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ウンベルト・マトゥラーナ+フランシスコ・バレーラ『知恵の樹』

1984
沼田寛

 著者たちが〈オートポイエーシス〉と呼ぶ自己組織系のロジックを,たいへん凝ったスタイルで解説した書物である.
 オートポイエーシスは,自己創出などと訳される.「生物は絶えず自己を産出しつづけるということによって特徴づけられる」(p. 26)という考え方だ.この定義によれば,生命システムの「ダイナミクスと境界は,けっして分離して考えることができない」(p. 28).生命のロジックは,環境との境界を自らのダイナミクスで決め,自律的に画定された境界がダイナミクスを支えるという,自己循環的(再帰的)なものになる.著者たちは,「世界を知ること」も同じ構造をもつと考える.認知行為が,絶えず境界を画定しつづけることで,「世界」は立ち現われるのだから.本書の副題「生きている世界はどのようにして生まれるのか」は,そうした生命論=認知論という立場を示唆している.

 自己言及的なロジックに立つオートポイエーシスの考え方には,難解なところもある.たとえば,「作動的閉域」とか「構造的カップリング」といった概念.モナドロジーや予定調和を思わせるが,世界は閉じていて,かつ開いているといった,奇妙なトポロジーの数理的メタファーで語られたりもする.
 しかし,この本は一般向けの連続講演がもとになっているせいか,文章が非常にわかりやすい.気のきいた図版多数が配されていて,楽しげである.彼らのロジックの構造そのままに,書物全体が大きな自己循環的な記述構成になっているところも,しゃれている.目次を引用してみよう.


第1章 〈いかにして知るのか〉を知る
第2章 〈生きていること〉の組織
第3章 歴史....生殖と遺伝
第4章 メタ細胞体の生活
第5章 生物のナチュラル・ドリフト
第6章 〈行動域〉
第7章 神経システムと認識
第8章 〈社会〉現象
第9章 〈言語域〉と人間の意識
第10章 知恵の樹

 冒頭に認知論的な問いを置き,細胞のオートポイエーシスから,生物(細胞)の再生産,多細胞生物の成り立ちと進化の歴史をたどり,神経システムをもつ生物にとっての行動・認識・言語のありようを考え,冒頭の問いに還帰するというわけである.本書にも引用されている,「自分の手を描く自分の手」を描いたエッシャーの絵を思わせる構成だ.

 著者の一人マトゥラーナは,神経科学から出発した研究者.神経回路網の理論で有名なマッカロックやピッツらと共同でカエルの視覚を研究したとき,彼が直面したのは,そもそもカエルの脳が見ているのは何かという問題だった.カエルは,研究者が観察しているような実験室の空間を見ているのではない.カエルの周囲の環境,エサとなる昆虫などは,人間が見ているようなものとしては,存在していない.そこからマトゥラーナは「認知の生物学」へと思索を深めていった.より数理的なセンスの生物学者バレーラとの,1970年代にはじまる共同研究が,〈オートポイエーシス〉の概念を生み出した.チリ時代のマトゥラーナから学んだバレーラは,社会主義アジェンデ政権に対するクーデタと政治弾圧で,亡命を余儀なくされた.奇しくも,これが共同研究のきっかけになったという.

 彼らの理論は,分子生物学など現在の科学や生物学の主流からみれば,非常に異質な考え方だ.とりわけ,コンテクスト・フリーを自明として情報を語るような,「遺伝情報」「情報通信」といった言い方に,彼らは鋭い批判を向けている.「コミュニケーションという現象は,伝達されるなにか,にではなく,それを受ける人にはなにが起こるのか,にかかっているのだ.そしてこれは,『情報を伝達する』ということとはたいへんに異なった事態だ」(p. 138).こうした発想は,たとえばAIの旗手だったウィノグラードが,AIシンボリズム批判に転ずる際に,大きな影響を与えた.オートポイエーシスの考え方は,ルーマンの社会システム論にも援用されている.

(ぬまた ひろし・サイエンスライター)

ウンベルト・マトゥラーナ+フランシスコ・バレーラ『知恵の樹』(管啓次郎訳),朝日出版社,1987.

    

■関連文献
H・R・マトゥラーナ,F・J・ヴァレラ『オートポイエーシス....生命システムとはなにか』(河本英夫訳),国文社,1991.
G・スペンサー=ブラウン『形式の法則』(山口昌哉監修,大澤真幸,宮台真司訳),朝日出版社,1987.
テリー・ウィノグラード,フェルナンド・フローレス『コンピュータと認知を理解する....人工知能の限界と新しい設計理念』(平賀譲訳),産業図書,1989.
柴谷篤弘編『構造主義をめぐる生物学論争』吉岡書店,1989.
河本英夫『オートポイエーシス....第三世代システム』青土社,1995.
郡司ペギオ幸夫「生命と時間,そして原生‐計算と存在論的観測」,『現代思想』1994年9月号−1995年12月号(引き続き断続的に連載中).