フィリップ・ケオ(以下PQ)――ヴァーチュアル・コミュニティという概念が何百種類もある,と言ったわけだけど,気をつけなくてはならないのは,グループウェアのような,ヴァーチュアル・コミュニティ本来の性質の一部だけを強化したもの,あるいはネット上で行なわれている商取引ないしは学問的な情報交換,あるいはワールド・チャット,マイクロソフトのVチャット,インテルのムンド,ザ・パレスといったお遊び主体のコミュニティ,こういったものを本質的に区別して考える必要があるということだ.
僕自身,今いちばん面白いと思っているのはヴァーチュアルな変装技術(アヴァタル)を使ってコミュニケーションしあうもの,つまりワールド・チャットやVチャットやムンドだね.理由はパラドックスを抱えているからだ.ここが特に強調したいところだが,僕たちはこれまで他者との関係を「実在(プレゼンス)」と「 表象(レプリゼンテーション) 」というふたつの概念によって理解してきたわけだけれど,こうしたコミュニティではそういう古典的な対立関係は成立しない.ヴァーチュアルなアヴァタルを使った場合,ある意味では自分という人間は実在しているが完全にそうかと言えばそうでもない,しかし実在には違いない――そういう奇妙な撞着状態が発生するんだ.
こうしたコミュニティはテクノロジーが発達すればますます急速に,ますますダイナミックに変化していくだろう.そうすれば他者との関係は確実に変わるだろうね.自分自身の捉え方,現実の見方が変わっていく.もしかするとアフリカにある部族の世界のようになるのかも知れない.どんな顔を所有しているかで自分とまわりとの関係が決まる.そこでは子供が生まれるとその子の顔に瘢痕文身(スカリフィケーション)を施すんだ.それが人間社会に入るための通過儀礼になっている.ひょっとしてサイバースペースが進化すると,こうしたアフリカ的な状態になるかも知れないよ.つまりね,サイバースペース社会で生きるためには,一種のスカリフィケーションをまとわなくてはならなくなるかも知れない.もちろん本物ではなくメタファーとしてのスカリフィケーションだ.人間は本来,複雑きわまりない存在だが,ヴァーチュアル・コミュニティに入る時には自分を非常に単純化ないしは象徴化する必要があるのかも知れない.
PQ――うん,これもヴィリリオに似た比喩になるけど,中世,13世紀の神学者トマス・アクィナスの有名な言葉を引用したい.アクィナスはこんな問いかけをした.「天使はどこに居るのか?」答えは「天使は,実際に居る場所ではなく,何かに働きかけている場所に居る.愛を授けている場所に居る」.
僕たちにも同じ問いかけができる.例えば 仮想(ヴァーチュアル)外科手術だ.ヴァーチュアルな外科医は一体どこに居るというべきか? 物理的には? ニューヨーク? 外科医として実践している場所はどこなのか? 例えばネットワークを介してアフリカに居るのか? 答えは明らかにこうだ.「外科医の居る場所は外科医として実践している場所である」――実践が究極的に行なわれている場所.実践が彼らの存在そのものなんだ.
遠隔現前(テレプレゼンス)のシステムによってサイバースペースが拡大しつつある今日,僕らはこういう問いにぶつかる.「一体私はどこに居るのか? 今座っているここか,それとも心的作用が起こっている場所か?」
そこで混乱の危険が生じる.現実性(リアリティ)のさまざまなレベル,仮想性(ヴァーチュアリティ)のさまざまなレベルを明確に捉えることが難しくなってくる,そこでの混乱だ.曖昧化はどんどん高度なものになっているわけだから.僕の唯一の心配は新しいタイプのコミュニケーション不能者,つまりヴァーチュアルなコミュニケーションの技術を持たない人たちの間で精神的な混乱が起こるだろうということだ.しかも現実のいろんなレベルを精神的に理解する能力をもたない人間にとってもやはり,大きな問題が生じるだろう.さっき反宗教改革の話が出たけど,ルターの改革は僕を含め一部の人間にとっては印刷技術と結びついている.グーテンベルクの印刷技術の発明とルターの改革思想の普及には深い関係があるんだ.聖書の普及によって改革が実践されたわけだから.
今日もまた新しい印刷技術が開拓されつつある.デジタル技術,ヴァーチュアル技術による印刷だ.そこでまた,今日なりの新しい「改革」が必要になるになるのかも知れない.そして新しい読み書きのシステムね.
これを現代に置き換えるとどうだろう.日本を例にとると,ほとんどの企業は今でも,重要な決定は必ずミーティングを開いて行なうという方針を貫いている,という話を聞いたことがある.リモート・コネクションやテレコミュニケーション技術を使えばどんな決定も可能なはずだが,大事なことはあくまでもみんなが集まっているところで決めなくてはならないんだな.ヴァーチュアル・ミーティングはまだ認められていない.現代のこうした傾向についてはどう思う?
PQ――新しい時代に適応できるかどうかという問題ね.僕も日本を相手に取引契約をするときは実際にそこに居なくてはいけない,という話を聞いた.一方,アメリカやヨーロッパではFAXで済ませられるから,そこに居なくてもいい.単純に適応の問題だと思うよ.「そこに居る」時間が互いにないという時代になれば,それは絶対条件にはならなくなるだろう.
要は,リアリティとヴァーチュアリティのいろんなレベルが混ざりあえば,それだけ多様な行動様式や条件や対応の仕方が生まれるだろう,ということ.「居る」という物理的な存在の仕方にさまざまなレベルが出てくる.時間ももっと複雑な様相を帯びてくる.僕たちは同時に物理的に存在し,ヴァーチュアルにも存在する.その混ざり具合はじつに多様になっていくと思う.とくれば,僕たちの行動の仕方も変わるだろう.もちろん戦争ゲームの世界に比べればお遊びの世界は他愛のないものだがね.
カナ(レバノン南部)で起こった大量虐殺を考えてみよう.国連軍のキャンプが襲撃されて100人以上もの死者が出たことがあったが,後で小さな無人機の存在が突き止められた.パイロットのいないこの小さな偵察機には非常に正確な偵察技術が搭載されていた.つまり,背後にはブレーンがいて,それがこの無人偵察機の中にヴァーチュアルに存在していたわけだ.
この話は一般化できる.こういうことは戦争に限らず,例えば金融の世界でも行なわれているんだ.目ならぬ計算技術つきの頭脳.世界のマネー・フローを分析する技術で,この惑星を見張っているわけだ.
EH――そのことを端的に示したのが,パリのクレディ・リヨネ銀行本店で起こった火事の一件だろう.火事の翌日にはすべての機能がちゃんと作動していた.そこで新聞はこう書き始めた.「ヴァーチュアルな操作で完璧に運営できるのなら,そもそもなぜ2500人もの行員やら本店の建物やらが必要だったのか?」これについてはどんな風に見ている?
PQ――いや,ヴァーチュアル・カンパニー化する企業はどんどん増えているよ.クレディ・リヨネ銀行が翌日に完全復帰できた理由は,別の場所にバックアップのコンピュータ・システムがあったからだ.だからパリのど真ん中にオフィスを構える必要は本当はない.ヴァーチュアル・ネットワークを構築しているから,どの国のどのポイントからでも取引は可能なんだよ.実際,オフィス・スペースを縮小する会社は増える一方だ.例えばフランスのIBMは商談用のオフィスやマーケティング・スタッフのオフィスをすでに撤廃している.彼らの商業空間はラップトップで操作するグループウェア技術とセルラー電話回線だけでできている.それでおしまい.
人間社会のヴァーチュアル化はますます進んでいる.ビジネスの世界しかり,プロフェッショナルの世界しかり.だがわれわれは,例えば金融界のプロとして,外科手術のプロとして,あるいは戦争のスパイないしはゲーム・プレーヤーとして「ヴァーチュアルに存在する」ことの意味を十分には理解していないんだな.何をするかによって「ヴァーチュアル」の質は異なるし,そこで起こり得るミスに対する責任の質も異なるだろう.
僕の仮説はこうだ.「現実」だとわれわれがみなしていることをヴァーチュアルに表象する技術が発達すればするほど,現実そのものも変わっていくだろう.このふたつは互いに無関係ではない.現実とはあくまでも現実だとわれわれが捉えていることにすぎない.円の価値は,われわれがそうだと思っている価値そのものにすぎない.絶対的な価値というものはなく,すべては社会のつくりごとだ.円がそうなら戦争だってそうだ.生存の危機に瀕している国についても同じことが言えるし,ほかのたくさんの問題についてもそうだ.
僕たちは今,ヴァーチュアル技術の発達だけが頼りになりそうな,とてつもなく大きな課題に直面している.それは単に現実を忠実に描いてみせるという技術ではなく,数学モデルを媒体に現実のモデルを作りだす技術でもある.
EH――そこで君の言う「アヴァタル」についてちょっと聞きたい.仮面には,必ず何かを表象すると同時に「何かを隠す」という機能がある.仮面の裏に何かを隠す.言い換えれば集団の社会的価値観に則ってアイデンティティを示す一方,自らをその後ろに隠すということだ.では,アヴァタルの場合はどうか.今言ったような文化的二面性について説明してくれないか.アヴァタルを使う人間はそれによって自分を表現するのか.コンピュータ上のヴァーチュアルな環境の中でアヴァタルという仮面の下に自らを隠しているとも言えるのかどうか.
聖書には人間は「神のイメージ」として作られたと書いてある.むろん,メタファーだ.何のメタファーかと言えば「無限」のメタファーだ.しかし表象にはいくつもの欠点がある.少なくとも今の表象技術にはある.顔のもつ無限の意味の可能性を抑圧してしまうという欠点だ.
僕にとってアヴァタルの大きなリスクは哲学的なものなんだ.アヴァタルは現実としてわれわれが捉えているものを過度に単純化する.他者として捉えているものの過度な単純化.われわれ自身として捉えているものの過度な単純化.つまり,新しいタイプの鏡だと考えればいい.文字どおりの鏡でもあり,われわれ自身を表象する鏡でもある.アリスのように,鏡の向こうにあるものに魅せられてしまうというリスクがそこにはあるんだ.
EH――企業内コミュニケーションを例に考えてみると,みんなが物理的に居合わせる必要があるのは,コミュニケーションというものが多分に潜在意識のレベルで行なわれるからだ,ということがよく言われる.大事なビジネス交渉において,人々は実際の発言内容よりむしろちょっとした仕草なんかでコミュニケートする,というわけだ.そうした交渉がサイバースペースのようにアヴァタルを使って行なわれるとしよう.さっき,ディテールの無限性がアヴァタルに移される段階で限定されてしまうと言ったけど,今後の開発によってはどうなの? 例えば顔の「無限性」にどんどん近づいていくのか,あるいは別の方向へ向かうのか?
PQ――リアリズムという点では発展の可能性は膨大だろうね.だが問題はそこじゃない.たとえ完璧にリアルなアヴァタルを獲得することができたとしても,深みの不完全さはやはり残るだろう.なぜなら表象は所詮表象に過ぎないからだ.「ここに居る」とか「あそこに居る」といった,本当のプレゼンスにははるかに大きな魔力があるんだよ.
アヴァタルの研究やコンピュータによるコミュニケーション技術の開発をつぶさに見てきた僕に言えることは,エンジニア主導で開発されたプロジェクトは圧倒的に多いが,今のわれわれには文化人類学とか芸術とか宗教といったものにも結び付いた,より深い理解が必要だということだ.ことに宗教は仮面や容貌とつねに関わりがあった.
アフリカのある部族の話をさっきもしたけど,彼らは生の顔を持たない.何らかの加工がほどこされていなければ顔とみなされないんだ.この加工が宗教的な意味を持つ.スカリフィケーションが必要で,しかもそれは何でもいいというわけではなく,非常に個人的なものでなくてはならない.叫びの痕であるとか死に関係したものとか.子供が生まれるとまずスカリフィケーションをする.その子が生まれた時間や,予言された死の時間を顔に刻みこむんだ.人間の生命はそういう風に理解することも可能なんだよね.
たしかに現代文明に暮らす僕たちにとってはちょっと分かりにくいが,じつに含蓄のある話だろう.「一体,われわれはここで何をしているのか?」――重要な問いはこれに尽きるかも知れない.グループウェアを作っているだけじゃないはずだ.人々といったい何を交換しているんだろう? ビジネス・ミーティングをするためだけじゃないはずだ.
アヴァタルの開発に関して僕が唯一懸念しているのは,それがゲームとか非常に単純な取引といった極端に狭い範囲にしかフィットしていないことだ.人間そのものと本質的にかかわることには向いていないどころか,危険ですらある.われわれと実在性との関係を歪める傾向を持っているからだよ.結論をストレートに言えば,ヴァーチュアル性を開拓することは,すなわちわれわれの現実認識を汚染することになる.
PQ――知ってのとおり,「エポケー」は現象学の核心的な概念だ.これまで言ってきたように,僕たちは実在と表象を混同してしまっているわけだが,このエポケーがひとつの方法論的ツールとして使えるかも知れないと考えたんだ.エポケーというのは世界に対して信じていることをすべて停止する,ひとつの方法論でありトレーニングの手法だ.われわれ自身と問題とのあいだに距離を取ること.フッサールが言うように,それが現象学的還元であるわけだ.
今,僕たちは現実のレベルが多様化し,仮想のレベルが多様化する中で混乱の度合いを強めている.エポケーという手段を使うことによって距離を作る,つまりそうしたさまざまなレベルのどれかひとつに性急にジャンプしてしまわないようにすることができるんじゃないか.ある意味で,表象とは「実在のエポケー」だと言える.どんな表象も一種の「距離」であるわけだから.フランス語や英語でははっきり分かる通り,「実在(プレゼンス)」と「表象(レプリゼンテーション)」は対立関係にある.レプリゼンテーションというのはプレゼンスの「リニューアル版」みたいなものだ.
さらに言えば,フランス語でも英語でも「プレゼント」という言葉には二重の意味がある.「現在」と「贈り物」だ.このダブル・ミーニングを分析すると面白い.実在する,つまり実在を実感する場所に居ることは非常にリアルな贈り物である,ということなんだ.エポケーとは「どこかに居る」という,所詮は幻想でしかないきわめて単純な感覚から脱出するために必要な手段なんだ.表象という幻想から脱出するためには,これを研究する必要があると思った.
EH――すると,エポケーの感覚を表現するアヴァタルというものを,君は実際に想像しているわけだ.コミュニケーション・ネットワークにおいて現実と距離を取り,判断停止を助けてくれるようなアヴァタルを.いや,哲学概念が必ず実践に結び付かなければならないというわけじゃないが,事実,君はアヴァタルを理論だけでなく実際に応用しようとしている.しかし現実には,アヴァタルの開発によって,君が言ったのとは逆の事態も容易に起こり得るだろう.さっきフッサールの概念が方法論的な概念になり得ると言ったけど,アヴァタルをデザインする際,その考え方をどんな風に応用しているのかな?
EH――素晴らしいアイデアだと思うよ.「エポケー・ツールボックス」なんてのができたりしてね.ネットワーク・コミュニケーションのための表象形態を開発する人たち必携のユーティリティになるかも知れない.新しいコンセプトだね(笑).
PQ――エポケー・ツールにはもうひとつアイデアがある.顔の筋肉を強化する特殊技術によって,自分の表情を変えることができるんだ.目や筋肉の動きは,イメージ処理のアルゴリズムによってちょっぴりフィルターがかけられている.だから表情を豊かにするために信号を強めてやらなくてはならないんだ.だが,この考えを進めれば,過剰表現が可能になる.つまりカブキ役者のように,表情を強化することが可能になる.それは一種の正体を隠したエポケー・ツールだ.だってそいつが自分自身を過剰表現しているとは信じられないだろう.そういった過剰性に到達するのが面白いのは,フッサールの言葉で言えば「自らをカッコの中に入れる」究極の状態を先取りすることになると思うからだ.信念の停止とは自分をカッコに入れるようなもの,自分の思考を抽象化するようなものだ.
EH――さて時間がなくなったが,「エポケー・ツールボックス」のアイデアは本当に気に入った.哲学的な補助概念としてとても興味深い.きっと何かに発展するような気がするよ.
[1996年5月13日,京都府相楽郡精華町の京阪奈関西文化学術研究都市にて]
(フィリップ ケオ・情報工学/エルキ フータモ・視聴覚文化論/訳=おおた かよこ・エディター)