InterCommunication No.13 1995

InterCity TOKYO

インディペンデントなメディアなしには
マルチカルチュラリティはありえない

「メディアと戦争」会議レポート


上野俊哉


 4月3日の午後,デン・ハーグにあるオランダ議会ビルの会議室で「メディア と戦争――ボスニア=ヘルツェゴヴィナにおけるインディペンデント・メディア を支援する(MEDIA & WAR, supporting the independent media in Bosnia-Hercegovina)」と題された会議があることを聞いたのは,友人のヘアー ト・ロフィンクからだった.この会議は彼もアドヴァイザーとして名を連ねて いる「プレス・ナウ(Press Now)」(本誌特集の拙稿を参照)の主催で行なわ れた.
 会議当日,議会のビルであるだけに入り口で守衛たちによって,名簿 できっちり名前を確認されたうえで中に入っていく.古い建築と近代的なビル を重層的に組み合わせた採光のよい庁舎の中,会議室があるフロアのカフェや 廊下にはすでに知った顔も何人か談笑しているのがわかった.『テクノカルチャー ・マトリクス』(NTT出版,1994)の寄稿者でもあり,サラエヴォからの避難民 である哲学者ネナード・フィッシャーとも再会を果たすことができたし,今年 の「マルチメディアーレ4」に出品するティベ・ファン・タイエン(Tjebbe van Tijen,本誌5号特集の拙稿参照)の奥さん(やはりクロアチアからオランダに 避難してきた)も早い時間から顔を見せていた.
 「プレス・ナウ」は旧ユー ゴスラヴィアにおけるインディペンデント・メディアの支援を経済面だけでは なく,情報や世論の形成の面でも行なっている.こうした会議はその一環とし て位置づけられており,この日もボスニアから数人のジャーナリストが招かれ て報告と議論をすることになっていた.何よりも定期的な議論を最低限,公の 次元で繰り返すことで,傷だらけのヨーロッパへの「国際貢献」――むろん, こんな言葉は日本でしか通用しないが――を認め,こうした活動を援助するオ ランダ政府のあり方はそれなりに評価しうるものだろう.
 会議の目的は,議 題からも明らかなとおり,ボスニアにおけるインディペンデントな――つまり, 国家や政党,民族主義に依存しない――メディアを支援し,多民族,多文化, 社会の多形態状況の現在を分析するというものだった.マルチナショナル,マ ルチエスニック……といった日本ではしばしば気楽に使われてしまう言葉も, ここでは切実で緊迫した状況を批判する指標なのである.
 議長の簡単な挨拶 のあと,イゴール・ライナーが「多民族社会は消え去ろうとしているのか?」 というこの日最初の報告を行なった.いつになく黒い上着など着込んだヘアー トが,録音係としてテープレコーダーを抱えてせわしなく発表者のそばに行く. ヨーロッパでの会議にありがちなことだが,「記録」や「記憶」に関するスタ ンスは日本とは180度異なると言ってよい.カメラを使っているのは,たった一 人の東洋人であるぼくともう一人の海外のプレスの人間だけだったし,ヘアー トのボロボロの日本製のレコーダーだけがこの日の痕跡を残すテクノロジーだっ た.しかし,ここには確実に「記憶」と「対話」への意志が生成していたこと は言うまでもない(会議ではむろんほぼ全員にとって外国語である英語が使わ れた).
 ライナーは『ヴレロ』という新聞の元編集長だが,ボスニアのプレ スの現在は多元的文化とマルチエスニシティ状況が危機に瀕しているという, まさに会議のテーマに即した方向で議論をすすめた.ボスニア政府が,メディ アの自由,特にこの地に様々な文化と民族が混在,共存していることを前提に 報道,議論する開放性に対立している現実を彼はとりあげる(このメディアの 自由に対する対立はセルビア,クロアチアにおいても同じことだが).しかし, この現実のなかでひとつのテレビ局と2つのラジオ局,ほぼ5つの新聞が活動を 持続している(日刊紙『オスロボデーニュ』は特に有名だ).ライナーによれ ば,ボスニアにおける民族対立は一元的なものではなく,多民族状況を認める ことは同時にこの対立の多元性を何らかのかたちで受け入れる必要がある.そ のためには若いジャーナリストの育成と,特に第二世代におけるコンピュータ, 自由ラジオなどの電子メディアの使用が欠かせないことが強調された.しかし, その一方,マフィアの横行と,新たなファシズムが急速に社会をむしばんでい る事実が,そうしたヴィジョンを打ち砕いていると彼は述べる.
 次にボスニ ア・インディペンデント・ジャーナリスト組合の副代表であり,サラエヴォの メディア・センターのディレクターでもあるボロ・コンティックが,「ボスニ アにおけるインディペンデント・ジャーナリズムへの挑戦と脅威」と題して発 言に立つ.「ボスニアからのゲストはみんな中庸で,おとなしい奴が多い」と ヘアートから聞いていたが,彼はいささかシニカルな調子で,より「インディ ペンデント」なメディアの現状について報告する.サラエヴォでは9つの自由ラ ジオと2つの自由テレビ,10以上の雑誌が活動を続けている.方向性はボスニア 政府当局への批判の色が濃く,多分に皮肉まじりの言い方だが,ここではメディ アのニュー・ファッション/ニュー・スピークが追求されていると彼は言う (『1984』などを想起せよ).さらに彼はセルビアやクロアチアのように国家 が戦争をプロパガンダしてきた社会ではテレビが王様だが,砲火にさらされる ボスニアでは出力5キロワット程度のラジオと新聞の機動力が有効であるとして, よりこまかな支援と活動を要請する.ちなみに彼が籍をおくメディア・センター は,例の「ソロス財団」(本誌特集の拙稿参照)の予算によってインディペン デント・メディアの育成と支援に関わっている.
 コーヒーブレイクをはさん で最後にサラエヴォの『ダニ』紙編集長セナード・ペカニンが「サラエヴォの メディア状況の現在と未来」という発表を行ない,ボスニア政府や様々な勢力 によって,特定の党や利害に関連しないメディアには重大な技術的,経済的困 難が課せられている現状を訴えた. ディスカッションでは「なぜインディペ ンデント・メディアか?」という問いが繰り返し問題にされ,誰からともなく 「インディペンデントなメディアなしにはマルチカルチュラリティはありえな い」というラディカルな提起が生まれた.この後も議論は錯綜したが,民族主 義をプロパガンダするセルビアやクロアチアの政府はもとより,ボスニアの政 府でさえ民族的マイノリティの情報を管理し,問題のイデオロギー化をはかっ ている状況下では,市民の手による多様な「インディペンデント・メディア」 こそがデモクラシーのための最低の条件であるだろうという点で一致が見いだ された.旧ユーゴに属していたいかなる政府も市民社会を再構築する責任があ り,このためには自由メディアが必須であること,またさらに多様な支援,予 算――たとえそれがソロスのような“投機の錬金術師”のものでも――が必要 であること,この2点があらためて確認された.
 夕刻,会議場の外の明るい廊 下で催されたカクテル・パーティで,ぼくはネナードらと旧交をあたためなが ら,われわれができる「支援」が何かということ,そしてふだんぼくたちが使っ ている「マルチカルチュラリティ」,「インディペンデント・メディア」といっ た言葉に刻印された重みと軋轢をかみしめていた.この会議での論点は,実は 全てわれわれの現在にこそ投げ返されるべきものなのだ.

(うえの としや・社会思想史)

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