InterCommunication No.16 1996

InterCity TOKYO


「旅」の映画,あるいは「失われた」時間と距離 3/4

うした意味でいえば,『ユリシーズの瞳』と『リスボン物語』には「旅」はない.なるほど両作ともに「旅」の物語を扱ってはいるだろう,しかしどちらも「旅」の映画として成立しているとみるには大変な努力が必要である.なぜならそれらの作品は,「旅」を表象するのに充分な時間と距離が欠如しているとしか思えないからだ. たしかに,『ユリシーズの瞳』は2時間57分という比較的永い時間を有してはいる.しかしそれはたんに上映時間の永さのほかはなにも意味しない.あからさまに監督アンゲロプロスが自身のキャリアを総括してみせているこの作品は,物語を語るのに必要な永さの時間を備えてはいるにもかかわらず,たとえば――すでにいくらか翳りを帯びていたとはいえ――前作『こうのとり,たちずさんで』における,賑やかなホテルのバーのなかでやや距離をおきながらそれぞれテーブルにつき静かに――次第に深まる互いへの執着を窺わせつつ――視線を交わしつづけるグレゴリー・カーとドーラ・クリシクーを捉えた永いワンショットや,1977年の信じ難い傑作『狩人』においてエヴァ・コタマニドウが演じた名高い「一人芝居」の場面などに張り詰めていたような生々しい時間の推移を実感させてはくれないのだ.いずれもいかにもアンゲロプロス的といい得るとはいえ,ワンシーンのなかで一挙に5年分の新年パーティが描かれる場面であれ,オフで演じられる霧のなかの射殺場面であれ,結局はおとなしく物語のなかにおさまるほかはなく,ところどころで不必要に高まる音楽やメロドラマ的に用意された役者たちの身振りへズームで近寄ってみたりする演出,さらには物語にこめられた意図をひたすら代弁しつづける数々の説明的な台詞などによって,描写の対象である出来事の現場の空間性は稀薄になり,まるで映画監督役のハーヴェイ・カイテルは「旅」などしていないかのごとく,時間と距離は画面の奥へと退けられてしまうばかりなのである.


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