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特集ハイパーライブラリー

「該当するデータはありません」データベースの知識政治学 桂英史

公益(public interest)と知識政治学

 科学計画を分担するにあたって,強力なリーダーシップが必要不可欠であることを今世紀最大のテクノクラートであるヴァネヴァー・ブッシュは強調していた[★1].公益に対する要求と,その行動の規制が政府機関によって遂行されなければならないとしていたのである.ブッシュがめざしていた「公益」とは何か.直接的には,基幹産業の育成を意味している.しかしながら,今世紀最大のテクノクラートとしてのブッシュが意図する「公益」は,より明確な国家観に基づいている.

 ブッシュが強調する「公益」はいささかわかりにくい概念である.ただ,アメリカという国家の輪郭を理解する上では重要なので少し丁寧に検証しておこう.

 たとえば,「公衆衛生」という考え方は,あくまで近代国家のグランド・デザインに基づいている.いささか極端に言えば,「公衆衛生」という観点からすれば,国民一人ひとりの健康状態はどうでもよい.ここで重要であることは,集団としての国民が近代国家にとって成立の最大の要件であることだ.数が大きくてその数が維持されなくては,権力を維持する見通しが立たない.つまり,安定した権力と生産力を維持するためには,必要最小限の健康状態がどうしても要求されるのである.疫病が蔓延し国民の健康状態が悪化する事態では,労働力が大幅に減少し生産力が落ちる.その結果,権力を維持していく上での最も大きな基盤である経済力や国際競争力に大きな影を落としてしまうのである.「公衆衛生」は国家の規模を決定するマクロ政治学の典型的な変数なのである. 「公衆衛生」と同様に,ブッシュは「公益」を国家権力を維持し国際競争力を向上させるための重要な変数として位置づけた.第二次世界大戦後の新しいマクロ政治学の指標として「公益」を採択したのである.「公 益パブリツク・インタレスト」を直訳すると,公衆パブリツクのための「利子インタレスト」である.では,ブッシュが想定していた「利子」とは何か.それは全面戦争に勝利しアメリカの正義がコスモポリタニズムを獲得することである.「戦争は別の手段をもってする政治の継続である」[★2]のだから,「全面戦争」を戦うことが権力の維持や拡大にとって大きな要因となるのだ.

 では,ブッシュはどのように「利子」を継続的に獲得しようとしたのか.結論から言うと,科学政策と通商政策に基づく知識政治学を巧妙に導入したのである.なかでも,知識政治学の形式として「情報」を重視した.情報が政治機械に対して「利子」を継続的にもたらすと直観していたのだ.ブッシュの情報論は,「“情報”という語は,敵および敵国に関する知識の全体を意味し,従ってまた戦争における我が方の計画ならびに行動の基礎を成すものである」[★3]1というクラウゼヴィッツの定義に凡庸なまでに符合している.ブッシュのテクノクラシーによれば,科学は世界観のデザインであり,産業は世界観の生産である.単に自然の解釈であることを超えた科学と,その科学の成果を応用した産業の生産力は,世界を建築物のように作ってしまう.科学計画は世界のデザインそのものなのだ.そして当時の状況は,言うまでもなく,米ソ冷戦という「全面戦争」(ポール・ヴィリリオ)である.冷戦という戦争状態は,力を実際には行使しないまま,習慣化した知識を拡大しながら力を誇示しにらみ合いを続ける全面戦争である.戦争の当事者たちがもっている武器の性能や兵士の数などは,全面戦争を構成するエレメントなのだ.つまり,「敵および敵国に関する知識の全体」を獲得し「戦争における我が方の計画ならびに行動の基礎」を決定することが,全面戦争を政治の継続として遂行していくことにとって,「公益」なのである.教育や「知のあり方」を構想しそれを強力に振興するブッシュ流の知識政治学によって,全面戦争を遂行する政治機械は正当化される.と同時に,国民に対しては機会均等といった民主主義の原則を見かけ上約束する政治機械を安定させるのである.だからこそ,ブッシュの知識政治学は,一定の割合で国家に「利子」を約束するのだ.

 「公益」は,国家の知性そのものなのだ.「公益」を大義名分とするブッシュの知識政治学は,もちろんその後のテクノクラートにも継承されていく.たとえば,ジェローム・ウィズナー(ジョン・F・ケネディ大統領の科学顧問)は,テレビ放送というメディアを政治機械として採用する一方で,国民には民主主義の道具として利用することを啓蒙した.テレビという情報伝達の形態は,まさに「公益」そのものである.アメリカの戦後は,テクノクラートの知識政治学に導かれて強力に「公益」を追求することになったのである.

 

情報科学(Information Science)の誕生

 さらに,ここではブッシュの「公益」が「科学計画」の文脈から登場していることに注目しておこう.「科学計画」に基づく「科学共同体」の編制は,テクノクラートの最も重要な政治過程である.「科学共同体」がどのように編制されているか.この科学的共同体が,「公益」にとって非常に重要な意味を持つのだ.

 スコラ哲学的な考え方からすれば,ある主張や陳述の権威はその作者に由来する.ところが,フーコーも述べたように,近代科学は知の権威を反転させてしまった.知の権威は作者に由来するのではなく,非個人的な事柄であればあるほど事実に近いと考えられるようになったのである.科学共同体における知のあり方は,個人の独自性や恣意性を徹底的に排除することによって成り立っているのである.もちろん,この独自性と恣意性の排除は,「科学は常に客観的でなければならない」というドグマが極端に信奉されることによって起こったことである.そして,ドゥルーズ&ガタリが述べているように,「情報は,命令としての指図を送り,伝え,遵守するために必要最小限のものでしかない」[★4]にも拘わらず,情報はわれわれの生に指図を送っている.情報は個人を自動的に抹殺しつつわれわれの生に指図を送っている知の権威なのである.とするならば,非個人的なプロセスによって導出される情報をコンピュータを用いて処理したり管理したりする科学的な方法論は,コミュニケーションの「通貨」として情報がどういうものでなければならないかという問題をめぐる,支配的概念に対する解答であったことを誕生の起源としているのだ.このように,コミュニケーションにおける機械の使用を,受け入れやすく効果的なものにするために情報科学が発展させてきた理論とその法則は(常に明示されているとは限らないにしても)明快なものだし,広く理解されてもきた.こうした理論とその法則は,信頼のおける「公益」の担い手としての情報科学の安定化を図ってきた.それと同時に,コンピュータという機械の技術革新と歩調を合わせつつ,データの入力と交換というとても地道でありながら重要な「公益」を正当化したり体系化したりしていく.そして,情報科学の対象としては,科学技術はもちろんのこと,金融や医学(医療)といったコミュニケーションの実践も含まれている.こうして情報科学は,「公益」をもたらすコミュニケーションの理想として,正統的な地位を強固に確立してきたのである.

 もちろん,ブッシュ流のテクノクラシーによって登場した情報科学は,「公益」という利子となって国家という政治機械に反映されなければならない.米ソ冷戦という全面戦争を背景として,情報科学は翻訳という言表行為と資料という形式を重要な対象として採択した.ロシア語の文献資料が精力的に収集されていく一方で,資料の効率的な活用が急務とされるようになったのである.あらゆるロシア語資料の翻訳が期待され,莫大な数にのぼる資料をすばやく探し出せて利用できることが,情報科学の大きな使命となったのである.そのような状況下で,「機械翻訳」と「機械可読型目録」の二大プロジェクトが着手されることになった.

「機械翻訳」のプロジェクトは,文字どおり自動的に翻訳を実現するコンピュータ技術の確立をめざすプロジェクトである.コンピュータを介して世界中の言語を瞬時のうちに英語にしてしまうという,当時の状況からすればいささか荒唐無稽なプロジェクトである.言語の奔放なふるまいをコンピュータによって制御し翻訳という言表行為を意のままにコントロールしてしまうことができれば,世界はアメリカの手中に落ちる.コンピュータの利用を前提とする言語学は,そんな考え方に発展していく.たとえば,「言語学の父」として言語を科学の対象として理論化することを大きく前進させたノーム・チョムスキーは,まさに「全面戦争の申し子」なのである.チョムスキーは政治的な評論活動を続けているが,言語に深く関われば関わるほど政治的にならざるを得ないことはチョムスキー本人も認めている.また,「人工知能」という研究開発も,その延長線上に発展していった.フォン・ノイマンを博士論文の審査員とし,人工知能と認知科学をリードしつづけたマーヴィン・ミンスキーも,そうした全面戦争下で若い時期を過ごし,情報科学とコンピュータの政治的な役割を十分に意識しながら新しい領域を開拓していった,それまでにはいなかったタイプの科学者である.

 一方,「機械可読型目録」は巨大なデータベース構築のさきがけとなるプロジェクトとなった.つまり,コンピュータを用いて文字で表現された言語を収集し管理する方法に道を開いたのである.そして,アメリカ国内はもとより,世界中の図書館がこの機械化に歩調を合わせていった.世界中の図書館をコンピュータによって要塞化することが,「自動化」や「合理化」を大義名分として展開されていくことになったのである.議会図書館を中枢的な基地とする「言表行為の集団的アレンジメント」[★5]が,データベース技術によって強化されることになったのである.かつて,ゲーテは図書館を称して,「音もなく数え切れない利子を生み出す大資本を前にしているような思いがする」と述べたことがある.全面戦争を後方支援する「公益」は,「言表行為の集団的アレンジメント」を効果的に遂行する上で重要なエンジンとなったのだ.

 米ソ冷戦という全面戦争下で構想された情報科学が,翻訳という言表行為と資料という記述の形式を対象として採択したことは,何にも増して重要な問題をわれわれに示唆している.翻訳という言表行為も,資料という記述の形式も,とりわけ発話行為に関わるからである.そもそも発話とは,目の前にいる他者に向かって,直接口を開いて自らの意志を言葉で表現する行為を指す.たとえば,機械翻訳システムを設計したり,データベースを構築したりすることは,発話の規則を編制することなのだ.いわば,集団化のための文法である.「文法の規則は,構文法の目印である前に,権力の目印なのだ」[★6]というドゥルーズ&ガタリを引用するまでもなく,情報科学は国家という政治機械に権力の目印を刻印するのである.

 

情報伝達という発話行為

――データはどのように情報となるか?
 ここで,「情報とは何か」という問いを発するとどうだろう.単に不毛に終わってしまうだろうか.情報を単なる科学用語だと考えるならば,「情報とは何か」という問いはまるで不毛である.ただ,情報をひとつの他者の言葉の引用,すなわち社会的な話法だと考えるとすると,「情報という社会的な話法とは何か」という問いに置き換えることができるだろう.その延長線上に「データはどのように情報となるか?」という問いも浮上してくるに違いない.とすれば,「公益」や「権力の目印」にも関連するため,「情報とは何か」という問いは俄然有効性を帯びてくるはずである.

 事実,情報の伝達には大きな社会的な役割が与えられつつある.情報はほとんど文化や経済や政治といった言葉と同様に,当たり前のようにわれわれの生活に定着している.情報という用語は,人間の行動や思考あるいは習慣のさまざまな次元に応じてわれわれを取り囲んでいる.経済情報,気象情報,道路交通情報など,情報はわれわれの日常をカバーする「生活被膜」になっている.ところが,情報そのものについて考えようとすると,なかなか困難を伴うことになる.ここでは,科学共同体での「公益」から情報という概念を引き出したブッシュの情報論を再び思い出してみよう.情報が「公益」として位置づけられることは,あるモデルまたは視点を通して観察され,記号化された事実をもとに組み立てられる意思決定に基づいている.視点やモデルは,ある種の前提があってこそ成立している.つまり,パラダイムとは,ある判断や意思決定を行なう上で知らず知らずのうちに受け入れている前提である.その実,科学共同体の前提は,われわれが考えている以上に恣意的なのである.パラダイムは言語でも情報でもない.信念や欲望のメタファーなのだ.

 われわれはパラダイムのようなメタファーに身を任せつつも,結果的にそのメタファーを構成する原理と相互に影響し合うことを執拗に追い求めようとしている.「科学的である」という発話は,さまざまな「言表行為の集団的アレンジメント」に,自らの欲望や自我あるいは直感を委ね,「言表行為の集団的アレンジメント」からフィードバックされるその習慣や規約を学習していくことなのである.この習慣や規約は,われわれの日常生活において,「生活被膜」として機能する.その「生活被膜」としての情報には,習慣や規約を共有したり強制したりする言表行為の社会性が備わっていることは否定できない.その言表行為の社会的性格に関して,ドゥルーズ&ガタリは「言表行為の社会的性格は,いかにして言表行為がそれ自体集団的アレンジメントにかかわっているか示すことができるとき,はじめて内的に基礎づけられる」[★7]と述べている.

 言表が音声の単位で規則的に分割されるのと同様に,ある概念や属性も物理的あるいは社会的に分類される.知の森羅万象を収録したデータベースが存在したとしても,それは物理的かつ社会的な分類の規則をどこかに内蔵しているはずだ.そのデータベースは,何らかのかたちで言表を取り扱わざるを得ない.とすれば,状況という時系列の変化に対する耐久性も備えていなければならない.

 言語哲学がずっと以前から明らかにしているように,言語というコミュニケーションの形式は,因果関係による制約とは関わりがない.慣習的で場当たり的な運用に基づいていて,利用し得る音声言語を直面している状況に当てはめていくのである.この発話行為論に即して考えると,特定のコミュニケーション行為(特定の科学共同体で自らの仮説や発見あるいは観察の結果を発表すること)におけるデータベースの使用は,ある「発話における内的な力」を持つ.言うまでもなく,特定のデータベースに与えられる内的な力は,利用するコンテクストによって変わってくる.もちろん,データベースには明確な制約が定義されている.他の種類の物理的な人工物と同じように,当然ながらデータベースも特定の用途に合ったものでなければならない.適切な機能を保証できるような特質を備えていることが設計上はどうしても必要となるのである.この点に,話し言葉の発話状況との違いがある.そのため,データベースで用いられるコンピュータには,大量のデータを目的に応じて操作できるような工夫が施されている.中でも,データベース管理システムと呼ばれる基本ソフトウェアは,大量の属性を付与されたデータを擁する基地の中で司令塔のような役割を果たしている.データベース管理システムは,次の二つの発話の状況をユーザーに与えながら,情報伝達という発話行為を保証している.

 まず第一に,データベースが利用される発話の状況は,ごく単純な方法で言表行為そのものと関わりを持つ.データにどんな属性が記述されているかによって,データベースはユーザーに対して発話の状況を与えてしてしまう.つまり,あるデータを他のデータと差異化するために完全かつ正確に記録するといった方法を取る以上,データベースを利用した瞬間にユーザーの欲望や信念,すなわちパラダイムが決定される.と同時に,データベースに収録されたデータは情報伝達という発話行為を発生させる.こうした発話行為のプロセスからくる言表の特徴は,そこから生じるデータベースをコミュニケーション行為の中でどのような用途に用いることができるかという範囲を非常に明白な形で定義しておく必要を生じさせる.たとえば問い合わせやユーザー・ヴューといった概念は,あるデータに対するパス(道すじ)を報告したり,ある物体がある特定の属性を持つべきことを規定したり,ある物体がある属性を持つであろうことを保証するために定義される.書物が収められた図書館の書架では,もちろんこうした操作は事実上不可能である.コンピュータに人工的な操作言語(インターフェイス)が備わっているからこそ可能な言表なのである.

 第二に,コミュニケーション行為に使われるデータベースの操作は,その主題(データの属性)に対して正しい関係を持つものでなければならない(言い換えれば,正しい種類の物についてのデータベースでなければならない).税関で用いられているデータベースのデータを用いるにあたって,税関職員がその貨物の内容物を特定するためには使えるが,(当然ながら)ある特定の個人をテロリストや麻薬の売人扱いするような目的で使うことはできない.それがデータベースで保証されている正しさである.報告や特定や命令などのコミュニケーション行為をデータベースを用いて実践することは,「正しい」という言表を,データベースに収録されたデータとそれを操作する体系ごとわれわれが引き受けることである.言うまでもなくデータベースが必要な主題(データの属性)を欠いていたり,志向的な位置づけが適切でなかったりすると正しい動作は保証されない.その結果,試みられた行為は不発に終わる.もし成功するとしても,それは非常に場当たり的な方法による成功であって,見かけ上のものでしかない.データベースにおける問い合わせやコマンドは,明瞭な話法ではない.問い合わせやコマンドという言表行為は,あくまで発話内行為との関係で話法として定義可能となる.「公益」によって言表と結びつくあらゆる行為と関わり,冗長性を帯びることによって,データは情報という形式性を獲得する.同時に,自動的に個人性を抹殺しつつわれわれの生に指図を送る制約となる.すでに「生活被膜」となっている情報は個人という身体の感覚を麻痺させる形式なのである.そして,データベースは,「言表行為の集団的アレンジメント」を拡大するために,「抽象的対象(非身体的変形)」[★8]を集約した社会的身体である.

 

ネットワークという「集団化のアレンジメント」

 マーク・ポスターは『情報様式論』の中で,急速な電子メディアの進化と記号・言語の問題を詳細に論じている.それまで困難とされていたポスト構造主義と電子メディアを関連づけることにより,独創的な解釈が与えられている.ポスト構造主義や批判理論といったテーマを,メディア環境の中で論じる試みを柔軟にこなしている.とりわけ,第三章には「フーコーとデータベース」という意欲的な論考が含まれている.「情報というモ−ド」というパ−スペクティヴから電子メディアを論じるポスターは,「現在の『コミュニケーションの流通』やそれが作り出すデータベースは,一種の《超パノプティコン》を構築している.それは壁や窓や塔や看守のいない監視のシステムである.監視のテクノロジーの量的な変化は権力のミクロ政治学の質的な変化を生み出した」[★9]と述べている.

「抽象的対象(非身体的変形)」を収録した社会的身体としてのデータベースは,先にも述べたように,コミュニケーションの「通貨」としてわれわれの日常生活のさまざまな局面を表現し,われわれがいわゆる情報伝達と呼んでいる「公益」に関わる発話行為は,「生活被膜」となっている.データベースに日々更新され操作されるデータに依存しているわれわれの生活そのものも,記憶の変形であることを思い知ることになる.つまり,その「生活被膜」の拡大に関して,ポスターは「大衆制御の方法」[★10]であることを指摘し,その方法が洗練化されていくことに対して危惧を表明している.われわれの日常的な情報環境は,ネットワークという「関係の幾何学」に支えられたデータベースが放出する記憶の変形なのだ.

 情報は単なる「発話の拡張」ではない.「言表行為の集団的アレンジメント」に大きく関わり,人間の集団に対して大きな影響力を発揮するスケール(規模)そのものなのである.他者との関係から生じる「価値」や「個人」も,そのスケールに左右される.そして,「個人」や「資産」を保証するデータを収集し管理して,「発話の拡張」をさらに強化した社会的身体が,コンピュータを用いたデータベースなのである.

 データベースはわれわれの思考を補助する道具と位置づけられている.われわれの経済活動では,さまざまな手続きを自動化することにも役立っている.ただ,データベースを「書物」の役割と比較するとどうだろう.書物は単に知識が集約されているだけではない.「集団化のアレンジメント」の能力があるからこそ,書物は知の権威として君臨してきたのである.知の権威として認知されるプロセスで,書物は「集団化のアレンジメント」という文法を獲得してきたのだ.その文法を用いて「抽象的対象(非身体的変形)」を共有し,相対化された自らの欲望や自我を学習していく.その学習があるからこそ,辛うじてデータベースも知の権威の体裁を保っている.そして,データベースを構成するさまざまなテクノロジーは標準化が非常に進んでいて,データがどんな面に特徴的な関わり方をする表現形式であるかということもよく知られている.また,標準的なデータベースと対象との志向的関係(データの作成やデータ・モデルという設計上の言表)は,表面上は厳密さを維持しているように見えながら,パラダイムにも似て実に恣意的である.ドゥルーズ&ガタリが指摘するように,「一つの社会はその合体によって定義されるのであり,道具によって定義されるのではない」[★11]ことは確かである.wつまり,「道具はそれを選択し,自身の系統流フイロームの中にとりこむ社会的機械を前提とする」[★12]のである.では,ここでの「社会的機械」とは何か.それはデータベースでもコンピュータでもない.言語の使用を決定するような社会的機械である.物質を意味や記憶に変形することのできる社会的機械.それがまさにブッシュやフォン・ノイマンやオッペンハイマーなどのテクノクラートがめざした知識政治学であり,科学の一分野の地位を与えられた情報科学なのである.

 テクノクラートがめざしてきた「公益」は,社会的機械をデザインするプロセスから生じる.そして,テクノクラートはそのような「公益」を生産する社会的機械をきわめて幾何学的に考えようとする.ところが,社会的機械は,政治機械や戦争機械よりも,はかなく曖昧である.社会的機械は信念や欲望の分布に最も大きく依存するからである.社会的機械とは,あらゆる身体性や物質性を剥奪し抽象化された関係である.基幹産業と戦争機械,戦争機械と政治機械,政治機械と科学共同体,国民と政治機械など.テクノクラートはこの社会的機械の曖昧さに,大きな不安を感じてしまう.だからこそ,機械を設計する時のように,「公益」という想像力を用いてあらゆる抽象化された関係を図式化してみようとするのである.機械のように,予言可能なふるまいをする「公益」を権威化するために,信念や欲望を誘導しようというわけである.その「かたち」は「公益のかたち」でもあるわけだから,テクノクラートは「公益」を合理的に交換するために,テクノロジーを駆使してネットワークという関係のモデルを発明したのである.そして,この「公益」を合理的に共有することは,関係を阻害する要因や雑音を排除することなのだから,情報理論やコミュニケーション理論が,雑音を測定し可能な限り最小にしようとしたこともこれに当てはまる.

 ネットワークという関係のモデルが政治機械や戦争機械の利害そのものに直接反映するような社会的機械となったのである.テレビ放送やインターネットの例を出すまでもなく,その影響力はきわめて大きい.そして,当然ながらネットワークという社会的機械は社会的身体であるデータベースのコミュニケーション能力を決定してしまうのである.

 工学的に構成されるデータベース設計は,形式的な空間の一貫性の操作に依存する表現形式(データベースの用語ではその表現形式を「スキーマ」と呼ぶ)であることから,厳密な空間的関係について,その実在を報告したり,規定したり,保証したりするために計算という形式言語を用いる.さらに,リアルタイムは時間の抽象性に特徴のある処理形式であるが,データベースは時間の処理形式と空間の一貫性の操作が折り合うように編制される.先にも述べたように,データベースとは,その「抽象的対象(非身体的変形)」を集約した社会的身体である.ポスターも挙げている例であるが,クレジットの信用調査に用いられるデータは,一瞬にして信用という関係の実在を規定したり保証したりする.データベースは監視や管理のテクノロジーというより,「われわれ」や「わたし」といった身体的なわれわれの特徴を瞬時のうちに「抽象的対象(非身体的変形)」にしてしまう時間のテクノロジーなのである.

 

「該当するデータはありません」

 情報科学は,ユーザーを重要なパラダイムと位置づけてきた.相似する信念や欲望を抽象化したユーザーは,データベースという知の秩序を編制する上でも重要な集団表象なのである.ネットワーク技術によって鋳造された新しい電子的な担保の交換の機会が大幅に増大するにつれて,データベースのように建築のような伝統的な知の秩序はどんどん不安定なものとなり,すでに定着したと信じられていたデータベースを用いたコミュニケーションの規則は大きく変質しつつある.

 さまざまなコンピュータ・ネットワークにおいては,情報として抽象化された「関係」の中に生きる実践が,「公益」というテクノクラシーを超越しつつある.また,情報という言表を駆使して自らを非身体化する新しい個人主義を楽しむことができるような「関係のかたち」がネットワーク上には用意されはじめている.一方,エンジニアリングの分野でも,データを「公益」に沿って提供するヴァリエーションを増やしはじめた.「オブジェクト・ベース」や「電子図書館」なども,そのヴァリエーションである.ネットワークという関係のモデルが「関係データベース」で定義される「関係」を無効にしつつある.また,「オブジェクト・ベース」の「オブジェクト」は,「関係データベース」で定義される「関係」の変形に過ぎない.相似する信念や欲望を抽象化したユーザーを「シヴィル・ミニマム」として過剰に意識するあまり,「オブジェクト・ベース」はデータベース技術が維持し洗練化してきた体系的な一貫性を崩壊させる要因にもなっている.ユーザーはどこかに存在するものではない.単なる集団表象に過ぎない.ところが,電子図書館と呼ばれる技術の中には,忠実に書物をまるごとコンピュータのディスク上に配置し,ユーザーという集団表象に向けて「書物のように」検索できることを強調しているものも少なくない.

 データベースを構築する際,そのプロセスは出版やその他の文化的な活動に比べて標準化されている面がかなり多い.もちろん,「公益」といった制度的な権力による集約化への傾向も強い.自動化や合理化といった面が強調されながら,その実構築や維持・管理において人間の介入する余地もかなり残っていて(というより,人間の手作業なしにデータベースは一日たりとも運用することはできない),表現形式としての特徴も複雑きわまりない.さらに,データベースとそれが表現する対象との間の志向的関係は,かなり幅の広いものである.そして,データベースが内蔵しているデータベース管理システムというソフトウェアにおいては,データの送受信はもとより,コピーや並び替えや編集といった操作が原理的には可能である.そのため,ハッキングの格好なフィールドにもなるし,意図していなかったような使われ方をすることも少なくはない.つまり,データベースは新たな理解の形態を生み出す一方で,それまでに人々に心地のよい安心感を与えてきた境界を流動的なものに変容させてしまう可能性を備えている.われわれが依存するようになってきた「公益」に背を向けることによって,人々の不安や喪失感を生み出すリスクも大きい.すでに確立してしまった「公益」への確かな抵抗の道が,新たなコンピュータ・ソフトウェアの技術によって開かれることも十分あり得るであろう.ただ,そうした活動を抑圧するテクノクラシーが発揮される危険性も非常に高い.理想化したコミュニケーションを反復することが,「公益」のルーチンとして強固に確立しているからである.

 データベースの理論はもとより,知のあり方そのもの,すなわち知識の所有そして管理・維持といったルーチンワークも,いまや崩壊寸前の危機に瀕している.デジタルな生産財をわれわれがどのように扱っているか.その行為を通じてわれわれがそうした生産財にどのような価値を与え,どのような倫理原則をこの取引の指針にするのか.そのような問題を批判的にかつ詳細に検討し直すことが,この状況の下でいよいよ危急となっている.

 都市はまさに情報化された秩序によって成り立っている.こういう都市化は,科学や文学あるいは芸術の世界にも波及している.それぞれの行動や思考あるいは習慣の局面において,ルーチン化した情報環境が定着し,その中で科学者も文学者も芸術家も,定型的な手続きに応じて日常を送っている.これはまさに自動化した状態と言ってよい.データベースへの問い合わせでしばしば理想化される機械とのコミュニケーション.つまり,ひとつの問い合わせに対して的確な解を与えることが理想化されている左右対称のコミュニケーション.この左右対称のコミュニケーションを反復すると,知のあり方は確実に衰弱する.このような役割の変更や修正が禁止された領域から,知を救済しなければならない.検索を普遍化するのではなく,検索を職人芸にしてしまうことなのだ.では,自動化した情報環境をわれわれはどのように把握すればよいのか.そのためにネットワーク上を行き交うデータは有効になるだろう.自動化した知のあり方をネットワーク上のデータの分布で知るのだ.その自動化と群生している多様な知のあり方との境界に線を描き,その線を丹念にたどりながら多様性の森の中に身を置くこと.それをわれわれはネットワークという関係のかたちから学習しつつある.「該当するデータはありません」というメッセージは,自動化して衰弱してしまった知のあり方を救済する福音なのかもしれない.

■註
★1――BUSH, Vannever, ‘Planning in Science,’ in The Westinghouse Educational Foundation, Science and Life in the World / Science and Civilization / The Future of Atomic Energy, Vol. 1, McGraw-Hill Book, 1945.
★2――クラウゼヴィッツ『戦争論(上)』(篠田英雄訳),岩波文庫,1968,p.128.
★3――前出『戦争論(上)』p.58.
★4――ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー――資本主義と分裂症』(宇野邦一ほか訳),河出書房新社,1994,pp.97-98.
★5――前出『千のプラトー』p.101.
★6――前出『千のプラトー』p.97.
★7――前出『千のプラトー』p.101.
★8――前出『千のプラトー』p.101.
★9――マーク・ポスター『情報様式論――ポスト構造主義の社会理論』(室井尚,吉岡洋訳),岩波書店,1991,pp.175-176.
★10――前出『情報様式論』p.183.
★11――前出『千のプラトー』p.110.
★12――前出『千のプラトー』p.102.

(かつら えいし・文献情報学)

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