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ラースロー・モホイ=ナジ『絵画・写真・映画』

1925
松岡新一郎

「生産,再生産」と題されたテクスト(初出は1922年,『デ・スティル』誌.要約が本書の中に収められている)で,モホイ=ナジは新しい技術が単なる複製の手段ではなく,創造(生産)的な方向で用いられるならば,造形芸術の領野を拡大するであろうと言う.例えばレコード・ディスクは既存の音を再生するだけではなく,そこに溝を刻むことで音楽の概念,作曲の手法を変えてしまうような新たな音の生産の可能性が開けよう.写真も対象の反復にとどまらず,「我々自身によって(鏡あるいはレンズ仕掛け,透明な水晶,液体,などを用いて)形成した光現象(光の戯れの瞬間)をその上に固定する」(p.26).モホイ=ナジにとって(再)生産は既存の関係を反復することではなく,未知の関係を付加することで,人間の知覚器官を刺激し,その能力を開発することを目指すのだ.

「人間生命の計り知れなさを不可秤量物質によって解こうと望まないとすると,人間はすべての機能器官の綜合から構成されていると言うことができる.すなわちある時代の人間は,人間を構成している機能器官が....複雑な臓器と同様に細胞も....その生物学的能力の限界まで使われるとき,最も完全であると言うことができる.芸術はこれを引き起こす」(p.25).この一文は,モホイ=ナジの出発点となった二つの前提....人間は完全に生物学的な存在に帰することができ,人間と世界との関係は何よりもまず知覚器官によって与えられる....をよく示しているが,第一次大戦以前から前衛美術雑誌『MA』を通じ,政治的な芸術論に慣れ親しんでいたモホイ=ナジにとって,芸術は単に個人の諸感覚,諸能力を開発することに止まらず,個人の改革を通し社会変革のためにこそ機能するはずであった.「最も個人的な表現も,もしそれが完全に孤立することを望まないならば,生物学的に条件づけられた諸経験(感覚)の客観的な基盤に基づいて構成されなければならない.その様なわけで,真の基盤は集団的な結び付きのために作られるであろう」(『材料から建築へ』,1929).

 だがこのように『絵画・写真・映画』を芸術と政治の関係をめぐる言説の中に位置付ける,すなわち人間の(知覚)能力拡張の大義の下で,手作業から非人称的な技術への,すなわち絵の具を画家が手で使用することから写真,映画,光の効果による匿名の書き込みへの移行を宣するものであると見なすだけでは,そこで起こっていることの半分しか認めないこととなるだろう.確かにモホイ=ナジ自身の言葉で手作業から機械への移行の社会的経済的な意味が繰り返し強調されてはいる.「機械的生産のお陰で,正確な機械技術的手段と工程(吹き付け器,七宝焼き薄板,ステンシル)のお陰で,我々はいまや手で作られた単品とその市場価格の支配から免れることが可能である」(p.21).しかしながら,『絵画・写真・映画』の中で再三説かれる手工業製品に対する批判,芸術の生成を人間の手から切り離し,機械へと受け渡す必要は,写真による〈切り離された手〉の描写(医学書から引用された手のレントゲン写真や,《動くテーブル》と題され,フリッツ・ラングの『マブゼ博士』から取り出された22の手)によって反復されることで,単に芸術が科学技術に適応する術を説く教条から,記号の意味作用を巡る極めて刺激的な言葉へと変貌するのである.そうしたイコノロジーの中で独立した立場,切断された断片的形式を与えられた手は,画家という独立した主体の一部から非物質化された抽象物,匿名の存在,影,モンタージュの断片,脱着可能な補完物へと置き換えられ,同時に話し,書く主体と意味作用,命名行為の瞬間の痕跡でありつつ,その支配には最早属さず,作者の死または名称がぼやけてしまうような地点を宣言....構成主義(コンストラクティヴィスム)が脱構築(デコンストラクション)する?....しているのである.

(まつおか しんいちろう・美術史,表象文化論)

ラースロー・モホイ=ナジ『絵画・写真・映画』(利光功訳),中央公論美術出版,1993.

    

■関連文献
Jacques Derrida, LIMITED INC, Galilee, 1990.
ロザリンド・クラウス『オリジナリティと反復』(小西信之訳),リブロポート,1994.
Peter Brunette and David Wills (eds.), Deconstruction
and the visual arts, Cambridge University Press, 1994.