InterCommunication No.15 1996

Feature


パブリック・ドメインとしての
ミュージアム


論を先に言うと,僕は美術館の公共性というものは,ある普遍的な観念――美術史と言われるような歴史や美学によって,裏付けや保証が試みられるような――によって支えられるのではなくて,もっと単純に,そこに集められた具体的な美術作品や情報の無償性,つまり誰の所有物でもなく,あらゆる人間がアクセス可能な,ちょうど図書館と同じように,それを研究し鑑賞したいと思っている人間には誰でも無償で公開する,という条件が満たされることによってしか支えられないと思っています.
まり美術館の公共性は,善いとか悪いという美的規準を提示するものではなくて,善かろうと悪かろうと,そこに集められた情報の全てをあらゆる人間に対してアクセス可能なものにするという,情報の公開性に基づいているということです.
とえば美術館のコレクションというものがありますが,単に特定の美術館がそれぞれプロパティとして作品を所有しているのだとしたら,これは公共的とは言えないのです.他の美術館あるいは,その美術館以外の法的な主体も含めた人間から見れば,それはただの私有物でしかない.理念的に言えば,いみじくも公的と名乗る美術館にあるコレクションは,たまたま,そこに保存されているだけだと考えなければならない.具体的に言えば,もし美術館が公的機関を名乗るならば,そこに収蔵されたコレクションのすべては,たとえば,あらゆる美術館のコレクションが収録された,ひとつの共通情報ファイルに登録され,そして,そこに登録された作品の全てについて,あらゆる人間が,もちろん美術館同士も含めて,無償で閲覧でき,可能なかぎり相互の貸出しも自由にされ公開されなければならないのです.
のようなシステムは,図書館では現在少しずつ実現されてきているわけですが,美術館でこのような理想が実現しないのは,相変わらず美術品が資産として扱われているからです.つまり,法的にも特定の誰かに所属する私有物だということです.地元の人間以外の,たとえば外国人は閲覧不可能であるなどということはその現われでしょう.セキュリティがどうのこうのとか言いますが,それは,なんとかなる問題です.
れから詳しく述べていきますが,いま美術館は,その公共的な正当性が根底から危うくなってきています.その危機を唯一突破する方法は,いま述べたような,土台のストラクチャーを整えることなしには,不可能だと僕は思っています.
民あるいは社会に対して,美術館がその正当性を誇示できなくなったためか,企画展あるいはキュレーションが重要視されるようになってきています.これこそが美術館の現在性を保証する仕掛けのように考えられているフシさえある.しかしキュレーションという呼び名は,美術館に被せられた「公共」という権威のプレッシャーの責任を背負いきれなくなった美術館ないし美術館員が,展覧会を巷にあふれる興行のひとつのように提示するという,悪く言えば「ヒラキナオリ」に聞こえます.どうして「ヒラキナオリ」かというと,公立美術館は少しも公的ではなくて,民間の企業のひとつだよと言ってるのと同じだ,ということです.企画展あるいはキュレーションは,いわゆるイヴェントと同じように,その効用が即物的に,すぐ回収し測量することができる.つまり入場数がいくらで,収益がいくら,マスコミにどう取り上げられ,専門家や批評家の反応がどうだったか,新聞の展覧会ベスト10に入ったかどうか.これは一私企業の行なう興行の論理です.この貸し借り勘定でマイナスが出なければ,この興行はとりあえず成功ということになり,誰にも迷惑もかけず,文句も言われないということです.
れは,あからさまに言えば,昔から美術館が,いわば一種の貸ギャラリーとして行なってきた,新聞社や広告代理店の持ち込み企画に戻っているということです.最近多くなってきたフリー・キュレーターやらコンサルタントなどは,営業形態としてはテキ屋の元締め,興行師以外のなにものでもないのですが,いまや美術館みずから,テキ屋の牙城に徹しようというわけです.
まりキュレーションや企画展が流行れば流行るほど,美術館の本当の意味での公共性というのは,ますます成立しなくなっていくわけです.これを根本的に立て直す可能性は,冒頭に述べた開かれたパブリック・ドメインとして,共通の美術館情報アーカイヴを作りすべての情報を公開すること,そのようなネットワークを作ることしかありえないと思う.いわば,どんな場所にも属さないメタ・ミュージアムです.
術品や図書は個人の所有物私有物ではないわけですから,美術館に勤めている学芸員だけが,美術館に収蔵された美術品や図書を特権的に使用できるということをまず止めなければならない(笑).収蔵庫に秘匿されている作品,たとえば戦争画を研究者にも見せないというのはとんでもない.僕たちのような民間の画学生や研究者がいくらでも自由に研究できるような環境を整えるべきです.美術館に勤める学芸員を育てることも重要なことですが,もし「芸術」をもっときちんと公共的な存在として位置づけようとするならば,このような民間の研究者,愛好者こそをもっと優遇し育てる努力をすべきです.私事になりますが,僕はまったく自前で勉強しているわけですから,彼ら学芸員とくらべてみるとすごいハンディを抱えている.研究環境の充実も何もないわけです.

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