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マイケル・ベネディクト編『サイバースペース』

1991
飯島洋一

 本書で扱われている内容は,マイケル・ベネディクトがその序論で言っているように,「現在のところ存在してはいない」世界についての思考である.もちろん,サイバースペースを限りなく予感させるコンピュータ社会にわれわれはいるわけだから,この書物で触れている世界も,お伽話というわけではない.いわばここで書かれていることは,いまだ実現されていないが,いずれ遠くない将来に実現可能なヴィジョンを空想したものなのだ.

 本書ではそうした新世界に,小説家,人類学者,アーティストなど,実に多彩な分野の人々が独自のアプローチを試みている.それゆえにというべきか,彼らによって紡ぎ出されるサイバー世界は,単に記憶の貯蔵や安易なSF世界の描写に止まらない,実にユニークな視点に満ちている.たとえばマイケル・ハイムは,ウィリアム・ギブスンを援用しつつ,そこに「陶酔とエロス的な強度の場」を発見しているし,アルケール・ロザンヌ・ストーンは,いくつものペルソナを持つ分裂病的な「多重人格(マルティプルパーソナリティ)」者を,新世界の登場人物に見立てている.そして多くの論者が一様に,サイバー世界の出現をある確信を持って語っているように感じられるのは印象的だ.

 私自身も,少し前まではサイバースペースに限りなく近いものが,いずれ姿を見せることをそれほど否定的に考えていなかった.その気持ちはいまでも継続しているが,しかし最近になって,そうした思いが,必ずしも有効なものばかりとも思えなくなってきた状況を強く感じはじめているところなのだ.

 そう考えるようになったのには,大きくいって二つの外的要因がある.一つは阪神大震災の現場を見て,ヴァーチュアルとリアルとの境界が裂けて見えてしまったこと,もう一つは,怪しげなカルト集団が,ヴァーチュアルな世界と精神世界との接点をわれわれに垣間見せたことである.前者はヴァーチュアルな報道とリアルな現実の〈差異〉を突きつけたばかりでなく,現場を取材する中で,リアルというものの存在を私に強く実感させた.一方,後者の一連の出来事は,現実を否定し,千年王国のために“終末”を呼び込もうとする欲望を示したが,その際,多くの論者が指摘するように,彼らの発想には仮想の世界に生きているような感覚が確かにあるのだ.

 とりわけ後者の問題は,もともとヴァーチュアル世界の欲望の内側に,強い〈現実否定〉があったことを思い出させる.現実世界があるにもかかわらず,もう一つ別世界を捏造したいとするのは,とどのつまり,いま生きているこの「現実」が嫌いだからである.現実は必ずしも自分の思い通りになっていない.だから自分にとって都合のいい架空の王国の夢が欲しい.ヴァーチュアル志向は,そうした現実や歴史否定,もっといえばある種の“終末観”をその根に深く持っている.

 そして興味深いことに,そうしたカルトと仮想というテーマは,かたちを変えてではあるが,実は本書の中にもいくつか発見できるテーマなのである.たとえばヴァーチュアル世界を語る中で,デイヴィッド・トーマスはグノーシスとサイバースペースを関連づけているし,ニコル・スタンジェルはサイバースペースと「夢,幻覚,神秘主義」との共通性を発見し,マーコス・ノヴァクはサイバースペースをアニミズムとの関わりにおいて眺めている.もちろん,昨今の事情からだけの理由で,そうした興味深くさえある類似を,ここで一挙に否定しにかかろうとしたいわけではない.そうでなく,私の危惧は,仮想と精神世界との類縁性が,自分自身の言説も含めて,これまであまりに無根拠なまま接続され過ぎたという点にある.

 リアルとフィクション,仮想とカルトなどの近接性よりも,むしろあらゆる意味でそれらの〈差異〉を注意深く考える時に,いまわれわれはいるのではないか.そのことを逆説的に教えてくれるものとして本書を読むと,きっと面白く感じられるはずである.

(いいじま よういち・建築評論)

マイケル・ベネディクト編『サイバースペース』(NTTヒューマンインタフェース研究会+鈴木圭介+山田和子訳),NTT出版,1994.

    

■関連文献
ソル・ユーリック『メタトロン』(上野俊哉訳),晶文社,1992.
ハワード・ラインゴールド『バーチャル・コミュニティ』(会津泉訳),三田出版会,1995.
ウィリアム・ギブスン『ヴァーチャル・ライト』(浅倉久志訳),角川書店,1994.
マーシャル・マクルーハン『メディア論』(栗原裕,河本仲聖訳),みすず書房,1987.
スチュアート・ブランド『メディアラボ』(室謙二,麻生九美訳),福武書店,1988.