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 アンリ・ベルグソン『物質と記憶』

1896
瀧本雅志

 ベルグソンが今日多く参照されているのは,やはりドゥルーズに負うところが大だろう.とりわけ『シネマ』でドゥルーズが示した読解によって,『物質と記憶』は俄然,映画論にとって重要な様相を呈し始めた.もっとも,確認しておくならば,映画は分解され停止させられた運動のつぎはぎに過ぎず,真の持続的な時間を構成しないとベルグソンが書いたのは,『創造的進化』(1907)においてである.『物質と記憶』の出版年は,リュミエール兄弟の映画発明の翌年(1896)であり,映画への言及はここでは全くなされていない.

 しかし,にも拘わらず,本書が映画の問題と交差する議論を提供し得るのは,なぜであるのか.それは,何よりもそこで,「イマージュ」という独特な概念が提示されているからだろう.では,イマージュとは何か.それは,われわれの対象となる物質(matiere)である.それは,われわれの頭の中にだけあるのでもなければ,知覚されるものと全く無縁なのでもなく,しかしそれはまた,表象化されずともそれ自体で存在する.

 つまりは,イマージュは,二つのシステムにおいて,並行して同時に運動しているのである.ひとつは,科学の法則に近似的に従う唯物論的な体系,いまひとつは,「私の身体」という特権的イマージュの構えに応じて変化する観念論的な意識の世界である.それゆえ,精神と物質,あるいは精神と身体の連接形態を明かすためにも,「二つのイマージュの体系が互いに結んでいる関係」を問わなければならない.ベルグソンは,物質と知覚をイマージュの関数による量的な差異,物質と記憶を時間の関数による質的な差異として認めることで,精神と物質あるいは精神と身体を明確に差異化しながらも,他方で両者の連続性を再び回復させていったのである.

 おそらく,本書でもうひとつ決定的に重要であるのは,過去が純粋な潜在性として捉えられていることだろう.過去と現在とは連続する二つの時間なのではなく,同時に共存する二つのそれと見なされている(ドゥルーズの『意味の論理学』を参照せよ).ところで,誤解してはならないが,『物質と記憶』は,概念の記述にのみ終始した書物なのではない.そこでは,失語症や言語聾等に関する当時の科学の先端的な研究成果が動員されており,それらを援用しながらベルグソンが示した,記憶の脳局在説への反駁は,その後,確かに正当であることが確認されたのである(ベルグソンは,自身のこうしたアプローチを形而上学的実証主義と呼んでいる.これは,ドゥルーズの超越論的経験論を思わせなくもない).

 その他,『物質と記憶』のポイントを列挙してみよう.まず,ベルグソンは光源を,主体の側ではなく,世界へと置いている点からも,この本を現象学として解することは困難と言わざるを得ない.また,一種奇態な身体論,つまりは,純粋知覚において,知覚は,身体のもとではなく,対象において行なわれるとする議論が展開されていることにも注目したい.とりわけ,それと関連して興味深いのは,表象が,「反射されたイマージュ」と述べられている点であり,さらには,それが写真の生成過程と比較されている箇所だろう.ちなみに,脳の機能は,「中央電話局」に喩えられている.ことによると,本書を,ひとつのメディア論として読む線もあり得るかもしれない.

 なお,本書のみの影響力によるものではないが,ベルグソニズムは,1905年頃より後,広く西欧で絶大な人気を誇るようになった.もっとも,少なからぬ人々は,ベルグソニズムを不合理主義の典型と受け取ったのであり,中にはソレルのように極端な暴力論へと到達する者もあった.また,同時代の美術においては,それがキュビストや未来派の美学として機能したことも,再認しなくてはならない.この点について詳しく知るには,例えばマーク・アントリフの研究が,有効だろう.

(たきもと まさし・表象文化論)

アンリ・ベルグソン『物質と記憶』(岡部聰夫訳),駿河台出版社,1995.

    

■関連文献
Mark Antliff, Inventing Bergson, Princeton University Press, 1993.
M・メルロー = ポンティ『知覚の現象学(1・2)』(竹内芳郎他訳),みすず書房,1967,1974.
Gilles Deleuze, Cinema 1: L'Image-Mouvement, Editions de Minuit, 1983.
ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』(岡田弘,宇波彰訳),法政大学出版局,1987.
キャロライン・ティズダル,アンジェロ・ボッツォーラ『未来派』(松田嘉子訳),PARCO出版,1992.