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荒川修作/マドリン・ギンズの映画上映

川/ギンズ展の関連企画として, 《意味のメカニズム》のプロジェクトと同時期に,二人が制作した2本の映画が日本では27年ぶりにICCシアターで公開上映された.

《Why Not(A Serenade of Eschato-logical Ecology)/なぜそうではないのか(終末論的エコロジーのセレナーデ)》(1969年,110分/1月24日−3月29日の毎金曜日上映)には,マルセル・デュシャンのモチーフを思わせる「自転車」や「ドア」が現われるが,荒川自身は,「デュシャンは関係ない」と言い,むしろ「この映画は,イミテーション(模造・模倣)をつくろうとしている」という点を強調していた.

主人公の女性が,テーブルの上に乗って縁をなぞったり,椅子に足を乗せながら手を使って歩いたり,ソファーの下にもぐってその重みに耐えていたのは,それらの物品の模倣を行なっている様子なのかもしれない.荒川は,自身の建築構想の説明として,長い年月生活してきた住居の壁が,住人にとってなつかしいものになるという例を挙げる.空間と人間のあいだに生起するこの「なつかしさ」こそ,その住人が死んだ後も死なずに残りつづけ,さらには,新しい生命が生まれる空間となるというのである.このように考えたとき,この映画に流れている親密なみずみずしい雰囲気が理解されるのかもしれない.ただし,ラストに至って,ドアの「開け」−「閉じ」の反復的なシーンの直後,主人公は,死を思わせる謎のシーンを迎える.「クローズ(閉じよ)」−「オープン(開け)」,「ダウン」−「アップ」という言葉に応じて,他者の手(「作家の手」のメタファーか)が,主人公の手と眼を開閉する.生死の臨界における「クローズ」−「オープン」は,二人の共著『死なないために』における生の概念,「切り閉じ(クリーヴィング)」を想起させる.この映画の主人公,そして,荒川/ギンズは,ドアの蝶番に生死の運命の反転可能性を模倣させている.

《For Example(A Critique of Never) /たとえば 未 の批判)》(1971年,95 分/1月24日−3月29日の毎日上映)のマニュスクリプトには,「『意味のメカニズム』から派生したメロドラマ」とあり,浮浪者の少年が路上で,実験心理学的試みを行なっている.主人公は,歩くことによって,矩形や円形に歩道を区切り,酔っ払いの歩行をまね,遊び場の遊具で妙な訓練をしながら,日常空間の中でメタレヴェルの意味(論)の場を身体的に切り開いていく.しかし,外部に開かれた路上での実験は,決して容易ではない.酔っ払いに殴られそうになり,つい隣のブランコに乗っている子供の背を押してにらまれ,通行人の手を勝手につかんで拒否されたりする.この実験物語は,ラスト近くで,電話ボックスの四面を囲む厚いガラスの壁に体を衝突させつづけるクライマックスを迎える.結局は,ガラスは破壊されず,少年自身が痛みと傷を負いながら,ボックスの外に這い出していくのだが,この均質空間のメタファーとも言えるガラスへの衝突を通じて,身体的な感覚が逆に覚醒され,新たな知覚の可能性が開かれていくのであろうか.

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