InterCommunication No.16 1996

InterCity TOKYO


「旅」の映画,あるいは「失われた」時間と距離 4/4

らば『リスボン物語』の場合はどうか.『ベルリン・天使の詩』での「成功」以後に撮ったふたつの「大作」の「失敗」により,多くの人々に見捨てられてしまったかにみえた映画作家ヴィム・ヴェンダースの「復活」を告げる声を少なからず誘いもした,監督自身が「これまでの自作で最もおかしい映画だと思って」いると述べている「コメディー・タッチ」のこの1時間44分の作品が,仮に「失敗」をまぬかれ得ているのだとしても,それは,幾人かの「復活」論者たちがいうようにかつての――「失敗」以前の――ヴェンダース的演出が発揮されているからだとはとても思えない.演出スタイルの点では『夢の涯てまでも』や『時の翼にのって』とほとんど異ならない『リスボン物語』は,物語の規模を小さくしたことで主軸が明確になり,「失敗」を二度くり返したからなのかどうかはわからぬが演出技術も安定し洗練されてきたため,あたかも「復活」が「成功」したかのごとくみえただけなのではないか.『リスボン物語』でヴェンダースはなにを試みたのかといえば,それは自身の旧作の要約に尽きている.『リスボン物語』とは,端的に『さすらい』や『ことの次第』の要約なのであり,ということは,そこでは必然的に時間と距離が隠蔽されてしまうほかはないのだ.『さすらい』の2時間56分という永さはたんなる上映時間としての永さではなく,「旅」の過程そのものの永さだったのであり,それは対象へキャメラを向けるたびごとに「発見」された時間と距離であったはずである.そうした,かつて彼自身が実践してみせた――実際に旅をしながら撮影をつづけてゆき,物語をつくってゆく――「発見」の「旅」を,ヴェンダースは『リスボン物語』でいま一度おこなってはいるものの,当の作品においては,その試みじたいが物語化=要約された「喜劇」として反復されているのみであり,多くの人たちに「失敗作」として受けとられた前二作のように,描写の力が著しく弱まっていることにかわりはないのだ.したがって『リスボン物語』を最後まで観つづけてみても,撮影の現場において「発見」されたリアルな瞬間と出遭う機会はついに訪れないわけである.これはなんとも深刻な事態だといわなければなるまい.なぜなら,ヴェンダースもアンゲロプロスも,映画の「失われたイノセンス」の「発見」へと向かう物語――それをいま語ることにどれほどの意義があるというのだろうか?――を「映画生誕百年目」の1995年に是非とも語ってみせなければ気が済まず,その目的を果たすためには,対象へとそそぐ――「失われ」てはいない現在の――「まなざし」による描写など捨ててもかまわないという態度にみえるからにほかならない.そのような態度が共有される場はもはや,国際映画祭のほかには,どこにも存在しないのではないか.
「映画生誕百年目」に,映画の原点へと遡行する旅の物語を描いた作品を発表してみせたところで,むろん映画の生誕という歴史的事件に出来事として拮抗し得るはずはない.われわれが待ち望むのはむしろ,新世紀を切り開く映画の未知の容貌であり,それはロッセリーニ=ゴダール的な,絶えず「零年」の地平において生み出される作品なのだ.


(あべ かずしげ・作家)

[『ユリシーズの瞳』は,本年3月上旬に日本公開予定]


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