触れられなかったのは残念だが,[s-39][s-40]を聴いてみれば,その独創性はすぐさま了解できるだろう.彼のレーベルからも2枚挙げておく[s-41][s-42].いずれも精密さを極めた超ミニマル音響作品である.

 最後に期待の新鋭を二人.[s-43][s-44]のマシュー・トーマスはオーストラリア出身.シャープな接触不良系の電子ノイズは一部で絶賛を浴びている.[s-44]と同じオーストラリアのドロボーからデビューしたフランソワ・テタスの[s-45]は,B・ギュンターとオヴァルが共作しているような素晴らしく刺激的なアルバムである.

伊東乾
ITO Ken

ノイズに迂回する複数の道

 ノイズ・ミュージックを「行為する身体がシステムを引き受ける音楽」と捉えて,そこに至る幾つかの道筋をディスクガイドのかたちでなぞるとき,出発点にはジョン・ケージの《プリペアド・ピアノ》が相応しいだろう[i-1][i-2] .単にピアノという楽音のシステムにnoiseをもち込んだという語呂合わせ以上に,「システムを引き受ける」ことが偶然性を正面から許容するという点で,ケージのスタンス転換は決定的だ.だから,「ノイズの零度」=「音楽の零度」として次にデイヴィッド・テューダーによるケージの《4分33秒》の演奏を挙げることにしよう[i-3].行為する身体が沈黙というシステムを引き受けること,そこには「楽音」もなければ「雑音」もない,あらゆる還元を一端拒絶した振動=ヴァイブレーションの風景が広がっていた.そこで,意図をもって「音楽作品」を作るのではなく,新たなシステム(とりわけエレクトロニックなシステム)を組み上げる=コンポジットして,それに委ねるかたちで,ケージたちは音楽の,作曲の,新たな地平を見たのである[i-4].その予言をより徹底して追求したテューダー[i-5][i-6][i-7][i-8]に「ノイズの一つの始源」を見たのは小杉武久だが,その小杉たち「グループ『音楽』」の試みもまた「ノイズのもう一つの始源」の位相を占めている[i-9].また60年代の一柳慧や「フルクサス」の運動[i-10],あるいは少し遅れてジェームズ・テニーの音楽[i-11]や,日本なら鈴木昭男[i-12]の仕事も押さえておきたいと思う.ポスト・ケージと言えば,忘れてならないのはモートン・フェルドマンの仕事である[i-13].かれの拡大された時間感覚は,客体化不可能なシステム中で,きわめて穏やかなかたちで聴き手に新たな自己定位を求めるかのようだ.ここからブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックまでの距離は(サティやサウンドスケープ論をもち出すまでもなく)僅かなものである.また,続く世代からジム・オルークのしなやかなシステムも聴こえてくるだろう[i-14].カール・ストーン[i-15]らのカリフォルニアのコンポーザー=パフォーマーたち,あるいはジョン・ゾーン[i-16]の仕事なども,ポスト・ケージの視野で捉えることができる.

 「ノイズ」をめぐる地下茎は,ポスト・ケージの地平の中だけに留まりはしない.例えばエレクトロニクスと音楽とが出会った1940年代末期,ケージの「チャンス・オペレーション」に先駆けて沈黙=ノイズの諸相と直面した「ミュジック・コンクレート」.ピエール・シェフェール[i-17]らの試みは,やがてピエール・アンリらのほとんど暴力的なシステム駆動音楽によってノイズ・ミュージックに直結するだろう[i-18].ミュジック・コンクレートの投げかけた問題意識は大変に深く,その結果彼らの後継者たちは必ずしも狭義の「音楽」に収まり切らない「音のドキュメント」へと拡散してゆく.サンプリング・ミュージックから映画の音声にいたるそのスペクトルの中では,フランソワ・ミュジー+ジャン=リュック・ゴダールの,シネマ《ヌーヴェル・ヴァーグ》の完全サウンドトラック盤CD[i-19]を特筆しておこう.「音楽」と「サウンド・エフェクト」,あるいは「言葉」「声」「鳴き声」といった峻別は,ここではさしたる積極的な意味をもたない.こうしてみると「ゴダールを聴く」とは,沈黙の零度という位相でシステムを引き受ける行為だと,改めて知るのである.同じ位相でリュック・フェラーリの仕事[i-20]も捉えることができるかもしれない.

 エレクトロニクスと音楽の出会いを考えるうえで,もう一つ忘れてはならないのが「音響合成」(シンセサイジング)である.初期のシュトックハウゼンらの試みの後,最も律儀に,倫理的な審級でシンセサイザーと向き合った一人がピエール・ブーレーズである.ワトソン+クリックによるDNAの二重らせん構造の解明が端緒となって,過去の記憶(とりわけ戦時の)を宙づりにしたまま人間の本質的な問題を,ごく限られた要素の組み合わせ(なにしろたった4種の塩基の配列情報=セリーが人間一人を合成するのだから)で記述しようとするセリエリスムの基本思想.人間と世界のあらゆる音との関係は「配列」をもって確定できる,というのが,ブーレーズたちの「トータル・セリエリスム」の本質的な強味のはずだった.だが現実の「楽音」を粗っぽいセリー=音列の思考で統御しようとする目論見はただちに打ち砕かれ(《構造》《ポリフォニーX》[i-21]),ブーレーズたちはシンセサイザーの音響合成原理に目を向ける.あらゆる可聴音は正弦波の組み合わせで合成できる(と当時の彼は確信した),だとすれば,その組み合わせ=配列情報を適切にセリー化すれば人が関知するあらゆる音のシステムとのあいだに新たな音楽の修辞学を構築できるはずである.そのような確信はブーレーズの《ポエジー・プール・プヴォアール》を生み出すが,結果は作者の満足できるレヴェルではなかった(ブーレーズは後にフランス国立音響音楽研究所IRCAMを設立して作品《レポン》でこの夢を果たそうとした.ちなみに,ポスト・ブーレーズのアンチ・セリエリスムから「聴取可能な響きそのもの」へ物理的にアプローチする,いわゆる「スペクトル楽派」の運動が生まれてきた.より分節的なジェラール・グリゼ[i-22]や,より非還元的なトリスタン・ミュライユの仕事[i-23]など,重要なアプローチがここに位置づけられる).

セリエリスムの原点に目を戻せば,この流れからシュトックハウゼンの《少年の歌》[i-24]や《グルッペン》[i-25],あるいはノーノの《ラ・ファッブリカ・イリュミナータ》[i-26]などにも目を配ることができる.やがてテープの上に情報が固定された「電子音楽」は,「ライヴ・エレクトロニクス」化してノイズの地平に接続してゆくことになるだろう.ここでは特にノーノの《ダス・アトメンデ・クラールザイン(息づく清澄)》[i-27]や,日本でも98年夏に初演される大作《プロメテオ》[i-28]を挙げておこう.並行する流れで「インストゥルメンタル・コンクレート・ミュージック」ヘルムート・ラッヘンマンの仕事[i-29][i-30]を見れば,ノイズとポスト・セリエルの壁一つの距離がはっきり感じられる.すぐ向こうにはアンサンブル・モデルンとフランク・ザッパのコラボレーション[i-31]もあるではないか.

 セリエリズムへの重要なアンチ・テーゼの幾つかもまた,ノイズと至近距離にあると言える.例えばイアニス・クセナキスの仕事,初期のテープ音楽の試み[i-34]も重要だが,彼の設計したUPICシステムによる,基本的な素材音周波数の確率分布(確率波と呼ばれる)から大規模な時間構造にいたるまで,同型の数式アルゴリズムで計算してゆく「ダイナミック・ストカスティック・シンセシス」の仕事(例えば《Gendy3》など)[i-35]は,ライヴで聴くと,耳というより直接脊髄に働きかけてくる強烈な音楽だ(意識が芽生える前,受精直後で生死が定かでない記憶のような,何かヤバイものを感じさせられる気がする).

 俗に「トーン・クラスター」(密集音塊)と呼ばれる手法も,むしろシステムと人間の知覚との関係の冷静な観察から生まれたものである.ジェルジ・リゲティの《アルティクラツィオン》[i-32]など初期の電子音楽はその端緒を開いたが,リゲティは現在にいたるまで,また器楽作品でも一貫して,知覚=世界認識の方法という問題から逆説的な作品を生み出し続けている.例えば自動演奏楽器による作品集[i-33]は端的な例だろう.リゲティが高く評価する,コンロン・ナンカロウの自動ピアノ作品[i-36],あるいはポスト・ケージとリンクする,初期ミニマル,とりわけループを使ったスティーヴ・ライヒのフェイズ・シフト・ミュージック[i-37]なども,この近傍に位置づけられる.リゲティのオペラ《グラン・マカーブル》[i-38],あるいはマウリツィオ・カーゲルの《エキゾティカ》[i-39]などにも触れておきたい.

 もう一つ重要な問題として「声」のノイズ性が挙げられる.古くはディーター・シュネーベルの声の仕事があるし,60年代以後,AT&Tベル研究所のマックス・マシューズらによる電子的な音声の分析・合成技術が本格的に機能しはじめる[i-40].音声の電子解析からはヴィンコ・グロボカールの「ディスクール」シリーズなどの器楽曲からハインツ・ホリガーの《プネウマ》 などオーケストラ曲まで,様々な作品が生み出された.もちろん,ホリガーの《詩篇》[i-41]のような合唱曲や,キャシー・バーベリアンらのソロ・ヴォーカル・パフォーマンスは言うまでもない.声とデジタル・テクノロジーの交差点では,湯浅譲二の先駆的な仕事は重要だ.またポーリーン・オリヴェロス[i-42]やステュアート・デンプスター[i-43]らの「ソニック・メディテーション」も音響システムと身体のダイナミックな関係性という点で特筆しておくべきだろう.そんな眺望から,システムと身体の反方法論という地点に立って高橋悠治の《エゲン》[i-44]を聴きなおせば,また新たな響きを聴きだすことが可能なのではないだろうか.

 身体とシステムという見地から最後に裏技を三つほど挙げておこう.ジャチント・シェルシの特異な作品群[i-45]の多くは,シェルシ自身がアナログの電気ノイズ楽器を繰り返し即興演奏して,その録音を第三者に採譜させるというプロセスを経て作られた.一時は「シェルシの盗作問題」として騒がれたが,これほどラディカルに「行為する身体がシステムを引き受けること」によって作曲を貫徹した例は他にはないだろう.記名性や能記の他者性といったレヴェルまで,「シェルシ問題」は終わらない議論をいまも誘発している.そのように「ノイズの古層」に分け入ってゆくと,長らく心を病んだシェルシのみならず,心身の日常分節の臨界点に踏み込まないわけには行かない.とどめを刺すのはアントナン・アルトーのラジオ放送禁止録音《神の審判と決別するために》だろう.しかし,私たちは「起源」が伝説のみならず「いま・此処」にも開かれていることに気づかねばならない.さまざまな「障害」をもつ身体と音のシステムの交差点に立つ,ジャン・デュビュッフェの《音楽的実験》[i-46]は,ノイズの地平の上に広がる,忘れかけていた青空を思い出させてくれる.


[資料協力/SPECIAL THANKS TO: 高見一樹+TOWER RECORDS]

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