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ルイス・マンフォード『芸術と技術』

1952
五十嵐太郎

 1945年,原子力爆弾が投下された.そして資本主義国と社会主義国の冷戦.技術の暴走に危機を感じたマンフォードは,本書でプロメテウス(技術の始源神)の優位に対し,オルフェウス(芸術の始源神)の復権を唱える.原子力にこだわって言えば,時代はすでに,プロメテウスからプルートへ移行しているのだが,まさに冥府から妻エウリュディケを救いだそうとした果敢なオルフェウスの試みが必要なのだと,戦後,マンフォードは技術に対する態度を,戦前に比べて硬化させたのである.

 本書は1951年5月に行なわれたコロンビア大学の公開講演をもとに,1952年に出版したものである.ちなみに書名の「技術」はTechnicsの訳であり,より包括的な意味をもつ技術学(テクノロジー=Technology)とは区別して,人間が自然力を支配し命令する活動の部分だけを言い表わすために,そして芸術とはあまり重ならないものとして,技術の語を定義し用いていることに留意しておこう.戦前に彼が書いた壮大な機械と人間の関係史,『技術と文明』(1934)における「技術」の原語もそうである.

 本書は6日連続の講演を反映して,全6章の構成になっている.マンフォードの基本的な姿勢は,ヒューマニズムを信奉する,やや保守的なものだ.1章「芸術と表象」では,われわれが矛盾や葛藤に囲まれた,ただならぬ時代を生きているという認識に立ち,芸術と技術の関係を手がかりにそれを読み解くことの必要性を最初に述べている.彼によれば,芸術と技術の違いは,前者が個人の領域に関わる内面の表出にして,象徴化の能力に基づく特殊な人間的要求であるのに対し,後者は外的手段に関連し,非人称であり,動物にも備わったものだという.そして機械文明による人間疎外の状況を憂い,芸術は本来,「人間の自律的で創造的な活動力に不可分な分野」であり,健康な人間性を育むものだから,彼は破壊的な芸術を否定する(ゆえに未来派は少し馬鹿げていると厳しい).2章「道具と対象物」では,もともと人間は道具作りである以前に,イメージや言語の制作者,芸術家だったにもかかわらず,近代以降は技術が重要となり,芸術を犠牲にして勝利したことが強調される.そして技術の特徴には秩序への関心があることも付け加えている.3章「手工から機械芸術へ」は,歴史的には芸術と技術を完全に分けることもできず,最上の手業わざが両者を媒介すること,また両者が深く関連した事例として印刷術の発展をとりあげる.4章「標準化・複製・選択」は,型と反復性を特徴とする機械が大量の複製品をもたらし,民主化と同時に通俗化が進んだことを論じる.彼は,経験の希少性や独自性こそが歓喜を準備するから,それが芸術には致命的だと考え,過度の繰り返しによる「昏睡的無関心」やただの芸術消費者・受動者に危惧を表明する.5章「建築における表象と機能」では,芸術と技術の両面が存在する建築を扱う.機械を崇拝し,機械をすべてとした,ル・コルビュジエ流の思想は否定される.そして機械は人間精神の限られた部分に過ぎず,狭い機能主義ではなく,表現も重要な機能だとして,より広い機能主義を示唆する.彼にとって真の完成された建築家はライトである.なぜならば,あくまでも人間を主体に,建物が人格と機械的なものを結び合わせ,芸術と技術を効果的に統一した未来を予言するからだ.6章「芸術,技術,そして文化的総合」では,生活が分裂した現代への処方箋を述べる.彼は機械の撤去を求めているのではない.その効果的な支配と価値の転換を訴える.つまるところ,芸術を通して,人間性や能動性を回復せよ,そして芸術を媒介として人間と機械を繋ぐというのが結論だ.マッカーサーが繰り返すように,第三次世界大戦にはどちらの側にも勝利はないのだから.『1984年』はまだ先だとマンフォードは述べたが,その年もとっくに過ぎてしまった現在,あまりにも古めかしく感じる部分も少なくない.しかし,そこから逆の結論を出すにせよ,彼の思考の過程は,芸術と機械の関係を考察するための基礎をあたえるだろう.

(いがらし たろう・建築史)

ルイス・マンフォード『芸術と技術』(生田勉訳),岩波新書,1954.

    

■関連文献
パトリック・ゲデス『進化する都市』(西村一朗他訳),鹿島出版会,1982.