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知的所有権

[自由としての知的所有権]
「知的所有権」は,現代の情報流通の結節点に立つ,ヤヌス神である.

 17世紀,近代市民社会の原理を確立したロックは,「所有権」を基本的自然権とみなし,個人の自由と尊厳の基盤とした.この所有権には知的所有権も含まれる.この時点で,知的所有権の概念は,王権による言論統制に対する「抵抗」の拠点だった.

 ただし,ロックの思想を継承した「アメリカ独立宣言」では,この「所有権」概念にかえて「個人の幸福を追求する権利」が取り上げられている.これはロックにおける「所有権」が,今日では後者の言葉によって理解されるものに近いためだろう.

 では「個人の幸福を追求する権利」とは何か? それは「自分が自分である権利」と要約できよう.個人のアイデンティティを構成する「自分の領域」には「所有物」とともに「情報」も含まれる.言い換えれば,ある人物の表出(知的所有物)を不当に侵害することは,その人物のアイデンティティそのものへの攻撃となるのである.

 この意味で,知的所有権はプライバシー権等と同様十分尊重されなければならない.

[不自由としての知的所有権]
 しかし一方で,「知的所有権」はしばしば「自由」に対する足枷ともなる.

 たとえば,自分の作品中にヒット曲の歌詞を使いたい.でもそれは大変危険なことだ.許諾を受けずに使えば問題になる.歌詞が間違っていたら「不当な改変」にあたる.

 先頃話題になった「カーマーカー特許」は,従来特許の対象とならなかった数学の解法に特許を与えたことで,社会に衝撃を与えた.極端な話,たとえば足し算の計算方法に特許が与えられたとしたら,あるいはある種の言葉に知的所有権が与えられたら,多くの人々は知的生産に関与できなくなる恐れすらある.

 こうした問題は,人間が社会的存在であり,既存の文化に負って成長する以上,真にオリジナルな創作/発明はあり得ない,という根源的原因による.言い換えれば,過度の権利の主張は,社会の知的活動を抑制することになる.日常の中で,知的所有権に言及することが何となく忌避されるのは,この自由と公共性の背反の故である.

[武力としての知的所有権]
 今日,問題は更に複雑だ.ロックの時代とは異なり,現代においては,知的所有の主体は個人よりも組織に傾きがちである.そして,組織間の自由競争では,前項に挙げたような「倫理観」つまり「自由と公共性の調和に関する配慮」は期待できない.ウィーナーが早くから指摘し,ノラ・マンク・レポートが警鐘を鳴らした問題でもある.

 すなわち,知的所有権制度は,先行者利得の保護を図ることで,既得情報資源を多く保有するものを過剰に利し,情報格差を拡大しかねない.このとき,知的所有権は,強者(巨大組織)が弱者(個人,後発企業など)を圧倒するための強力な武力となる.

 しかも,強力な組織による知的独占は,前項にも述べたように,社会全体の文化や学問の活性を奪い,究極的には不毛の荒野に人類の知的財産を死蔵する事態をもたらすかもしれない.

[公共領域としてのインターネット]
 ヤヌスの相貌をもつ「知的所有権」は,インターネット社会において,ますます鋭利な牙をむき出しつつある.情報に関する認識が高まるとともに,情報のデジタル化やインターネットの拡大が情報の流通/複製可能性を高めているためである.

 米国のクリントン大統領は情報スーパーハイウェイ構想において知的所有権問題の重要性を指摘し,現在,世界知的所有権機構(WIPO)でも活発な審議がなされている.

 インターネットに対する期待の一つとして「地球村」の理想があった.地球村とは,個人の自由と公共性とが幸福に結ばれる,知的交流のための公共空間を指すのだろう.近代民主主義の限界がいわれて久しい.しかし,われわれには夢見る権利がある.夢を少しでも現実にするために,少なくとも夢の亡骸を抱いて泣くことのないように,いま,多くの人々が「知的所有権」について考え,発言すべき時ではないだろうか.

(えんどう かおる・社会学)