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09
アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』

1924
鈴木雅雄

 今の私たちから見るとアンドレ・ブルトンの思想は,今世紀の科学技術とねじれた関係をもっているように思える.「シュルレアリスム宣言」(1924)の基本的なモチーフの一つが西欧合理主義の批判であることは間違いないが,この論点を,合理的思考に支えられた近代の科学技術への批判にまで延長してゆくことはそれほど難しくない.第一次世界大戦以前のモダニズム芸術に見られるような科学への楽観的な信頼を,シュルレアリスムは共有していないのである.しかしブルトンはまた,決して反近代的な神秘主義者でもない.シュルレアリスムはむしろ,「論理の支配」への抵抗を極端にまで推し進めることによって,現代科学の与えた体験と接触しているのではなかろうか.

「生活への信頼,生活の中の一番不確かな部分への信頼,ここで言っているのはもちろん現実的な生活のことだが,それへの信頼が高まってゆくと,ついにはこの信頼は失われることになる」....あまりに有名なこの冒頭部分ですでに明らかなように,「宣言」の目的は「現実世界への訴訟」である.「夢」や「幻覚」,「不可思議なもの」といった主題を扱いながら,ブルトンは通常「現実」と考えられているものの根拠の脆弱さを明るみに出し,現実と非現実との境界を無効にしようとする.そして夢と現実という二つの状態が,いつかは「一種の絶対的現実,いわば超現実」の中に解消してゆくであろうと述べるのである.ヴァーチュアル・リアリティといった言葉を持ち出すまでもなく,様々な通信手段の発達が,目の前に現前するものとそうでないものとの境界を限りなく曖昧にしてきたことは常識に属するわけだが,だとすればシュルレアリスムは,一つの安定した平面のように見えている「現実」への異議申立てにおいて,現代の科学技術と出会っているのかもしれない.

 だがまた一方で,「シュルレアリスム第二宣言」(1930)の時期になると,「現実」という言葉がいくらか異なったニュアンスを帯びてくることも忘れてはならない.もちろん,「生と死,現実的なものと想像的なもの,過去と未来,伝達できるものと伝達できないもの,高いものと低いものが,そこではもはや矛盾しているとは感じられないような精神の一点」という,幾度となく引用されてきた表現は,ブルトンの発想が基本的には変わっていないことを示している.しかしマルクス主義に接近したこの時期のシュルレアリスムは,「現実」の社会に働きかける必要に迫られていた.「夢」という「もう一つの現実」に価値を与えることから,その「もう一つの現実」に働きかけ,作り変えていく要因としての「外的現実」へと,重点は移動してゆくのである.いささか抽象的で大雑把な言い方ではあるが,コミュニケーション手段の複雑化が「現実」に複数性を与えるとするなら,シュルレアリスムはむしろ「現実」を一旦破壊し,別のものに変えようとする.おそらく科学技術は,私たちが体験したいと思うものを「現実」化するのではなく,なにかを体験したいという欲望そのものを作り変えてしまう瞬間ごとに,シュルレアリスムの直観を再発見するのであろう.

 もう一つ付け加えておくと,ブルトンが科学的なディスクールに直接言及するのはどちらかと言えばまれなことだが,「オブジェの危機」など30年代の文章にはいくつか例があり,そこで重要なのはガストン・バシュラールの影響である.「超合理主義」という言葉を使ったこの哲学者の思想は,シュルレアリスムを今世紀の科学思想の中で捉え直すための示唆を与えてくれるかもしれない.

(すずき まさお・フランス文学,芸術)

アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』巖谷國士訳,岩波文庫,1992

    

■関連文献
ブルトン自身の著作(特に『通底器』)を別にすると,シュルレアリスム周辺の書物で,「想像的なもの」(特に夢)と「現実」との関係が問題化されているテクストとしては,次のようなものがあげられる.
ルイ・アラゴン『パリの農夫』(佐藤朔訳),思潮社,1988.
マックス・エルンスト『絵画の彼岸』(巖谷國士訳),河出書房新社,1975.
ミシェル・レリス『夜なき夜 昼なき昼』(細田直孝訳),現代思潮社,1986.
アンドレ・ブルトン編『夢の軌跡』(清岡卓行,小海永二他訳),国文社,1970.