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04
アントニオ・サンテリア「未来派建築宣言」

1914
五十嵐太郎

 第一次世界大戦の勃発した1914年7月28日.ちょうど同じ頃に,もうひとつの戦争がイタリアから仕掛けられていた.それが過去の様式に対する宣戦布告であり,「オーストリア,ハンガリー,ドイツ,アメリカのアヴァンギャルドな偽建築のすべて」を敵とみなした「未来派建築宣言」だった.第一次大戦が,戦車,飛行機,毒ガスなどの新しいテクノロジーの登場した未曾有の戦争だったように,彼らはやはり新しいテクノロジーへの信仰を最大限にあらわにし,「速度という新しい宗教」(マリネッティ,1916年)を掲げたのである.が,もともと「未来派建築宣言」の文章は,サンテリアの《新都市》の計画を展示した,同年の「新傾向グループ第1回美術展」(5月20日−6月10日)のカタログに寄せる序文として,サンテリアとマリオ・キアットーネによって書かれ,未来派とは関係がないものだった.それにマリネッティが大幅な加筆や修正を行ない,未来派のマニフェストとして,7月11日付けで(彼は11という数字が好きだったらしく,宣言は11日が多い)フィレンツェの未来派機関誌『ラチェルバ』8月1日号に発表したのが,「未来派建築宣言」である.これによって,マリネッティが「爆発のような呼吸で走行中の自動車,一斉掃射と戦うかのように咆哮する自動車は,《サモトラケの勝利》よりも美しい」(松浦寿夫訳)と謳う,1909年の「未来派宣言」から,絵画,音楽,文学などの各宣言を経て,芸術の分野がほぼ出揃う.

「18世紀以来,もはやいかなる建築も存在しない」という一文で宣言は始まる.なぜなら様式建築はテクノロジー,すなわち「コンクリートや鉄骨の持つ新しい美」を隠蔽し,「都市には,目の眩むような形態の万華鏡が現出し,機械が蔓延し,交通機関が加速され,人口は増大し,衛生設備が改善」される時代の要求に逆行してきたからだ.それゆえに,古典やアカデミー,モニュメント的なものは徹底的に断罪される.「科学や技術のあらゆる手段を利用した未来派住宅の建設」のためには,過去を引きずろうとするあらゆる亡霊は必要ない.つまり「材料の強度計算,コンクリートや鉄の使用」とは,最初から建築をやり直すことを意味するという.そして「ダイナミックで巨大な工場現場に似た」都市,「巨大な機械にも似た」住宅が建設される.蛇のようにまとわりつく鉄とガラスのエレベーター,メタリックな歩道橋や高速の動く歩道.字面だけを追っていけば,現代のハイテックの建築を思わせるような情景である.宣言の最後には8つの主張があげられているが,テクノロジーに関わるものを幾つか拾っておこう.それはまず第一に計算の建築であり,コンクリート,鉄,ガラス,厚紙,繊維質など,柔軟性と軽量さを備えるあらゆる材料による建築であること.また人工的な存在である我々は,「最新の機械的な世界のエレメント」から芸術のインスピレーションを見つけねばならないこと.その最も美しく完全な表現が建築である.そして未来派建築の基本的な性格はうつろいやすさにあり,建築環境の絶え間ない革新にさらされ,「それぞれの世代が,自分たちの都市を建設しなければならぬだろう」

 サンテリアはマリネッティの手直しに不満を抱いていたし,必ずしも両者のヴィジョンは一致していない.内容も建築の具体的な記述はサンテリアのものであり,抽象的だが煽動的な部分はマリネッティのものだ(彼の文章の方が圧倒的に巧みである).が,爆発的に膨れあがる工業都市,ミラノの時代背景が生みだしたことでは両者に変わりはない.ミラノという場所には必然性があったのである.ところでこの宣言のわずか2年後,ロマンティックな機械の信者,サンテリアは皮肉にも前線にて戦死する.しかし,その思想はいまだ関心をもって読まれ続け,バンハムやヴィリリオにも影響を与えてきた.少なくとも,こうした後への影響によって,イタリアの未来派は一定の勝利を収めたのかもしれない.

(いがらし たろう・建築史)

アントニオ・サンテリア「未来派建築宣言」 『未来派1909−1944』(鵜沢隆訳),展覧会カタログ,東京新聞,1992所収.

    

■関連文献
レイナー・バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』(原広司校閲,石原達二,増成隆士訳),鹿島出版会,1976.
「未来派......現代芸術への道標」,『美術手帖』1975年3月号,美術出版社.