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マルセル・デュシャン(ミシェル・サヌイエ編)『マルセル・デュシャン全著作』

1958
松岡新一郎

 美的行為を,例えば自転車の車輪を選び,それを椅子に接合することにまで還元したデュシャンのレディ・メイドを前に,我々はヤウスやオクタビオ・パスに倣い,美的な享受の可能性は対象の側にではなく見る者が作り出すべきであると考え,作品に問いかけ,定義を試み,時に拒絶することに刺激を見出すべきなのか.あるいは,芸術的対象から直接的な快を得られるか否かを唯一の基準とする〈民衆的な審美眼〉に対する差異化(ディスタンクシオン)としては明らかに機能するであろう禁欲,すなわち余りに直接的な快楽を得ることを自らに禁じることに何らかの喜びを見出すべきなのだろうか.確かにデュシャンが,「〈レディ・メイド〉の選択が何かしらの美的楽しみには決して左右されなかった」こと,その選択が,「視覚的無関心という反応に,それと同時に良い趣味にせよ悪い趣味にせよ趣味の完全な欠如……実際は完璧な無感覚状態での反応に基づいていた」(pp.287−88)ことを語るとき,そこに説かれているあらゆる無関心....審美的関心の拒絶,対象への無関心,適切,不適切さへの無関心,ひいては(ニーチェを信じるならば)禁欲的理想の最も崇高な形態である無感覚状態....を一貫して道徳的,文化的規範として対象への〈無関心〉を唱えてきたカント以来の美学の伝統に連なるもの,審美的態度の今日的形態(美の享受に理論のそれが取って代わる)として受け容れ,後は思弁に専心することも可能だろう.しかしながら,そうした態度をデュシャンのテクスト群は許さないように思われる.それらを読むこと,すなわちデュシャン自身の注釈に注釈(コマンテール)を付け加えること,あるいはその注釈の誤謬を証明すること,そうした作業は我々を混乱に導くばかりで,作品を見る何らかの方法を得るには役立たないように思われるからだ.とはいえ,そうした錯綜をブルデューに倣って,芸術の汲み尽くせなさという神話,あるいは注釈とはそれ自体が読まれるべき再創造であるというイデオロギーの現われ,芸術家の戦略に過ぎないと見なすのでは余りにも諦めが良すぎるというものだ.

 細かな議論が必要な問題を敢えて暴力的に要約するならば,デュシャンのテクストに見られる反復,矛盾の繰り返しといったことはおしなべて事物を命名する行為を宙吊りにすることを目指し,それはその造形芸術における実践と見事に重なり合うのである(ティエリー・ド・デューヴを参照されたし).例えば,「画家として私は,他の画家よりは作家の影響を受ける方がよい」(p.265)という一文にしてすでに絵画と非絵画の境界を,画家として起源,範型としての絵画の拒絶の一方で,自らの絵画(?)を肯定することで無効にする.同様に,事物の命名における言語単位の有用性,それを保証する音と意味との結び付きに抗し,音を意味から切り離し,一つの音あるいは一続きの音を維持しつつ,それを書く方法を変化させることで違った対象を表現する方法を発見した(p.210参照)ブリッセやレーモン・ルーセルを論じ,それを自らの実践に取り入れる作業....ブリッセは音が共通することから,事物を名付ける可能性を有しつつ,実際は如何なる事物をも名指さない言語単位を導き出した(例えばLes dents, la bouche(レダン ラ ブーシュ)....歯,口からL'aide en la bouche(レダン ラ ブーシュ)....口の中の助けというように)が,デュシャンは既存のもの(レディ・メイド)を用い,それを名付けようのないものに変えた....もまた命名行為を決定不可能にする実践と見なせるのではないか.

 ともあれ,この僅かな事例を持ってしても,デュシャンのテクストは単に不連続,断片的,未完成といった性質によってその内容を曖昧で矛盾する,謎めいたものにする....概念の合理的な連鎖,論証的思考を拒絶することで,その領野に特殊な表現形態を確立しようとする....だけのもの(未来派やダダのマニフェスト)でも,論理学的,哲学的には出鱈目(幾何学的形態に対象を適応させることを抽象というような)であっても創作の実践を参照することでかろうじて意味を把握できるようなもの(キュビスムの言説)でもなく,その芸術生産と並行して哲学や論理学そのものと直接向き合うものであることは充分予想されるところだ.

(まつおか しんいちろう・美術史,表象文化論)

マルセル・デュシャン(ミシェル・サヌイエ編)『マルセル・デュシャン全著作』(北山研二訳),未知谷,1995.

    

■関連文献(画家のテクストという点で)
セザンヌの手紙,あるいはマティス,クレー,カンディンスキー,ジャコメッティ等のテクストはその哲学や論理学との関わりにおいて分析されねばなるまい.その論理構成に矛盾はないか,如何なる言葉を用いているか等々.