特集: 音楽/ノイズ--21世紀のオルタナティブ
架橋される60年代音楽シーン

★1――正式名称は「日本アンデパンダン展」であるが,先行する日本美術会主催の同じ名称の展覧会と区別するため,主催者の読売新聞社にちなんだ通称が一般に流布されている.同展は,既成の公募団体展の旧弊を打破すべくアンデパンダン(無審査自由出品)の形式を打ちだし,1949年に創設された.1回展から旧東京都美術館を会場として,海外の同時代の美術とも呼応した,若手作家の活動の拠点となった.特に60年代に入ってからは,「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」(★8参照),「九州派」(桜井孝身,菊畑茂久馬,オチオサムら),「時間派」(中沢潮,田中不二ら),「ハイレッド・センター」(高松次郎,赤瀬川原平,中西夏之ら)などのグループの結成,活動と密接にリンクし,行為そのものを提示する傾向をもたらし,従来の展覧会の枠をおおきくはみだすこととなった.この間,12回展(60)に出品された工藤哲巳(★3参照)の作品が「ガラクタの反芸術」と呼ばれ,こうした急進的な「反芸術」の牙城と化した同展に対し,都美術館は陳列作品規格基準を制定し,「汚い,臭い,危険な」作品の締め出しを図った.これに対しては論議や抗議が起こったが,主催者の読売新聞社がその社会的役割を終えたとして,展覧会の中止を一方的に表明し,63年の第15回展をもってその幕を閉じた.

★2――「読売アンデパンダン展」の中止が決定された1964年4月,ブリヂストン美術館ホールで開かれた公開討論会「反芸術,是か非か」(司会=東野芳明/出席者=池田龍雄,磯崎新,一柳慧,杉浦康平,針生一郎,三木富雄)に端を発した東野芳明と宮川淳とのあいだに起こった論争.「読売アンデパンダン展」などに糾合された「反芸術」を「卑俗な日常性への降下」ととらえた宮川淳とそこに新たな試みを見出そうとする東野との論争は,その過程に東野と高階秀爾とのあいだに起こったポップ・アートをめぐる論争とも絡み合い,60年代前半の美術の問題点を集約することになった.

★3――1935−1990.「アンフォルメル(不定形芸術)旋風」吹き荒れる1957年東京芸大在学中に初個展.以降初期のグループ活動をへて,62年「第2回国際青年美術家展」で大賞受賞.同年,パリに移り,70年代はおもにヨーロッパで活躍.絵画,オブジェ,インスタレーション,ハプニングとその表現の形式は重層化するが,日常の素材をアッサンブラージュし,グロテスクで攻撃的な手法は,造形一辺倒の表現に終始することなく,一種の「社会評論の模型」を標榜する.87年には母校東京芸大の教授に迎えられるが,90年死去.没後の94年,「工藤哲巳回顧展――異議と創造」が大阪の国立国際美術館で開催され,話題となった.いち早く工藤の作品を認め擁護したフランスの美術評論家アラン・ジュフロワは,「オブジェクトゥール=異議を唱える人/オブジェをつくる人」と評している.

★4――1932−.通称「牛ちゃん」で親しまれている篠原は,60年代のエネルギーを体現するキャラクターとして登場.「ネオ・ダダ」に与し,その容姿(モヒカン刈り)と奇行で「ロカビリー画家」などとテレビや週刊誌をにぎわせた.その作品も,ハプニングとジャンクが手を結んだグロテスクでユーモラスなもの.「ボクシング・ペインティング」「イミテーション・アート」「花魁」シリーズをへて,渡米してからの「オートバイ」シリーズなど,いまもって60年代の感性を謳歌するエネルギッシュな活動を続ける.1997年,立石大河亞,横尾忠則らとの現代の浮世絵をテーマにしたグループ展(三鷹市民ギャラリー)に参加した.

★5――1958年5月15日.カニングハムは 《ピアノとオーケストラのためのコンサート》を指揮.コンサートを企画したのは画家のジャスパー・ジョーンズ,ロバート・ラウシェンバーグと映画プロデューサーのエミール・デ・アントニオであった.このコンサートの実況録音盤は,ドイツのヴェルゴ・レーベルから3枚組CDで再発されている.

★6――David TUDOR(1926−96).アメリカのピアニスト・作曲家.ジョン・ケージの長年のコラボレーターで,ケージ,シュトックハウゼンなどの現代ピアノ作品の傑出した演奏者であった.のちに独自の電子音響システムによるライヴ・エレクトロニック・ミュージックや電子音響環境《レインフォレスト》の実践に転じた.『InterCommunication』26号,伊東乾氏の論稿(p.96)参照.

★7――ラウシェンバーグ,ケージ,テューダー,ルシンダ・チャイルズらのアーティストと40人のエンジニアが参加したアート&テクノロジーのイヴェント.ラウシェンバーグとビリー・クリューヴァーの企画により,ニューヨークの第69連隊兵器庫で1966年10月に開催.参考:森岡祥倫「曖昧なコラボレーション:ビリー・クリューヴァーとEAT」(『InterCommunication』17号,1996,pp. 157−164).

★8――「読売アンデパンダン展」に拠る吉村益信,篠原有司男(★4参照),赤瀬川原平,荒川修作,風倉省作(匠),豊島壮六,岩崎邦彦,石橋清治,上野紀三,上田純が,1960年に結成,銀座画廊で第1回展を開催.そのアナーキーで活力に満ちたすさまじさのため,画廊を締め出された彼らは,第2回展を吉村益信アトリエ(通称「ホワイトハウス」/磯崎新の設計)で,田中信太郎,吉野辰海らを加えて開催した.一種の「ワイルド・パーティ」の観を呈するその活動には,ほかに田辺三太郎,岸本清子,木下新らも参加したが,周辺にいた三木富雄と工藤哲巳は最後までメンバーには加わらなかった.その後,TBSの依頼で鎌倉材木座海岸および安養院で「ビーチ・ショウ」を行ない,つづく日比谷公園野外展では作品は荒れに荒れ,東京都公園課は会場を閉鎖した.活動の頂点では東京都美術館爆破計画が練られたりもする.こうした自己破壊的な芸術衝動は,村松画廊で個展を開催した作品が美学的であるという理由で荒川修作をメンバーから除名することにいたり,さらに「ホワイトハウス」が閉じられることによって,1年に満たないその過激な活動に終止符が打たれた.

★9――土方巽を中心とする舞踏家の集団.1956年にドナルド・リチー,若松美黄,金森馨,諸井誠,黛敏郎,土方巽によって開かれた「650・ダンス・エクスペリエンスの会」が,暗黒舞踏派の公演会として60,61年にももたれたことから,56年の結成とも言われる.その後《あんま――愛欲を支える劇場の話》(63),《バラ色ダンス――澁澤さん家の方へ》(65),《性愛恩懲学指南図絵――トマト》(66),《肉体の叛乱》(68)を上演.肉体の古層に巣くう土俗的,呪術的情念を独自のモダンな解釈を加えて表出する鮮烈,奔放な舞台は,従来のモダン・ダンスを大きく逸脱するもので,60年代神話の一つといわれる.こうした舞台は,澁澤龍彦,吉岡実,加藤郁也,飯島耕一,三好豊一郎,種村季弘ほかの詩人,作家を目黒の稽古場「アスベスト館」に拠らせることになり,一種のサロンを形成した.その活動に糾合された美術家,デザイナー,写真家は多く,水谷勇夫,吉村益信,田中不二,中西夏之,加納光於,田中一光,赤瀬川原平,風倉匠,池田龍雄,谷川晃一,横尾忠則,中村宏,池田満寿夫,菊畑茂久馬,宇佐見圭司,三木富雄,野中ユリ,細江英公,石元泰博,深瀬昌久らとさまざまなかたちでのコラボレーションがもたれた.1972年には「燔犠大踏鑑・第二次暗黒舞踏派」が結成され,記念公演として「四季のための27晩」5作品が,新宿・アートシアターで27日間上演され,前代未聞の連続公演は話題となった.その後,門下から麿赤児率いる「大駱駝鑑」が独立旗揚げし,その記念講演を最後に土方は舞台から遠ざかった.74年に「白桃房」を結成し,振付に専念するようになるが,その後「大駱駝艦」からは,「北方舞踏派」「背火」「山海塾」「白虎社」と細胞分裂し,海外にも舞踏という言葉が流布されていく.そうした事態を尻目に,83年『病める舞姫』を著わした土方は第三次暗黒舞踏派を結成したが,86年に亡くなった.1998年土方の13回忌を記念して池田20世紀美術館での展覧会をはじめ,さまざまな企画催事がもたれ,その舞踏の要諦が弟子の一人和栗由紀夫によってCD-ROM『舞踏花伝』にまとめられた.

★10――東京芸術大学楽理科で作曲家の柴田南雄と民族音楽学者の小泉文夫に師事していた水野修孝,小杉武久,塩見千枝子(現在・允枝子)らが中心になり,刀根康尚,戸島美喜夫,柘植元一を加えて結成された前衛音楽集団.のちに武田明倫が参加.1961年9月,草月会館で開催された第1回演奏会のタイトル「即興音楽と音響オブジェのコンサート」に象徴されるように,即興演奏,偶然性の音楽,イヴェントなどを60年代に展開した.

★11――作曲家の柴田南雄,入野義朗,黛敏郎,諸井誠らによって結成,音楽評論家の吉田秀和を所長に迎え,ダルムシュタットの「新音楽のための国際夏期講習」の日本版をめざして,現代音楽のコンサートとセミナーを企画.1957−65年の間に6回(軽井沢で3回,大阪・京都・東京で各1回),「現代音楽祭」を開催した.一柳氏が参加したのは61年,大阪,御堂筋の相愛女子短期大学講堂で開催された第4回.

★12――武満徹と一柳慧の企画・構成による現代音楽祭.1966年と68年の2回開催.小沢征爾らの指揮により,武満,一柳,湯浅譲二,高橋悠治,小杉武久ら日本の作曲家の作品を演奏するとともに,リゲティ,クセナキス,ケージ,ペンデレツキ,ライヒなどの作品を日本に紹介した.ライヒの《ピアノ・フェイズ》(67)は第2回に一柳氏が日本初演.《アップ・トゥ・デイト・アプローズ》(68)は,第2回に演奏.グループ・サウンズのモップスと日本フィルハーモニー管弦楽団の生演奏と録音テープが,東京文化会館で「共演」した.

★13――1929−96.詩人,音楽評論家,元多摩美術大学教授.海外の現代音楽の紹介者として,また日本の新しい作曲家の代弁者として健筆をふるった.著書=『現代音楽をどう聴くか』(晶文社,1973),『日本の作曲家たち』(上・下,全音楽譜出版社,1978,79),『日本の映画音楽史 1』(田畑書店,1974),『エリック・サティ覚え書』(青土社,1990)など.

★14――1963年,京都現代音楽祭で初演.「『プラティヤハラ・イヴェント』は,二つの点で従来の音楽とはちがった構造をもった作品である.一つはこの曲は,人間の呼吸を基本にしている点である.呼吸は腹式呼吸か,それができない場合は深呼吸でもよいのだが,息の長さが,パフォーマンスの内容と時間的にかかわりをもっている.(…中略…)もう一つは,この作品は三名以上のパフォーマーによって演奏演技されるが,各奏者は他のパフォーマーの行っていることとのかかわりのうえに,自らの演奏や演技を成立させていかなければならない点である.したがって,特定のパフォーマーとの間に,つねに緊迫した関係が形成されることになる.プラティヤハラとは,サンスクリット語で,五感のコントロール法を意味している」(一柳慧『音楽という営み』NTT出版,1998,pp. 189−192).

★15――Iannis XENAKIS(1922−).作曲家.ルーマニア生まれのギリシア人.第二次大戦中,アテネで対独レジスタンスに参加.戦後,ギリシア共産党の非合法活動をへて47年フランスに亡命.確率論やコンピュータを駆使した斬新な音響で,セリー音楽以後の西欧の前衛音楽の第一人者となった.代表作《メタスタシス》(55),《エオンタ》(66)など.『InterCommunication』24号にインタヴュー掲載.

★16――Gyorgy LIGETI(1923−).作曲家.ハンガリー生まれ.ハンガリー動乱(56)を機に西側に移住.トーン・クラスター(近接する音を同時に鳴らして「音の束」をつくる手法)を多用した《アトモスフェール》(61)はとくに有名.他の代表作に《ロンターノ》(67),オペラ《ル・グラン・マカーブル》(74−77)など.現在,ドイツ在住.

★17――尹伊桑(1917−95).作曲家.韓国生まれ.ベルリン在住中の67年,韓国中央情報局によりスパイ容疑でソウルに強制連行され,終身刑を宣告されたが,国際世論を背景に2年後に釈放されベルリンに戻る.代表作は《流動》(64),《礼楽》(66),オペラ《胡蝶の未亡人》(68),《チェロ協奏曲》(76),《交響曲第1番》(83)など.

★18――Sophia GUBAIDULINA(1931 −).作曲家.旧ソヴィエト連邦タタール生まれ.戦後の旧ソ連のもっとも重要な現代作曲家のひとりだが,80年代のペレストロイカの時期までその存在はほとんど西欧に知られていなかった.代表作《イン・クローチェ》(79),《オフェルトリウム》(80)など.92年,ドイツに移住.98年,高松宮殿下記念世界文化賞受賞.

★19――Mauricio KAGEL(1931−).作曲家.アルゼンチン生まれのユダヤ人.57年,ドイツに移住.その活動は音楽のみならずラジオドラマ,映画制作にまで多岐にわたり,視覚的・演劇的な要素を大胆に取り入れた作品で知られる.またオーケストラやオペラ劇場といった「制度」を主題としてとりあげた作品をつくっている,代表作《マッチ》(64),《ハレルヤ》(67−68),《国立劇場》(71),《二つの人間オーケストラ》(73)など.

★20――Luigi NONO(1924−90).イタリアの作曲家.『InterCommunication』26号グロボカール・インタヴューの註(p.92)参照.《プロメテオ》(84)は「聴くことについての悲劇」の副題をもつノーノ晩年の大作.台本は哲学者のマッシーモ・カッチャーリ.

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