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特集・サイバーアジア

J-E

カラオケ現象
だれのためのインフォテインメント?


いや,こっちの質問のほうが先だ

「大いなる文化的断絶」をはさんで,二つの問いが睨みあっている.しかも,相手が撤退するまではと,どちらもその場を去ろうとはしない.

 その問いとはこうだ──「アート」とは西洋的概念なのか? カラオケとはアジア的現象なのか?

 そして日本文化を大陸に根づかせる必要を感じている人たちはみな,この二つの疑問に拘束されて,西を見たり東を見たりするあまり,すっかり首が凝ってしまっているありさまだ.

 これらの問いは,シリアスで見かけよりは微妙な問題であり(はじめのほうの問いは,この夏ニュージーランドで開催された展示会/シンポジウムのテーマでありタイトルでもあった),しかも両者は,驚くほど深く関連しあっているのだ.これに対する人びとの反応──「答え」ではありえない──は,ポスト植民地時代のアジアのアイデンティティについての彼らの立場をことさらに露呈させる.また,これらの問いかけそのものが,今日のアジアの「知的所有」や「アート上の独創性(オリジナリティ)」といった問題に大きくかかわってくる.おそらく,この二つの問いは夜が明けるまでデュエットしつづけるのだろう.

image カンボジア中部,
コンポントムの市場にある
音楽カセットのコピーを造って売る店.
コピー・カセットの値段は
1本当たり約50−80円.

「アート」って,それが何だ?

 どんな民族でも,創造性は永遠にあふれだしつづける.秩序と伝統を保持しようとする傾向と戯れながら表現や革新を求めつづけるクリエイティヴな試みが「文化」そのものだ,とまでみなされる.絵を描くことも歌うこともない人間社会など,想像もできまい.しかしながらアジアの文化はどれも,19世紀になるまで「アート」という言葉を必要としなかったらしいのだ.西欧で言う「アート」は,多様な表現形態や「より高い」美の追求といった広い範囲を意味する.こうした概念は有名な作家の作品によって形成されたものだ.だが,それは,通常,西洋の植民地権力の教育制度を通じてローカルに輸出されたにすぎない.おおむねそれと同時期に(英領マラヤやビルマといったイギリスの植民地では,おそらくウィリアム・モリスの時代に),「アート」の訳語があちこちに現われる.以来,“beauty+skill”[美+術]ないしは“talent+skill”[芸+術]という漢字熟語が広くアジア大陸に行き渡る.またインドの文化圏では,パーリ語かサンスクリットから異なるニュアンスの語を組み合わせることで,“fresh+wisdom”(ミャンマー語では anupinnya)のような「アート」に相当する語をつくりだした.その他の小さな文化圏の多くは,まだ「アート」に相当する語をもっていない.

 しかも,個人による知的な探求としての「アート」は,依然として本質的には外来文化なのだ.近代化=西欧化された諸国で西洋の(モダン)アートを模倣した例をのぞけば.アジア諸国の大都会の「画廊租界(ギャラリー・ゲットー)」は,西欧人になりたがる連中に占拠されている──観客やコレクターのほとんどは,外交官であり,移住したビジネスマンであり,旅行者なのだ.というわけで,中国各地にはそれなりの桂林を描くセザンヌもいれば,油絵で人形を描くインドネシアのデ・クーニングもいる.アート作品の「テーマ」は「地方色」を反映していても,なんのための作品かというコンセプチュアルな枠組みに色合いがないのだ──コンセプトだからこそ無色──その場所とは無縁に.そこにはたしかに,さしせまった衝動もなければ,アートによって何かを変えることができるといった臆見もない.こうした収集=所有可能な社会批評や個人的探求といったアート「チップ」は,より大きな社会の「マザーボード」にはフィットしない.その国本来の回路は十分豪華で装飾的だったにもかかわらず.「個としてのアーティスト」には居場所がない.

 アジアのほとんどでは,明日以後「アート」がなくなったとしても悲しむものは誰もいない──はっきり,そう感じてしまうのだ.

space Ka-La-OK

 これとは対照的に,カラオケ人気が,大々的な社会現象としてアジアを席捲している.数字に語らせてみよう──カラオケのアジア諸国への進出ぶりは,ハード,ソフトの販売数と来客数でみると,西欧の数百倍に及んでいる.一番カラオケ・テクノロジーの発達している日本──カラオケという名称は1976年にクラリオンが発売したテープ式の製品ではじめて使われた──では,カラオケは数兆円の巨大エンターテインメント産業になっている.エレクトロニクス産業,音楽産業,ヴィデオ・ケーブルTV産業については,言うまでもあるまい.1983年以前は,手っとりばやく声をリバーブさせて歌えるマイクつき音響システム[カラオケ・セット]は,日本の全世帯数に対し,その10%にすぎなかった.それが1994年以降になると,都市部の成年人口の35%が,1週間に10万回以上もカラオケ設備のある店に通っていることになる(あるいはもっと多いかもしれない).

 韓国では──この国では人前で突然歌い出しても問題ないくらいなのだが──3万室以上の「ノルバン」と呼ばれるカラオケ・ルームと1万3000軒のカラオケ・バーがある.

  「世界最大の市場」ともいわれる中国のケースは,カラオケ・ブームの前には個人所得が低いことなどなんの障害にもならないことの証明になる.一晩歌い明かして6000円という料金は,工場労働者の収入1カ月分に相当するだろう.にもかかわらず,北京語や広東語,福建語,その他の方言のレーザーディスク──サブタイトルが二つ付いていることもある──の需要は爆発的だ.香港やシンガポールでは,カラオケ・クラブ,または「カラオケ・リクエスト」ブースを備えたレストランが主だが,その総数は6万店に及んでいる.

 だが裏返してB面を見てみると,北米大陸全体で,カラオケ設備のある店は3万店にすぎないとされている――ヨーロッパ全体では1万.LDで流通しているフットボール・ソングやMTVクラシックスには適当なレパートリーがあるというのに,「マイクでやる」というものはあまり流行りそうにないのだ(もっとも南欧では,仲間どうしで陽気に歌うのがもっと自然なので,カラオケを受け入れる素地は多分にあるだろう).

 そのとおり,でもイギリス人はカラオケ好きですよ──カラオケ・メーカーや商社は言う.たしかに,アメリカのポップ・ミュージック,あの「世界を均質化する(グローバリゼーション)ドラム・ビート」をカラオケ化する余地はある(あるアメリカ人に言わせると,カラオケの元祖は60年代初期の『ミッチと歌おう』というTV番組で,歌詞の上をボールが跳んでいく画面を懐かしく思いだすそうだ).そこで彼らは,アジアにテレビが浸透するスピードと並行して,緩慢にではあるが,やがて西欧にも「大ブームが巻き起こる」と予想する.だが,この比較はまやかしだ──戦後のアジアはきわめて貧しく,今日の西欧諸国のような購買力(不況にもかかわらず)などまったくなかったのだから.

 カラオケに対する腰の重さ,いや抵抗と呼んでもいいほどのものが存在することは明白だ.曲に自国語の歌詞がついて親しみやすくなったところで,西欧人にとってカラオケ体験は究極的には無縁なのだ.ここで問わなければならない──なぜ,ジョニーはマイクが嫌いなのか?

space カラオクラシーの心

『ウォークマンの修辞学』(朝日出版社,1981)のなかで細川周平は,ウォークマンの,そして「ウォークマン体験」の売れ行きを決定的なものにしたアンビヴァレンスについて語っている.決して世界初のポータブルな音楽機器ではなかったにもかかわらず,ウォークマンが人びとにアピールしたのは,自閉的ユニットだったからである,と.この「ガジェット」は,自分と都市とのあいだの半透明なスクリーンであり,独立感覚を強化する.それは,徹底的に都市的でありながら都市を忘れさせ,都市環境をサウンドの背景と化してみせる.身体中の穴という穴に滑り込ませようとばかりに意匠を凝らし,しかも孤立して非=性的というわけだ.

  「カラオケ現象」がもたらすのは,いわばその鏡のイメージだ.高度なテクノロジーが使われているにもかかわらず,カラオケは断じて「未来的」ではない.田舎臭い村祭の再現なのだ(ときとして,より「グローバルなヴィレッジ」へ向かう「マイ・ウェイ」を突き進んではいるが).それは社会的な位置づけと絆づくりを包括する環境であり,性的なロール・プレイング・ゲームでもある.選択はつねに他人の期待に折り合うようになされ,集団性が陽気なかたちで強制された結果,「自由な」参加が義務となるなるのだ.「閉じた環」を主張する,アジア型縁故門閥主義(ノンメリトクラシー)としてのカラオケ.そこに通う人びとは,才能云々でなく,いっしょに歌い適当に手拍子を打ってさえいれば,自分が受け入れられることを知っている.もちろんカラオケは楽しくて,エゴの支えになることがある.特に子宮的な相互依存環境のなかで「甘える」ある種のチーム・プレイヤーにとっては.ああ,何という共鳴感…….

 個人の表現があふれかえる世界,その極まりとしてのコンテンポラリー・アート・シーンのような「何でもあり」の自由な表現環境に育った者たちにとって,カラオケは「リラックスして」ではなく「働け」と言っているように聞こえる.人に媚びる芸,狭い世間で気を遣いながらも楽しくやっていくための社交術──そういったインタラクティヴ・パフォーマンスはゴメンだ.なかでも特にこれをイヤだと言うのが,アメリカの核家族世代だ.彼らは,自分たちがいかに因習から解放されているかに集団的プライドをもち,自分独自の歌を歌う「権利」としての「開放(オープン)性」を主張する.ブースのなかの仲間うちのDJなしで,なぜマイクの前の15分間の栄光を獲得できるのだろう? だが,このことは逆に,西欧では,カトリックで家族をより大切にする南欧諸国がカラオケの洗礼を受けやすい理由を示唆している.したがって,カラオケから得られる経済的利益がもっと大きくなりさえすれば,ラテンアメリカやアフリカにも,真の「非アジア的カラオケ・ブーム」が到来するかもしれない.すでにインドはダビング天国と化しているのだから.

汎アジア的スターという幻想

 ハイブリッドで無国籍なインフォテインメントの世界では,その曲の作者や選曲者など,もうまったくわからない.膨大な数のチャンネルに乗って信号が流れるので,誰にも追跡できないのだ.韓国のジャンヒ君がコピーしたものが,タイのマーリさんのオリジナルになる.歌詞を消し,メロディをサンプリングし,ちょっとマーケティングして名前を売り出せば,あとは歌手などだれでもいい.マクロなレヴェルでいうと,これこそが真の「なんでもあり」だ.市場シェアは,時間的な要素も地理的な要素も同じぐらい大事だ.問題はこうだ――いまや「アジア」という市場が,どこに,いつあるのか? それはひとつの場所か,同一の瞬間か? 数十年も隔たる南北のテクノロジー・ギャップは跳び越えうるものか? 私たちは巨大な「いっしょに歌おう」一族のメンバーなのか? 経済大国ジャパンInc.の時代が到来(再来)しようとしているのか?

 日本の企業や政治的指導者の多くが,アジア随一の経済成長を追求しながらも「アジアへの回帰」──「新日本人論」というかたちでの,長く失われていた「ルーツ」探し──を遂げようとしているとき,この現代版「亜細亜共栄圏構想」の完璧なサウンドトラックとなるのが,非西欧的な価値をもち集団的ハーモニーの倍音をともなうカラオケなのだ.汎アジア的スターが地平線上に姿を現わす機は熟した.となれば,バンドンのビートルズは,いったいどこにいる?

 ここ10年の間に CHAGE & ASKA が行なった数多くのアジア・ツアーには,大いに謝意を表わすべきだ.にもかかわらず,来たるべきアジアの大ポップ・スターは日本人ではあるまい.東南アジアの多く,とくに,中国系商業コミュニティが大幅に進出して「新上流階層」を形成しつつあるポスト社会主義圏では,カラオケは日本からの輸入品というより中国のものとみなされる傾向にある.カンボジア,ラオス,ヴェトナム,ミャンマーでは,「カラオケ・レストラン=クラブ」や「カラオケ・バー」は「中国系」資本──シンガポール,香港,台湾,あるいはマレーシア出身の華僑と,中国本土出身の華人との区別はむずかしい──と結びついており,その常連客の大部分もまたチャイニーズ・コネクションのエリートたちなのだ.カラオケ・ビデオの生産地はさまざまだが,レーザーディスクはシンガポール製と決まっている(プレーヤーのハードには,通常,日本製か韓国製のラベルがついているが). 長距離バスや列車では,北京語のカラオケが「旅の伴」となるのが通例だ.乗客の多くは,画面上に流れる歌詞が理解できないというのに.

 バンコクのようなもっと国際化された都市には,ホステスのいる日本人カラオケ・クラブ(日本人中間管理職が群れ集う排他的な「重役さん租界(ジャパニーズ・ゲットー)」)が古くからあり,日本的なカラオケのイメージが浸透している.しかし,こうした経験をもたない東南アジア諸国の大多数の人びとにとってのカラオケとは,元気な女の子がマスター・テープに合わせて歌い(これは「からっぽ+オーケストラ」というカラオケ本来の意味に近い),聴衆のなかのファンから金銭で褒美をもらう「ステージ・ショー」なのだ.カラオケがよく売春と関係していることがあるのも偶然ではない.新しいテープの流通スピードは,とくに中心的な商業都市から離れた地方では,とてもはやいとはいえない──1年のうち6カ月もテープ・ラックにとどまっているヒット・ソングもあり,そのころには中国語の発音がほぼ完璧に記憶されて,音節がちゃんとした音節になっているのだ.

東洋は紅い(ルージュ)

 ムーディな女性シンガー中島みゆきの失恋を歌ったバラード「ルージュ」が,この2年の間,汎アジア的な流行をみせ,一種頌歌的なポップ・ソングとして愛好されている――もちろんオリジナルとはちがっているが.10年の遅れもどこへやら──その理由として,コミュニケーションが発達し,購買力は拡大し,イデオロギー上の規制は弱まったというタイムリーな三点セットを挙げることも可能だが…….こうした要素はすべて,広東ポップの若き妖精フェイ・ウォン(初期の芸名は「シャーリー・ウォン」)の顔に集約されている.彼女の歌う「容易受傷的女人(傷つきやすい女)」は──中島みゆきの曲のカバーだが──香港と台湾で同時に,たちまちゴールデン・ヒットを記録した(中国本土でも「超大ヒット」).曲はたしかに中島みゆきのものだとはいえ,フェイ・ウォンの歌った歌詞はオリジナルとは無関係で,むしろ台湾の故テレサ・テン──おそらくは彼女こそが汎アジア的スターに最も近い存在だったにちがいない(北京語,広東語,台湾語,日本語,英語,それにインドネシア語まで使って録音しているのだから)──の抑揚に富んだセミ・クラシカルなスタイルに似ている.もっとも,このこと自体は,さほど注目すべきことではない.

 ところが1995年になると,同じメロディが,ヌー・クィンのヴェト・ラップ(Viet-rap)ナンバーとしてヴェトナムに,ディスコ・チャチャ(!)「メガダンス」としてカンボジアに,エイ・チャン・メイの「カラオケ・ショー」ナンバーとしてミャンマーに登場する(どこかにまだほかのヴァージョンがあったら,教えてください).これらの国々(このアジア?)の人びとがみなこの歌(これらの歌?)を口ずさみ,きらめくライトとミラー・ボールのもとで,いろんなヴァージョンの「ルージュ」のリズムが刻まれている.だがこの段階にいたるまで,中島みゆきに著作権があることなどまったく知られていなかったし,今後も知られないままに終わる可能性がきわめて高い.楽器編成,アレンジ,そして歌詞の内容は全面的に変えられているが,歌うのはつねに女性だ──カラオケの世界では性別はきっちり固定されている.そして厳密な「オリジナリティ」の問題は,またしても一顧だにされないのだ.現場不在の音楽著作権使用料徴収者をのぞいては.

さあ,いっしょに歌おう

 そこで,あの「大いなる文化的断絶」に戻るわけだ.独自の「アートという概念」を守ろうとするチャンピオンたちと,増えつづける「創造的コンテクスト」の一族との反目に.

  「著作権」が西欧に起源をもつことは疑いないし,「著作権の侵害」がアジア固有の問題でなどありえないことも明白だ(たとえばウィリアム・ペンシンガーは,大著『ホー・ビンの月〈The Moon of Hoa Binh〉』[1994]のなかで,次のような[いくぶん希望的な]観測さえ提出している──アジアの集合的精神は「より高所から」「どこか他所から」やってくるように思われる,と.それは生成装置ではなく減圧して伝達する装置なのであり,ここ低所での「所有」とか「縄張りの欲求」とはかかわりない).真の問題は,このような「知的所有」性が「普遍的に」適用できるのかどうかだ.あるいは,情報の流れを厳格に規則化してコントロールし,経済原則を強制しようとするのが賢明かどうかだ.インフォテインメント業界は,再録防止のハッキングに対し,より高速な副搬送波信号(サブキャリア)でモニタリングすることで,消費量を算定して料金を請求する.もちろん,他の周波数への信号漏れも常にある.とくに,法律上の対決より「社会的封じ込め」の方が優先されるような文化においては.出版されたひとつの楽譜より,カラオケの複数性が生み出すハーモニーというわけだ.

 テクノ・グローバリゼーションの発展にともなって,おそらくレコーディング・スタジオとカラオケ・ラウンジとの境界は消滅するだろう.だったら次回は,エルヴィス・コステロの『トラスト』をフランシス・フクヤマ・ヴァージョンでリクエストできるのかな?

(アルフレッド バーンバウム・翻訳家,映像作家/ 訳=よこやま りょう・翻訳)



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