InterCommunication No.12 1995
Feature: e-TEXT
ハイパーメディア社会における自己・視線・権力
浅田彰
大澤真幸
柄谷行人
黒崎政男

SUMMARY
GO CONTENTS
GO MAGAZINE & BOOKS PAGE

電子メディア的変容
コンピュータと超パノプティコン
「おぞましい客観性」
リアリティの転回
情報資本主義と著作権
共通の暗黙知とコモン・ノレッジ
ネットワークと共同著者性
グローバルとローカル
電子メディアと直接民主制
情報資本主義と神の眼
「物自体」とフレーム問題
電子メディア的変容

浅田――1992年4月にICC(InterCommunication Center)の機関誌として本誌を創刊
して,この12号は3周年記念号にあたります.そこで今日は,本誌が追求してきたメ
ディアやコミュニケーションといったテーマに関して改めて広く展望してみたいと
思います.
かつてマクルーハンは,印刷術の発明によるグーテンベルク革命と同じくらい大き
い変化が,エレクトロニクスの発明によってもたらされつつある,と言った.最近
も,そのような変化の可能性を強調する議論がいろいろ出てきています.たとえば,
黒崎さんの訳されたデイヴィッド・ボルターの『ライティング スペース』や,ジョー
ジ・ランダウの『ハイパーテクスト』などでは,電子メディアが可能にした「ハイ
パーテクスト」,つまり,特定の作者のいない非線形のインターテクスチュアルな
織物は,実はジャック・デリダが言っているような意味での「テクスト」を体現す
るものであると言われ,さらに,マーク・テイラーとイーサ・サーリネンの『イマ
ゴロジーズ』などは,コンピュータ通信を使ってそれを実演しようとしている.ま
た,マーク・ポスターの『情報様式論』などでは,ミシェル・フーコーの理論を踏
まえ,このような原理で編成される社会は,生産様式というより情報様式という概
念で捉えなおしたほうがいいんだ,と論じられている.率直に言って,それらの議
論は単純すぎると思うのですが,善くも悪くも,新しい電子情報網の時代が,一見
秘教的に見えていた議論を即物的なレベルに引きずり下ろすような形で,かなり大
きなメディアの変容をもたらしていることは事実でしょう.
しかし他方,それは,開かれたテクストへの進化と言うより,近代の反省的主体以
前への退化と言ったほうがいいいのだという見方もある.たとえば,以前に柄谷さ
んとTVでその話をしたんですが(「鏡・ヴィデオ」,『GS』No.5《電視進化論》,
1987に収録),たとえば肖像画を描いてもらう場合,他者との弁証法的な関係の中
で,自分が自分で思っていたのとは違う自己のイメージと対話することでより深い
自己意識に到達するというようなことがあるとして,これがいわばヘーゲル的なも
のに対応し,スナップで写真を撮られる場合,そういう自意識にどうしても回収で
きない無意識の動きが捉えられてしまうとして,それがいわばフロイト的なものに
対応するとすると,電子映像が出てきて,即時に思ったようにイメージが改変でき
るということになる場合は,往々にしてユング的な原型みたいなものに退行してし
まう――というか,フロイトはもとより,ヘーゲル以前,さらにはデカルト以前に
戻ってしまいかねないんじゃないか.そこでは,人間がいわば電子の子宮に幼児的
に依存してしまうという事態が起こっていて,そのこと自体,情報様式とかいうよ
りも,それこそフレドリック・ジェイムソンふうに言えば,単に後期資本主義的な
生産様式に付随する現象だ,という言い方もできると思うんです.
もちろん,どちらの見方も極端で,真実はその両者が重なったところにあるんじゃ
ないかと思うんですが,そういう広い枠組みを考えた上で,話を進められたらと思
います.まず,本誌で創刊号から8号まで連載していただいた大澤さんに,新たな論
点を含めつつ話していただき,続いて,9号から連載していただいている黒崎さんに,
連載の論点や今後の展開について話していただこうと思います.

大澤――「メディア的変容」の連載を始めたときに考えていたのは,メディアその
ものに興味があるというよりも,われわれの身体の現在を発見的に導くための素材
として電子的なメディアの問題を考えると何かが判ってくるのではないかというこ
とですが,いまの浅田さんがおっしゃった問題意識の線でコメントして話の糸口に
したいと思います.
現在起きている情報革命が非常に大きな変化かどうかというのは,一概に言えるこ
とではないと思いますが,歴史というのは,たとえばパソコンができたからすべて
が変わるとかいうのではなくて,斜めに変わるというか,ある所から徐々に変わっ
ていって,気がついたときには目に見えて変わっていたりするのだと思います.電
子メディアが入ってきたときにどういう変化がまず起きるかというと,それまでの
われわれのコミュニケーションにおける基本的な前提や態度を,補強したり強化し
たりする――あるいは,前提にしてはいたけれど,それは理想の話であって,実際
はその理想はたいてい満足されていない,その満足されていなかった理想を本当に
現実化してしまうというような,そういう変化が起きるような感じがするんです.
連載の最初に電話のことを書いたんですが,電話というのは,いまさら言うほど新
しいメディアではないにもかかわらず,いま言った意味で興味深いところがある.
われわれの社会が,個我の主体性をベースにした,主体の先験的な能力によって構
想された社会だとしても,その先験的な能力というのは,いわば論理上の仮定にす
ぎなくて,主体が経験的な世界のさまざまな場面にローカリティを持っているとい
う事実は変えられない.つまり,どうしようもなく,近い者と遠い者がいるわけで
すよ.それを,古典的には手紙のような媒介によって円滑にコミュニケートさせよ
うとするわけだけれど,これはもちろん暫定的な方法でしかない.それが,たとえ
ば電話というものが出てくることによって,われわれのコミュニケーションは,ロー
カリティを克服することができるわけです.そうすると,ある種の先験的主体の理
想みたいなものがテクノロジカルな裏付けを持つというようなことが起きる.そう
いう意味でいくと,電話のコミュニケーションは,近代の欲望の完成された現われ
みたいなことになってくるわけです.ところが,それがかえって自己とか自我とか
いうもののアイデンティティに対して破壊的に作用する――それはもちろん,無意
識のうちにパフォーマンスとしてやってしまったことになるわけでしょうが.電話
でもそうなんで,そのことを連載で書こうとしたわけです.
あるいは,いま名前が出たポスターなんていう人は,完璧なデータ・ベースの管理
を考えると,フーコーが描きだしたパノプティコンの理想が本当に実現してしまう
んだ,超パノプティコンの時代が来るんだ,というふうなことを言う.その超パノ
プティコンというのは,そういう意味でいくと,近代の権力の無意識の欲望の実現
になってしまうわけです.しかし,たとえばフーコーが18世紀から19世紀をモデル
にしながら考えていた主体化のメカニズムみたいなものは,超パノプティコンから
は出てこないんですね.つまり,パノプティコンの理想的な実現は,パノプティコ
ンの機能の自己否定なのです.
だから,いま起きている情報革命が古典的な近代からの連続なのか断絶なのかとい
うと,そのどちらでもあるということになると思う.つまり,いままでやってきた
ことを補強するというか,むしろ本当に理想化してしまうわけですけれども,その
ことがかえって断絶だというような,そういう基本的な構図が考えられるんじゃな
いかと思うんです.

黒崎――私の連載は,「メディアと哲学」という表題ですが,大まかに言えば,コ
ンピュータの登場以来半世紀が経って,そのコンピュータとわれわれ人間との距離
がどのように変化してきたのか,ということを軸に論じています.形式的には三つ
のフェーズで考えていて,それは,1)他者としてのコンピュータ,2)環境として
のコンピュータ,3)内部化されたコンピュータ,ということです.60年代から80年
代後半ぐらいまでは,「コンピュータとは何者だ?」「これには知能があるのか?
心があるのか?」という形,具体的に言えば,〈人工知能問題〉という相で,コン
ピュータが問題とされました.哲学の問題から言うと,人間認識の逆照射という問
題です.しかし,コンピュータの小型化,高速化,パーソナル化は,予想をはるか
に上回る勢いで,80年代から急激に進みました.このフェーズにおいては,コンピュー
タは,われわれに脅威を与える他者という遠い位置に留まるのではなくて,完全に
環境化してしまいました.つまり,コンピュータは,好むと好まざるとにかかわら
ず,われわれの社会や生活や意識を深いところで変化させてしまう存在であるとい
うことです.これは,〈メディアとしてのコンピュータ〉と呼んでもいいし,ある
いは,もう少し具体的に言えば,文字情報だけに限定されない〈電子テクスト問題〉
と言い表わしてもいいかと思います.最後の,内部化されたコンピュータ.これは,
まだ連載には書いていませんが,いまのコンピュータ・シーンの展開は,他者,環
境などの相からさらに進んで,コンピュータがわれわれの身体の一部,あるいは頭
脳の一部として進入しつつあります.つまり,〈ヴァーチュアル・リアリティ問題〉
として捉えられる相ですが,これはわれわれの感覚や実在感の問題に深く関わるの
だと思います.もちろん,これら三つの相は現実的には複雑に入り組んだ関係をな
しているわけです.
今日のテーマに直接関係するのは,特に,環境としての,あるいは,メディアとし
てのコンピュータの話です.電子メディアの特徴を一言で言えば,〈情報の非質料
性〉だと思います.ここから,情報の値段の問題,情報量の増大がアクセスを阻害
しないという問題,個人とパブリックの距離の問題,情報のリアルタイム性の問題
などが現われてきます.そして,これら電子メディアの具体的性格と,先ほど浅田
さんや大澤さんが言われたような,デリダやフーコーたちの秘教的な教説とがどの
ように絡んでいくのか.こんなところが論点になるのだと思います.


コンピュータと超パノプティコン

浅田――大澤さんが言われたように,近代の先験的(超越論的)=経験的二重体と
しての主体というのは,普遍的であることを目指しつつ,実はローカルでしかなかっ
たとして,それが新しい電子メディアによってほとんど同時遍在性を獲得し,その
理想が実現されたかに見えるんだけれど,その瞬間に先験的な次元が希薄化されて,
事実上,雲散霧消するに近い形になる.これはその通りだと思うんです.
手紙を例にとると,何か腹が立ったことがあって抗議の手紙を書くんだけれど,読
み返してみると「まあいいや」ということになって,ほとんどの場合は送らずに済
ますんですね.ところが最近,電子ネット上で,いわゆるフレアリングといって,
怒って書いてしまったことがそのまま反省なしに即座に送られてしまうから,怒り
のメッセージの応酬になり,まさにフレアとなって燎原の火のように燃え上がって
しまうという現象が問題になったりしている.まだ初期形態だからそういうことを
やっているに過ぎないのかもしれない.けれど,以前なら時間的・空間的距離がプ
リヴェンションとして働くことよって否が応でも反省を強いられていたのが,その
必要がなくなることによって,主体が反省を通じて二重体として形成されるという
プロセス自体が怪しくなっているのかもしれない,とも思うんです.
フーコーが言ったパノプティコンのポイントは,真ん中の監視塔から常に見られて
いるということではなくて,実際は真ん中から見られていなくても,見られている
かもしれないから,そういう視線を個々の主体が内面化して二重体になってしまう
ということだったんだけれど,いまもし電子メディアですべてが透明化して社会全
体が超パノプティコンになるとしても,その場合に,超越的あるいは超越論的な視
線というのがどこにもないから,それを内面化して,主体を二重体として形成する
というモティーフもないということになるんじゃないか.

黒崎――パノプティコンが,超越論的な視線が内面化されるということで成立した
とすれば,今度の電子メディアの場合の超パノプティコンは,監視の視線が散逸す
るというか,遍在化するわけですよね.これを,電子メディアの持つ具体的な性格
に引き戻して考えてみると,情報を蓄積するのが紙だった場合には,手ごろな情報
量というのがありますね.たとえば,手書きカードで情報を蓄積していく場合,
100枚だったら十分活用できるけど,それが 1万枚作ってしまうと,一切が無意味に
なる.つまり,情報が増えると,それに対するアクセスの困難さが増加するから,
紙の文化の場合には,情報量の増加が,情報の活用度を阻害する.ところが,電子
メディアの場合には,情報は物じゃないので,いくら入れ込んでおいても困らない.
ハードディスクか何かの中に,ゴミだろうが何だろうが,とにかく入れておけばよ
い.必要なものだけを,検索の網で取ってこれる.情報量の増加が,アクセスを阻
害しないという構造があります.
したがってわれわれの日常のさまざまな行為,カードを使って買い物をするとか,
会員証でビデオをレンタルするとか,あるいは,高速道路を通行するすべての車の
ナンバーをコンピュータに蓄積する.そういう本当にトリヴィアルなことが,すべ
て蓄積されてしまう.紙の文化だったら考えられないことです.それら蓄積された
膨大な情報は,一度も使用されなくても,コンピュータにはいっこうに負担になら
ない.電子メディア時代では,われわれの何でもない行為までがすべてどこかに保
存されている.究極的には,あらゆる人の,あらゆる場所における,あらゆる行為
が保存されることになる.この構造は,知りたいときにはすべてを知れる,知りた
くないときには黙っていてくれる,そういう電子メディアの特徴が大きいと思うん
です.
そうすると,電子メディア時代には,権力=主体の構造がどう変化してゆくのか.
われわれの情報は,誰かに対して,どこかに必ず保存されている,という意識は存
在しています.しかし,監視の視線が散逸し,遍在化する場合,いわゆる,恒常的
で超越的な視線の内面化が不可能になるとすれば,さまざまな場所に分有された情
報がわれわれを規制してくる形はどんなものになるのか.

大澤――その規制が,いままでとはちょっと違うんですよね.パノプティコンとい
うのは,見られていなくても見られているかもしれないという可能性だけでやって
いくわけで,すべてを見る視点というのは現実化しないわけでしょう.つまり,可
能性としては担保されているけれども,絶対に現実化しないから機能するという構
造になっている.それが,いま黒崎さんがおっしゃったような情報の管理になって
くると,われわれがすべての行為にカードを介在させるようにでもなれば,われわ
れの人生の来歴というか伝記を,簡単に瞬時に集めて検索できるようになってしま
う.そうすると,パノプティコンが現実化してしまうわけです.いままでは,可能
性があるけれども絶対に現実化しないから,かえって現実的な効果を持つ,という
構造になっていた.可能性しかないということは,本当は現実化したいけれどそこ
までやるとボロが出るから,威嚇はするけれど本当にはやらない,という作戦だっ
たわけでしょう.しかし,現実化できるのなら,現実化してしまえばいいわけです
よ.現在のテクノロジーの水準からいけば,本当にそういう状況に近づいている.
パノプティコンは,別に可能性だけに引き下がっている必要がなくなってきている
わけです.けれど,そうなったときに今度は,権力が持続的なディシプリン(規律
・訓練)の作用を持つかというと,そうはならない.これは,少なくとも教科書的
なフーコー理解の中には入っていなかった事態だと思うわけです.つまり,パノプ
ティコン的な事態が本当に起きているにもかかわらず,そこでは結果としては19世
紀的な主体性というのは全然出てこない.われわれのパフォーマンスは常にチェッ
クされているのに,それが持続的な主体のアイデンティティに結び付くということ
は全くないわけでしょう.つまり,持続的に管理されているのに,先験的な主体の
視線なんてものは,全然内面化されてこない.これは,ちょっとアイロニカルな結
果だと思うんですね.そういうことを,いまのデータ・ベースに関して考えたんだ
けれど,構造的によく似たような事態が電子メディアが関わるいろいろなところで
起きているんじゃないかなという感じがしているんです.

浅田――だから,ドゥルーズがフーコーを踏まえつつさらに現状を展望して,ソヴ
リンティ(君主権)の時代があり,ディシプリンの時代があったけれども,いまは
コントロールの時代だと言っているわけですね.しかし,そのコントロールの時代
というのは,逆説的にも,ディシプリン以前の時代と通底するところがある.
先ほどの手紙の話に付け加えると,昔の日記というのも,非常に不十分でバイアス
のかかった記録ですよね.しかし,いまそれこそパソコンで毎日何時間も費やして
記録を残している人がいる.その日,メールがどれだけ来て,どれだけ送って,ど
れだけ仕事をして,と,そういうことがほとんど完全に記録として蓄積されている
わけです.だけどそれが,かつての日記のような形で,いわば自分のヒストリーを
担保するものになり得るかというのは,問題ですよね.あるいは,昔の書簡集とい
うのは読むととても面白いけれど,たとえば膨大な電子メールのやり取りとなると,
全部追跡する気にもならないし,そこから何か出てくるかも問題でしょう.そこが
微妙なところなんですよ.

黒崎――そうですね.さっき浅田さんがおっしゃったように,手紙の場合には,た
とえば筆を用意して,紙に書いて,宛て名も書いて,切手を探して貼って,ポスト
に投函する.そこで,留まる瞬間というか反省する時間が存在する.ポスト,つま
り〈差延〉ですね.けれども,電子メールでは,相手が一人の場合はともかく,た
とえばフォーラムなどが開かれていた場合には,自分の意見をパブリックにする,
その距離感があまりにもない.もう,自分の発想そのものが,瞬時に公のものとなっ
てしまう.とにかく脳味噌に電極をぶち込んで,直結して表に出すという形に近い
から,フォーラムなんかでの意見のやり取りというのは,本当に混乱状態なんです
よね。カオス化してしまって,有効な情報源としてはほとんど使えない.だから,
逆に専門家同士で閉じてしまうという方向にどうしても行きがちなんですね.


「おぞましい客観性」

柄谷――黒崎さんがいま言われたような状態というのは,ヒュームが自己について
言っていることですよね.自己というのは束に過ぎない,と.

黒崎――ええ.知覚の束であり,多くの知覚が次々に登場する劇場である,と.

柄谷――カントは,それを統合するものとして,超越論的統覚というのを持ってき
た.それで言うと,電子メールの状態というのは,ヒューム的な状態なわけだよね
(笑).

黒崎――とにかく流れ過ぎていく.

柄谷――それに対し,カントが言っている統覚とは何かというと,一定の時間が入っ
ているわけで,その中でとりあえずまとめようとしている,それを自己と呼ぶとい
うことだと思うんです.だから,手紙を書いて読み返すときには,一応自己は成立
するんだけれど,電子メールでそのままパッと送ってしまうと,1分前の自己が出て
いくわけです――書き終わったときにはもうその段階の自己とは違っているのに.

黒崎――カントで言えば,統覚が欠けた場合に生じる諸知覚のラプソディ(狂詩曲)
というやつですね.

柄谷――それを奨励してきたのはある意味ではポストモダニズムだと思うんですよ.
ドゥルーズにしてもn個の自己があるとかね(笑).それは後期資本主義に固有のも
のだと思うので,ヒュームみたいにもっと前からあったものではあるけれど,それ
が現実化されたんだと思うんです.
大澤さんは先ほど,電話のことを言われましたが,それ以前に,写真とか音声のレ
コードというのは,自分にとってはえらくショックなんですよね.「みんなはよく
撮れているけれど,俺は違う」とか,そういうことがあるでしょう(笑).テープ
も同じじゃないですか.それを,僕は「おぞましい客観性」と言うんです.いわゆ
る客観性というのは,カント的に言えば主観の構成する現象に過ぎないわけで,結
局は主観性ですね.しかし,「おぞましい客観性」というのは頑としてあるわけで
す.むしろ,それが本当の自己を作るんですね.しかし,それを電子メディアとい
うのは絶対に見せない.その意味で言うと,快適になっていくんじゃないかな.電
話でも何でも,大澤さんが連載で例に挙げているのは,みんな絶対に自己の他者性
に出会わないようにしているということだと思うんです.他者はあっても,それは
他者ではないんですね.

浅田――ただ,大澤さんが言われるように,その自己の中に他者が入ってくるとい
うか,自己が分裂してその中に他者が含まれてしまうということがあると思うんで
す.しかしそれは,言い換えれば,他者をそのような形で内面化しているというか,
もう一つの自己として内側に取り込んでいるということでもあるわけでしょう.

大澤――基本的にはおっしゃる通りだと思います.ただ,厳密には,そのへんは両
義的でしょう.恋愛なんかで顕著に体験するように,他者というのは,自己に内在
しているときに,かえって突然自己を裏切るとか,逆に,自己から疎遠だと思って
いたときに,突然,自己に内在しているということがありますから.

柄谷――たとえば,文字でも印刷物でもいいけれど,それはある種の自己疎外をも
たらすわけです.自分の書いた昔の本を読んでいると,「俺はこんなことを本当に
書いたんだろうか」とか思うわけですよ(笑).しかし,それは否定しがたくある.
ところが,ワープロに保存されている状態のものは,いつまで経っても終わらない.
いつ書かれたかという証拠もないし,あったとしても,次々に書き換えられるんだ
から,大して意味があるわけでもない.それこそ,脳のある一状態に過ぎないもの
であって,人格と関係してこないように思うんですよ.

黒崎――あまりにその瞬間瞬間をそのまま書き留めてしまうものだから,「知覚の
束」,「知覚のラプソディ」になってしまって,統一的な視点を作るだけの時間的
なディレイがない,という感じはありますよね――もちろん,カントで言えば,超
越論的統覚は,単に時間的なディレイの問題だけじゃありませんけど.とにかく,
情報がほとんど光の速さでわれわれの所に来てしまうという状況の中で,主体的に
状況を見わたすってどういうことなんだろう.さっき,大澤さんが,電子メディア
時代では,持続的に管理されてるのに,先験的な主体の視線が内面化されない,と
いう管理される側のアイロニカルな構造を指摘なさったけど,具体的な電子情報網
の次元の話に戻せば,同じ構造が,管理する側にも起こっていると思う.あらゆる
情報が光速でやって来て同時に表示されてしまうということになると,1000も2000
ものリアルタイムの情報が私の所に入って来てしまうわけで,それは「すべてを見
る」というパノプティコンめいた錯覚を与えるにもかかわらず,実際にそれを見る
者は膨大な情報の海の中におぼれてしまうだけかもしれない.われわれが,主体的
に,つまり,推論的(理性的)にものを考えられたのは,メディアの制約によって,
たまたま判断すべき要素が比較的少数だったから可能であっただけなのかもしれま
せんね.

浅田――ヴィリリオも強調するように,リアルタイムの電子情報の時代の最大の問
題は「判断する時間がない」ということでしょう。

黒崎――さらに言えば,近代のパノプティコン的状況がパラドキシカルな状況に陥
るのは,電子メディア時代において,少数の権威ある〈著者〉と多数の読者という
峻別の構造が壊れるのと,類比的だとも言えます.

大澤――デリダが「声」のことを書いていて,日本でもよく読まれたわけですけれ
ども,なぜ声というのが形而上学的に特権的な作用を持っているかというと,自分
が話すのを直接聞いているということがあるからで,話すことと聞くことが同じこ
とになってそこに距離がないという声の特権が,内面というものと親和的になり,
近代に至れば,近代的な個我の基本的な原型を作っていくということになる.とに
かく,話すことと聞くことの距離がないということが重要だ,と.

黒崎――両方とも同時に現前しているということでね.

大澤――あるいは,黒崎さんの書いている著者性の問題でいくと,これはフリード
リッヒ・キットラーが書いていたことなんだけど,中世の写本の段階では,書くこ
とと読むことの間には非常に距離があって,たとえば写本はできても,つまり,す
ぐれた書記として文字を図形としてはきれいに写せても,その人が内容を読めてい
るとは限らなかった,と.しかし,われわれは,書くことと読むことは,もちろん
別のことではあっても,非常に近い能力だと思っている.あの作者は読むことがで
きないなんていうことはあり得ない.話すことと聞くことが同じになっているとい
うことと類比的に,文字テクストのレベルでは,中世に比較して,書くことと読む
ことの距離が非常に縮まってくる.それが18世紀末から19世紀にかけて,「作者」
というものの成立と非常に深く関わっていた,というのがキットラーの論点だった
わけです.
そこで思うに,電子メディアというのは,本当に話すことと聞くこと,あるいは書
くことと読むことを同じにしてしまったんですね.まだいまの時点では,黒崎さん
が書くことと,それを僕が読むことは,別のことになるけれども,電子出版みたい
な形で書かれたものが同時に送られてきて,自由に書き込みをしたり編集を変えた
りできるとすると,書くことと読むことが完全に一致するわけでしょう.そうする
と,19世紀の初めぐらいに著者性というものを成立させていった,書くことと読む
ことの近接という条件が,ここで完全な一致にまで至る.至るんだけれども,その
ときに起きていることというのは,むしろ19世紀的な著者性の解体だと思うんです.
デリダは話すことと聞くことの一致という体制が重要だと言ったんだけど,それと
表裏一体の形で,本当には一致しないという側面が実はあるわけですよ.話してい
るときには,話しているけれども聞いていなくて,聞くことになったときは,「俺
はあんなふうには話していなかった」ということになる.話すことと聞くことの間
に実はもともと微妙な乖離があったわけです.そっちの方が本当は内面性とか著者
性にとっては重要だったんですね.つまり,話すことと聞くことの一致を指向して
いながら,それが必ず疎外されてしまうという構造があって,それがさっき柄谷さ
んが言ったような「おぞましい客観性」につながり,その「おぞましい客観性」と
いうのが微妙な反省の時間と結び付いていて,そういう形で主体の能力を保証して
いた.隠蔽しようとしながら隠蔽できなかったその側面によって,主体が保証され
ていたということがあったわけです.でも,それを本当に脱却してしまったときに
は裏返しの結果が出る.そういうアイロニカルな現象がいま起きている,というふ
うに黒崎さんの連載を読んだわけです.

浅田――デリダが言っているのは,実際は「自分が話しているのを聞く」というと
ころに不可避的なずれがあって,本当はそのずれが現象学的な自己を解体すると同
時に可能にもしているということですよね.現象学的自己は,表層においてはその
二つがぴったり一致するという虚構に基づいているけれども,実際はその間にある
ずれこそが,深層においてその可能性の条件を作っているんだ,と.
もう少し一般的なレベルで言って,超越論的自己と経験的自己と言ってもいいし,
発話行為の主体と発話の主体と言ってもいいし,あり得べき私といまここの私と言っ
てもいいんだけれども,その間に常に乖離があって,その乖離があるからこそ常に
語りつづけなければならず,自己を訓練しつづけなければならない,というのが近
代の主体の原型だったわけですね.しかし,いま大澤さんが言われたような意味で,
その乖離が電子メディアのサプリメントによって埋められたかに見えるときに,す
べてが反転してしまうというのは事実なんです.


リアリティの転回

柄谷――先ほど言った「話す−と−聞く」ということは,別の言葉で言うと「思う
−と−ある」ということだと思うんです.「思った」とおりに「ある」かどうか.
「ない」というのが「おぞましい客観性」なんです.それは,マルクスが言ったイ
デオロギーの問題だと思う.「人間は思っているようにあるのでない」というのが
マルクスのイデオロギー批判でしょう.カントの批判もやはりそういうものだと思
うんです.
カントが自己というものを出してくるときも,統覚として出してくるのであって,
それは明瞭な自己意識とは違うものです.むしろ,カントが言っている総合判断の
問題というのは,「思う」ことと現に「ある」こと,その総合が実はできないとい
うことなので,そのずれを埋めているのが自己だということになる.デリダ風に言
えば,その差延が自己を作っているという形になると思うんです.だから,統覚が
ないと総合判断も成立しない.そこで,お互いに構成しあっているという形になっ
ているんだと思うんです.そこのところを,現に「ある」方を取り除いてしまうと,
観念論としてバーッとやれる.カント以降はそういう形をとるわけでしょう.

黒崎――「物自体」を消すという方向の…….

柄谷――というか,フィヒテ以降,「思った」とおりに「ある」というふうに想定
してしまう.リチャード・ローティがポスト構造主義のことをテクスチュアル・ア
イディアリズム(テクスト的観念論)と言ったけれども,実際,70−80年代のイデ
オロギーは,フィヒテ以降の観念論に似た形態をとったと思うんですよ.たとえば
広告が欲望を作り出すとか,それが消費を喚起するとか.それまでの通俗的な生産
中心主義に対して,今度は消費中心主義に反転した時期があった.その反転は,基
本的には他のあらゆる領域で行なわれた反転を含んでいると思うんです.しかし,
その時期ももう終わったわけで,だから僕はすべてはその後から考え直さなければ
いけないと思っているんです.そもそも,バブルがはじけたこと自体,やっぱり
「思った」ように「ある」のではないという証拠でしょう(笑).

浅田――ある意味でポストモダニズムがカント以前のヒュームに近いというのはおっ
しゃるとおりですね.たとえばドゥルーズは,カント的批判の徹底としてのニーチェ
的批判というのを主軸にしているとはいえ,ヒュームへの傾斜においては柄谷さん
の言われる傾向と合致する部分を持っている.と同時に,ポストモダニズムがカン
ト以降のフィヒテからロマン派への流れに近いというのも事実でしょう.たとえば,
大澤さんを前にして言うのもなんですが,システムの自己組織化あるいはオートポ
イエーシスの理論というのはその典型で,ノルベルト・ボルツなんかはフィヒテと
スペンサー = ブラウンを対応させるわけだし,日本でも村上淳一なんかがロマン
派の現代的展開として自己組織システム論を捉えている,それはかなり正しいと思
うんです.まず情報的原理を立てておいて,他者をも内側に巻き込むような形での
自己組織化が論じられる.柄谷さんの文脈で言えば,すべてをゲーデル的な自己言
及のループの中から見て,ヴィトゲンシュタイン的な他者を内部化してしまうわけ
です.ちなみに,デリダのディコンストラクションを前者に還元するのは誤りだと
思いますけれど,流行としてのディコンストラクショニズムの方はほとんどそこに
還元できるでしょう.いずれにせよ,後期資本主義の消費社会の内部に囲い込まれ
た中でのヒューム的多元論にせよフィヒテ的観念論にせよ,90年代に入るともたな
くなるわけですね.

柄谷――まあ,実際に,バブルの崩壊とか不況とかいう形で「物自体」のようなも
のが露出してきますからね.

浅田――バブルというのは,みんなが高くなると思えば高くなるという自己成就的
予言によって膨らむわけで,まさにオートポイエーシスの戯画そのものですよ.

柄谷――それが崩壊したときに,みんなそれなりに「おぞましい客観性」を見たん
じゃないんですか(笑).

大澤――『批評空間』(第II期3−5号)に掲載されていたスラヴォイ・ジジェクの
論点を借りると,80年代というのはメタファーを逆転させる時代だったとして,い
まはそれをもう一段逆転することが重要なんですね.たとえば,ヴァーチュアル・
リアリティというのはリアリティのメタファーだった.しかし,言語論的転回のよ
うな知的ムードの中では,実はリアリティこそヴァーチュアルであるという言い方
が出てきたわけで,リアリティなんかにこだわるんじゃない,みんなヴァーチュア
ルなんだ,と.しかし,そこまでじゃだめで,それをもう一度逆転させてみること
が大事だ,というのがジジェクの観点なんです.そうすると,ヴァーチュアル・リ
アリティということで説明できない部分があって,それが真にリアルな部分だとい
うことなる.カントの言葉で言えば「物自体」ですね.つまり,ヴァーチュアル・
リアリティでリアルなものを説明したときの,その説明の残余こそが重要になって
くるわけです.
僕も黒崎さんも昔興味を持っていた人工知能の問題だと,フレーム問題というのが
まさしくそれだと思うんです.もともと人工知能は知能のメタファーだったわけだ
けれども,やがて,逆に,知能というのは人工知能と同じなんだというような計算
主義みたいなものが出てくる.そうやって人工知能によって知能を逆照射するとき
最後に出てくるのが,フレーム問題なんですよ.そのフレーム問題をどう解決した
らいいかは判らないんだけれども,それが計算主義の臨界点にあるということは判っ
ている.そういう段階なのかなという気はしているんです.われわれが電子メディ
アについて語るとしても,そういう裏の裏から見る視点で考えないと意味がない所
にいるのかな,と.

黒崎――フレーム問題に関して,われわれは機械を笑っていたんです.何か行為を
するときに,われわれは言われなくても文脈が判っている.ところが,コップを取
るという,この行為一つをロボットにやらせようすると,いろんな条件を最初にい
ちいち明示的に書いてやらなければいけない.それで人間は凄いなという話になっ
た.で,「ロボットにはこんなに情報を入れてやらないと動けない,入れすぎても
動けない.かわいそうだなあ」なんて言っていたわけです.ところが,どうも人間
がいま直面している状況は,あまりにものすごい情報量のために判断停止に陥って
いて,ほとんどわれわれ自身がフレーム問題に直面しているようなものなんですね.
フレーム問題から逆照射したときに逃れるわれわれの残余,リアルな部分がその原
因かどうかは難しいところでしょうが.


情報資本主義と著作権

柄谷――そこから少しずれるかもしれないけれど,昔だと,資本家という個人がい
たわけですが,現代の日本の法人資本主義だと,まず資本(所有)と経営が分離し
ていて,その資本は誰が所有しているかというと,株の持ち合いの形で別の資本=
会社が持っていたりするわけですね.だから,どこかに特定の資本家という主体を
想定できない.それは資本主義の段階としては,すでに20世紀初頭に出てきていた
と思うんですよ.
それと同時に,他の分野,たとえば映画などでも,同じ問題が出てきている.早い
話が,映画は,監督がすべてを作るわけじゃなくて,チームで作りますから,映画
の著作権というのはけっこう難しいんですね.先ほど著者の問題が出ていたわけで
すが,著者の問題は著作権の問題と密接に関係している.著者を確定することの困
難と,著作権を確定することの困難は,同じ問題です.その問題は,1920年代には
もう出てきていて,それに積極的な意味を与えようとしたマルクス主義者もいる.
日本だと「委員会の論理」の中井正一がそうだと思うんですね.原子論的な個人で
もなく,全体でもない,委員会というようなものを考えて,そこに近代の主体を超
える鍵を見出そうとしていた.物理的にはなかなかそこまでできないけれども,ア
イディアとしてはすでに成されていると思うんです.
たとえば,川喜多二郎のKJ法というのを知りませんか.

大澤――社会学ではかならず訓練させられますね.

柄谷――僕は実際にやったことはないんですが,そういうことを夢見ていたことは
あります.いまだったらコンピュータで簡単にできちゃうでしょう.
そういうふうに,アイディアそのものとしては昔からほとんど全部あったとも言え
る.しかし,アイディアとして言われたときには革命的なのに,そういう理想があ
る程度実現された途端に断絶が起こって,何かものすごくいやらしい形になるわけ
ですよ.
だから,いまデータベースが巨大なパノプティコンであるとして,誰がそれによっ
て監視するのかというと,その「誰か」がいない.資本があるのに資本家がいない
のと同じです.ある特定の誰かだったら,直視できるし,前にいなくても後ろを振
り向けば見えた.それができないとなると,すごくいやらしい権力の形になるわけ
ですよ.

黒崎――電子メディア時代では,監視する「誰か」がいなくなるのと類比的に,確
固とした著者性も揺るぎますよね.柄谷さんがおっしゃったように,著者性の問題
と著作権の問題というのは,ほとんど一体だとは思うんです.ただ,著作権法とい
うのが成立したのは,18世紀初頭のイギリスだったと思うんですけど,著作権法が
できたから著者というのができたかというと,そのへんは微妙で,著者がいなけれ
ば著作権法はいらないわけだし,じゃあ著者というのはそこからできたかというと,
そうでもないんですね.それまで物書きというのはどうやっていたかといえば,本
を貴族か誰かに献呈して大量にお金をもらう,というような形で食っていたわけで
す.最近D・Saundersという人が,著作権法と著者の問題というのは絶対一体だと書
いていて,文科系で著者性の問題について騒いでいるのを法律の問題に解消しよう
としているみたいだけど,そうでもないと思うんです.

柄谷――そう,並行性はあるし,密接に関係もするけれど,違うと思う.

浅田――ただ,いまの趨勢は,それこそ音楽でも,二次的,三次的にサンプリング
を重ねていくと,もう一次的なソースに遡行することすら不可能になるし,ほんと
に遡行して使用料を払い始めたらとてつもないことにもなるわけで,結局,著作権
という概念を必死になって守ろうとしているにもかかわらず,そのことでかえって
雲散霧消させつつあるということですよね.

黒崎――実際,本当に知的なものがある個人に帰属するものかどうかというのは,
非常に微妙ですよね.書物を書くと,印税という形でお金をもらえるけれど,その
書物の値段というのは何なのか.つまり,情報の値段とは何かということです.た
とえば,OED(オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー)というのは,
全数十巻になっていて,二十数万円とかいうわけです.この価格のほとんどは,お
そらく紙代,印刷代,運搬代ですね.ところが,あれがCD-ROM化されると,価格は
現状のところは本と同様に二十数万円だというんだけど,どうしてこのCD-ROMが二
十数万円なのかはよく判らないわけです.
たとえば,グーテンベルク以前,聖書の写本1冊というのは高価なものでは銀で300
kg程でずいぶん高かったんです.いまなら,聖書はコーヒー1,2杯分の値段です.
とすると,それは書かれている情報そのものの値段なのかどうか.むしろ,ポスター
も言っているようにその容れ物の値段であるような気がするんです.
電子メディアは,物質性から逃れてしまった結果,形相と質料が分離してしまって
いる.もちろんわれわれが情報を見るときには質料性に返してやらないと見られな
いから,プリント・アウトしたり,画面に呼び出したりするけれど,基本的には情
報は形相そのものになってしまった.だから,電話回線を通じて流れたり,電波と
して空を飛んだりするわけですね.いままで情報のパッケージに値段が付いていた
ことで値段が決まっていたとするなら,情報のパッケージから逃れてしまうような
新しい情報形態,いまの電子メディアのような情報形態での値段というのはどうい
うふうに決められるのかというのが,難しい問題だと思うんです.
たとえば,学術関係の本というのは高いわけで,一般の読者には内容が良いから高
いように受け取られかねないけれど,あれは部数が刷れないから8000円も9000円も
してしまうという問題なのであって,それと同じ情報を,たとえばネットで流して
しまうとすると,値段をどのように付けるのか.それは大変困難です.

柄谷――それはマルクスが言っている剰余価値の分配の問題ですよ.マルクスの当
時の考え方では,物質的なものを作っている労働が価値を作っていて,他の人はそ
れを取り合っているんだ,と.精神労働と言うけれど,労働概念の成立によって精
神労働と言うようになったわけで,それまでは,物を書いたり説教をしたりして,
今日は精神労働をした,なんて思っていたわけではない(笑).神様に行くもので
あるとか言って,当然のようにお金をもらっているわけですね.

黒崎――精神労働の対価としてお金をもらうようになったのは,そんなに昔のこと
ではなくて,ついここ100年か200年くらいのことだとすれば,これからはそれがな
くなっても格別おかしくはないでしょう.デジタル化された電子メディアでは,も
うコピーとオリジナルという関係もないから,情報を無限に再生産できて,全く質
の低下を招かない.そういう状況の中で著作権を守ろうとする努力は非常によく判
るけれど,そういうことが果たしてどれぐらい可能なのか.

柄谷――著作権というのは本来難しいものだったので,いまその難しさが出てきて
しまったわけですよ.さっきの映画の話にしてもそうです.そういう考えは,20年
代にもうあったけれど,その後だんだんと浸透して,70年代以降のテクスト論なん
て,全部そうなったと思うんですよ.「インターテクスチュアリティ」とか「引用
の織物」とかね.それは理論的な話に見えた.しかし,ワープロを使うようになっ
てからは,それは現実的な話ですね.自分で自分の引用をしているんだもの(笑).

浅田――最近ワープロ小説とでも言うべきものが増えてきて,笙野頼子から三浦俊
彦にいたるまで,言葉遊びの限りを尽くしているわけだけれども,あれは結局,ジョ
イスをワープロで簡単にやってみただけのことで,しかもジョイスのようなインパ
クトがほとんどない.

柄谷――ジョイスなんかは,それこそ重力に抗してやったんじゃないのかな.いま
は軽く浮遊できるわけだけど.

大澤――著作権とか著作者という考えに矛盾があるというのは,理論的にもそうだ
と思うし,実践的にも確実にそうだと思うんですよ.しかしそれが仮にたかだか何
百年の歴史しか持たないとしても,その種のアイディアでわれわれの社会が作られ
ているという事実も無視できないと思うんです.たとえば,著作権とか著作者なん
ていうものは虚妄だとか言っていても,自分のものがどこかで剽窃されていれば,
やっぱりちょっと腹が立つとかいうようなことはあるわけでしょう.あるいは,誰
が誰に対して原稿料を払うのかという問題もある.われわれの社会は,そういうベー
シックなアイディアを基本に動いているわけなんですよ.
たとえば,柄谷さんの言われた,法人資本主義が日本の資本主義を特徴づけるとい
う点に関して,岩井克人さんが柄谷さんとの対談で言っていたんだけど,日本の社
会というのは,法人に実体がなくてもわりに平気でいられるということがあったわ
けです.簡単に言えば,法人資本主義でやれるのは,あまり突き詰めずに不徹底で
やっていけるからですよね.しかし,われわれの社会を成り立たせてきた原理に忠
実であろうとすれば,法人のような実体がない集合性を,それ自身として宙づり状
態で自立させるのではなく,できるだけ個人の主体性=所有権に還元しようとする
傾向が現われる.アメリカやヨーロッパでは実際にそうです.しかし,いまやその
原理的な指向を理論的にも実践的にも維持できない段階に来ているわけでしょう.
だから,日本の法人資本主義のように,うんと簡単に言えば,なあなあでやってき
た社会は,とりあえずそれで生き延びられるとしても,突き詰めるとやはり個人と
か所有者とか著者とか,そういうものに回帰せざるを得ないということが一方にあ
ると思うんで,そこでどういうふうに問題を解消していくかということが,もうちょっ
と本気に考えられなくてはいけないのかなという気がするんです.


共通の暗黙知とコモン・ノレッジ

浅田――たしかに,社会には不徹底なるがゆえに成り立っているところがあって,
ルールをすべてエクスプリシットにしてしまうと逆に壊れるということがあると思
うんですよ.たとえば,哲学者のデイヴィッド・ルイスが名付け,ゲーム理論家の
ロバート・オーマンが定式化した「コモン・ノレッジ」という概念がある.暗黙に
共有されている知識というのではなくて,みんなが知っていることをみんなが知っ
ていることをみんなが知っている……というふうに無限に続く知識のことです.
ゲーム理論にはユダヤのたとえ話というのがよくあるんだけれども,この場合も例
外ではなくて,こんな話があります.365組の夫婦からなる村があり,そこでは自分
の妻が不貞をはたらいていることを確実に知った夫はその日の深夜にその妻を殺さ
なければならないというものすごい戒律があるんだけれども,実は不貞が横行して
おり,みんなもそのことを何となく知っていて,ただどの夫も自分の妻が不貞をは
たらいているという確信は持てないという状態だった.そこへ旅人がやって来て,
村人全員が集まっている前で,「このなかに少なくとも一人,不貞をはたらいてい
る女がいる」と公言する.そのことが「コモン・ノレッジ」になるわけです.それ
で,しばらくは何も起こらないんだけれど,それから1年後の深夜,村のすべての夫
たちが妻を殺すんです.2組の夫婦しかない場合を考えれば,よく判る.A氏はB夫人
と不倫を犯しているけれども,A夫人がB氏と不倫を犯しているかどうか確信がない
ので,B氏の出方を見る.もしA夫人が不倫を犯していないとすれば,B氏は当然その
ことを知っており,したがってB夫人が不倫を犯していると確信せざるを得ないから,
旅人の発言のあった日の夜にB夫人を殺すだろう.B氏がそういう行動に出ず,同様
にこちらの出方を見ているとすれば,A夫人も不倫を犯していると結論せざるを得な
い.同じ推論はB氏の側でも成り立つ.それで2日目の夜にA氏もB氏も妻を殺さざる
を得なくなるわけです.これを3組以上の場合に一般化するのは宿題ということにし
て,要は,共通の暗黙知が「コモン・ノレッジ」へと明示化されたとたん,ドラス
ティックな変化が起こり得るということです.
ちなみに,フランシスコ・バレラのオートポイエーシス論を社会システム論に応用
しようとしているジャン=ピエール・デュピュイは,「コモン・ノレッジ」の問題を
取り上げながらも,「Aが知っていることをBが知っていることをAが知っていること
をBが知っていることを……」という二項的/イマジナリーな関係の累進の中から第
三項的/シンボリックな「コモン・ノレッジ」が連続的に自己組織されてくると考
えている節がある.これは逆なんで,そこに不連続的なギャップがあることこそが
問題なんですね.
とにかく,知識を暗黙に共有しながら,さっきの大澤さんの言い方で言うと,なあ
なあでやれていたのを,コミュニケーションが発達して,すべての知識をエクスプ
リシットに出してしまうと,すごくドラスティックな変化が起こるということがあ
り得ると思うんです.実際,いま起こっていることは,著作権の問題にしても何に
しても,いままで誰もがフィクションであると知りつつ,なあなあでやり過ごして
きた問題を,全部エクスプリシットにすることで,フィクションを維持しにくくなっ
ているということだと思うんですね.そこでのイデオロギーというのは,ジジェク
が言っていたみたいに,「知らないが行なう」という形ではなく,「知っていて行
なう」という形の,シニカルなイデオロギーになっているんじゃないか.

大澤――たとえば,柄谷さんがおっしゃったカントの超越論的統覚というのは,何
かすごいことのように聞こえるけれども,言ってみれば,振り返って考えてみてちょっ
とクッションをおく,みたいなことでしょう.一般に,超越論的といったところで,
経験的な操作に過ぎない.浅田さんのおっしゃったことで言えば,所詮はそうだと
いうことをみんな知っているけれども,しかし誰も問題にしなかったわけですよ.
しかしいまは,所詮はそうであることが明示化された段階だという感じがするんで
す.しかし,理論上はあることになっている以上,本当はないとも言い切れない所
もあるわけでしょう.実際,つまらない経験的な反応,たとえば一瞬の自分の雑談
みたいなものをパブリックにしてしまうというとき,建前上は超越論的統覚の操作
もそこに入っているはずなんですよ.建前上カントで動くヒュームというのがある
んじゃないかと思うんです.みんなヒューム的にやっているんだけど,カント的な
建前がある.たとえば,みんな著作権法というのが実践上役に立たないものである
ことを判っていながらも,それに従って動いている.ヒュームをカントと言いくる
めなければならない段階が起きるわけなんですね.

浅田――それがシニシズムといえばシニシズムでしょう.

柄谷――超越論的統覚の問題は,たとえば,人格の同一性がどのようにあるのかと
いうことから来ているわけですね.刻々と違う自分がなぜ同一の自己として言える
のか.ヒュームはそれは習慣に過ぎないというけれども,『人性論』によれば,彼
はこの懐疑の結果立ち直れないぐらい打ちのめされています.ブランケンブルクが,
分裂病とは生きられた現象学的還元だと言っていますが,ヒュームの場合,彼の懐
疑,つまり自明性の還元はほとんど「生きられて」いて病的です.ところが,彼は
また,友人たちと話しているうちに元に戻る,すると,もうあんな理論は空疎に見
えてしまうとも書いている.このようなヒュームの例こそ,超越論的統覚を証明し
ていると言えるんですね.超越論的統覚,あるいは人格の同一性はけっして積極的
には示されない.それはその欠如としての結果,つまり病的な状態において示され
るわけです.僕は,カントもこのような病気と無縁だったはずはないと思うんです.
カントの言う超越論的統覚はいわば「病者の光学」(ニーチェ)から出てきている
と思うんですよ.ドイツ観念論では,このような主体は世界を生産する精神という
ような主体になっていくわけですが,カントにおいてはそうではない.
超越論的主体は積極的に対象化し得ない.それは積極的に捉えると,「理念」(超
越論的仮象)になります.カントは,「自己」は統整的な理念であると言っている.
たとえば,人格の同一性というのは理念です.それは仮象だけれども不可欠だとい
うわけです.理念は仮象であるにもかかわらず不可欠であり統整的に働く.理念は
むろん「自己」だけではない.未来社会という理念もあります.カントで言えば最
高善,マルクスで言えば共産主義.それらも統整的な理念ですね.
現在のポストモダニズムにおいては,こういう同一的主体や未来の理念(歴史の物
語)は解体されました.その場合,右の側からでも左の側からでも,多数性とか,
中心の解体とかヒューム的な主張がなされた.しかし,これはヒューム = カント
的な問題の急所に届いているとは言えない.それは現在の資本主義のイデオロギー
でしかない.たとえば,環境汚染の問題がある.カタストロフは確実にせまってい
るのですが,たぶん自分らの生きている時代には起こらないだろうと人は思ってい
る.先ほど,過去の自分も自分であるというような同一性は統整的な理念であると
言ったけれど,未来の自分に関しても同じです.現在しかない,刻々と変容する自
己――などというものでは,後世にすべてのつけをまわす資本主義の運動にぴった
りです.

浅田――未来の問題がグローバルな次元で具体性を持って現われてきているにもか
かわらず,個々の意識は「いま,ここ」の瞬間性の方に集中してしまっている.そ
れが現代の主要矛盾なんじゃないですか.

大澤――それもやはりさっきの基本的な矛盾と似ているところがある.もともと未
来の方まで考えておくのがいいということはあったわけでしょう.で,いまとなっ
ては,本当に未来がかなりシミュレートできてしまう.本当にそういうことができ
てしまうと,しかし,また別問題になって,それと実際のパフォーマンスとが極端
に分離してしまうんです.真木悠介によれば,未来予見的に動くということが近代
的主体の一つの特徴だということだけれど,本当に未来予見ができるようになっちゃ
うと,ものすごく瞬間的に現在に集中してしか行動しなくなるというパラドックス
が起きてしまう.これまた,理想が実現したとたんに逆のことが起きるという一つ
の事例だと思いますね.

柄谷――かつてカール・ポパーが,社会科学が科学的であるためには反証可能でな
ければならないと言って,マルクス主義や精神分析を批判した.その場合,ポパー
の言うのは社会工学のようなことだと理解されていました.しかし,彼が言ってい
ることはやはり統整的な理念なんですね.「開かれた社会」が理念としてある.た
だし,そのような状態に到達すべく活動するというのでもなくて,それを目指すプ
ロセスそのものに「開かれた社会」がある.僕は,これはマルクスが「共産主義」
について考えていたことと全く同じだと思います.つまり,共産主義は達成さるべ
き理想の状態ではなくて,現実の諸矛盾を超える現実の運動においてあるとマルク
スは言ったけれども,それは共産主義が統整的な理念としてあるということだと思
います.ポパーもマルクスもカント的なんだと思う.

浅田――ポパーが攻撃するいわゆるマルクス主義というのは,それを贋の理念で構
成しようとするから,実際は「閉じられた社会」としての全体主義になってしまう.
それに対する「開かれた社会」というのは,いわば統整的な理念なんですね.で,
実際には「部分的社会工学」でちょっとずつ繕っていくことしかない,と.

黒崎――カント的理念を構成的に使うのはあやまちで,ちゃんと統整的に使えとい
うことですね.

浅田――とにかく,グローバルな秩序を上から構成的にデザインすることは,もう
できないんじゃないかと思うんですよ.ただ,全く逆から発想するということはあ
るかもしれない.この間『SAPIO』誌(1995年1月26日―2月9日号)で,サラエヴォ
でサヴァイヴァル・リサーチ・センターというのをやっているスアダ・カピッチと
いう女性と話したんですが,サラエヴォは絶望的な状況にあるけれど,これこそ21
世紀の文明のプロトタイプだと思え,と言うんですね.たしかに,21世紀にいわゆ
る20世紀の先進国型の文明というふうなものを地球の全人口に享受させるのは不可
能だ.それどころか,ニューヨークにしてもどこにしても,インフラストラクチャー
はがたがたである.そうすると,インフラストラクチャーのネットワークに頼らな
い,スタンド・アローン型のシステム,それも,物質=エネルギーをあまり消費し
ない,ソフトウェア中心のシステムでいかなければいけない,と.そうすると,情
報ネットワークが非常に重要になるわけで,実際,彼女のところは,例のウォール
街の魔術師の創ったソロス財団の援助を受けて,衛星通信なんかを駆使してグロー
バルに活動しているんですね.マクルーハンみたいにグローバル・ヴィレッジとか
いう形で情報ユートピアを構想すると,いかがわしいヴィジョンに見えてしまうけ
れども,彼女の話なんかはすごくリアルなんです.

黒崎――衛星通信で思い出しましたけど, NHKの番組ですごいことをやっていまし
たよね.衛星通信というのは無差別に電波がいく.だからパプア・ニューギニアの
新石器時代的な生活をしているような人たちが集会所に集まると,TVにアメリカの
ファッション・ショーが映っていて,酋長が「We must be like that!」とか言う
わけですよ(笑).

浅田――それは世界市民的な理念の実現でしょう(笑).


ネットワークと共同著者性

黒崎――それから,ネットワーク型かスタンド・アローン型かということで言うと,
最近,コンピュータ関係の人と『月刊アスキー』(1994年9月号)で座談会をしたん
ですが,彼らは来るなり,まずぱっとノート・パソコンを開いて,「さあやりましょ
う」と言うんです.しかも,ふだんからワープロ・ソフトは使わないで,通信ソフ
トを使うんだと言うんですね.とにかく何でも書くと,そのままネットにつながっ
ていて,自分のホスト・コンピュータにも行くけど,友だちの所へも5分間隔で行く
んだ,と.要するに,彼らにとって,物を書くということは一人で考えることじゃ
ない.自分というものが最初から開かれている.開かれているといっても,5,6人
のクローズドなグループらしいんだけれど,そこでは自分の書いたことは全部5分後
には確実に送られている.で,相手の書いたことも5分後には送ってくる.僕なんか
は,あのパソコン通信のカオス的状況は本当にいやなんで,スタンド・アローン型
で書いていて,たまに必要がある時にゲートを開く,という形だけれども,彼らの
話を聞くと,全く逆で,開いているのが普通で,閉じるのが例外みたいなんです.
自己がほとんどネットワーク上の一点に過ぎないという感覚を持つんだろうと思う
んですね.

柄谷――その場合に,資本主義というのは剰余価値で動き,剰余価値というのは差
異から生まれるものである以上,絶え間なく差異化が動機づけられているわけでしょ
う.ただ,江戸時代なんかだと,「月並み」ということがある.もちろん,毎回違っ
たことをやっていたつもりだったわけだけれども,正岡子規から見ると月並みに見
える.そうすると,いまやっていることも,二つの面から見られると思うんですよ.
完全に月並みなことをやっているのか,旧来の著者性を否定して「委員会の論理」
でやっているのか.どっちなんですかね.

黒崎――どっちなんでしょう.たとえば,一度も現実世界で会ったことのない人と
ゲートを開いてしまうと,完全にパニック状態に陥ることがよくありますよね.私
はあるレベルで語っているのに,向こうは全く別のレベルで語っている.インター
ネットで世界中とつながるからいいというけれど,全然知らない人とつながったっ
て実は混乱の極致なわけです.だから,結局は委員会的なやり方というか,5,6人
の知っている人を電子ネットでつないでやりとりを効率化するということでしょう
ね.つまり旧メディアの補強という使い方をしているということだと思うんです.

柄谷――たとえば,ドゥルーズがガタリと一緒に本を書いた.あれは,どちらが書
いたとも言えない.ドゥルーズ的でもないしガタリ的でもない.二人だからこそで
きているいうところが明らかにある.それは,小さいけれども「委員会」なんです
ね.
あるいは,こういう座談会というのが海外にも広がってきた.それは「連歌」のよ
うなものとして理解されているわけです.外国人は座談会をやろうとしてもなかな
かできない.座談会は相手に適当に言わせて,どんどん移動していくということが
必要でしょう.しかし,一定の統覚は必要なんで,そういうカント的なものを持ち
ながら,なおヒューム的にやるという,それがなかなかできないんですよ.しかし,
最近ではかなりそれに近い試みも多くなっているんです.

浅田――数学なんかで最初にそうなったんだけれど,一方でものすごく形式化され
てしまうと,他方で実際に会って話さないとイメージが伝わらないということにな
るわけですよ.19世紀までだと,数学の論文でも立派な序文がついているから,一
般の人でもそこだけは読んで判る.でも,いまでは,序文なんて5行ぐらいで,本文
もものすごく形式化・コンパクト化されている.その結果,逆に座談会的なものが
必要になるという,不思議な現象があるんですよね.

柄谷――プラトンにしても,著作は一応まとまってはいるけれど,あれは一種のフ
リー・トークでしょう.仏典も論語もそうなんだ.議論の文脈があるんで,それを
離れて体系化はできないんじゃないですか.

黒崎――プラトンは,書き言葉をものすごく攻撃して,あんなのは死んだ言葉だ,
なんて言っているくせに,彼の書いた言葉によって,西洋は完全に支配されたわけ
でしょう.そして,グーテンベルク・テクノロジーが500年くらい続いて,インクと
紙で物が書かれ固定されるという状況の中で,近代文化が成立したんですね.
声のコミュニケーションというのは話し手と聞き手の両方が現前しているわけです
けれども,文字のコミュニケーションというのは,どちらかが不在なわけでしょう.
書いているときは読者が不在だし,読んでいるときには著者が不在である.先ほど
の話で言えば,そのずれが超越論的なものを生み出して,結局,著者性の権威とい
うものを形作ってしまった.出版された書物に向かってどんなに反論したところで,
その本はびくともしないわけです.そういう形で,少数の著者が多数の読者を教え
るという構造が成立してしまったのは,同一テクストの大量複製というグーテンベ
ルク・テクノロジーによると思うんです.それが,さっきのように複数の著者が共
同執筆するとか,そんな立派な言葉を使わなくとも,自分で適当に打ったのが5分後
に向こうに行って,それがまた5分後に書き込まれて戻ってきてしまうとかいうこと
になると,著者と読者の厳然たる区別というのも現実問題として徐々に失われてく
るだろうし,「私のオリジナルだ,全部読め」という形で書きもしなくなっていく
だろう.
グーテンベルク・テクノロジーの構造だと,やはり起承転結というのがあって,
「私はこれを言いたい」という一貫した主張が根底にあるわけです.ところが,ボ
ルターの『ライティング スペース』という本自体,最初にマックのハイパーカード
で書いているという感じがあって,印刷本にしてしまうと,こっちを言ってみたり
あっちを言ってみたり,どうも一貫した主張というのが見えにくい.ハイパーテク
ストはリニアな構造を要求しないから,起承転結を意識せず,思ったことを書く,
それに反する論点も同時に書く,というふうにやれる.著者が一貫した声で語りつ
づける必要がないんですね.パピルス・ロールだったら,冒頭から書いていかなきゃ
ならないし,冒頭からめくって読んでいかなきゃならない.原稿用紙になると多少
自由になるけれど,それでも文字を後ろから書くわけにはいかないから,冒頭から
書く.それで起承転結ができるわけです.つまり,メディアの持つ特性が,書き方
や読み方,著者や読者の姿勢を決めていた.とすれば,電子メディアにおけるノン
リニアで共同的な書くこと=読むことの構造というのは,やはり,著者と読者とい
う関係を完全に変えていかざるを得ないと思います.


グローバルとローカル

大澤――そのネットワークということで言うと,われわれがネットワークに加わっ
ていれば,理論上はグローバル・ネットワークの一員になれるわけでしょう.

黒崎――理論上というか,現実的につながってしまいますよね.

大澤――そうするとわれわれは現実にコスモポリタンになれるわけだけど,実際上
のネットワークは,よく知り合った4,5人の間でやらないと成立しなくて, 一人で
も知らない人が混じると崩壊してしまう,と.そうすると,もちろんそれが良い
「委員会」になる場合もあると思うんだけど,柄谷さんふうに言えば,絶対に他者
に出会わないでいい世界というのも作れるわけですよね.とても居心地よくて,ほ
ぼ期待通りの反応が返ってくるから,対話をしているという感覚なしで対話ができ
てしまうような,親密なネットワーク.だけど,それだったらわざわざネットワー
キングすることの意味が極小化してしまうわけです.ポテンシャリティとしてはグ
ローバル・ヴィレッジに入っていくのに,実質的には(地理的にではないけれど)
ローカル・ヴィレッジに入っていくことになるんですね.

黒崎――そうやってむしろローカル性を高めることはあるでしょうね.しかし,ど
んなに閉じたとしても,他者には絶対に出会えるんだな,ネットでは(笑).

大澤――ぼくが言いたかったのは,ベネディクト・アンダーソンが最近よく言って
いる遠隔地ナショナリストのことです.たとえば何々系アメリカ人というのがいる
でしょう.電子ネットワーク以前なら,彼らの多くはただアメリカ人なんですよ.
だけど,電子ネットワークのおかげで,その人はずっとアメリカで育って英語しか
できないかもしれないんだけど,何々系であるということに突然目覚めるんですね.
そして,実際にネットワークを通じていろいろな方法で祖国を援助したりというこ
とが可能になってくる.そうすると,彼はネットワークのおかげで,コスモポリタ
ンになるんじゃなくて,ナショナリストになるんですよ.しかも,それは,ネーショ
ン・ステートの意味のナショナリストではなくて,もっと細かいエスニック・グルー
プに関するナショナリストなんですね.だから,グローバル・ネットワークという
のは,むしろローカル・ネットワークを別の形で促進するのではないかと思います.

浅田――ぼくもそういうことを何度か言ったことがあるんですけれどね.まあ,マ
クルーハンはニュー・クリティシズムの批評家たちと同様カトリックだったから,
ルター訳聖書の黙読をモデルとする近代的な主体と国家の分立を超えて,世界全体
がエキュメニカルなグローバル・ヴィレッジを形成し,ミサを全体化したようなマ
ルチメディア・パフォーマンスに包まれるという,そういうヴィジョンを持ってい
たわけじゃないですか.でも,実際はカトリックが本当にカトリック(普遍的)な
わけじゃなくて,イスラムもあれば仏教もあり,さまざまなエスニックな文化もあ
る.グローバル・ネットワークに向かうヴェクトルとともに,そういうローカルな
村,あるいは擬似家族みたいなものに分解していくヴェクトルも強まっているのが
現状だと思いますね.

黒崎――先ほども言ったように,距離がなくて,手紙のように時間もかからないか
ら,個人と個人のコミュニケーションに関しては,ものすごく緊密になる可能性が
ある.1日に何往復もしたりね.そういう意味で,ローカルなものが強固な形でいろ
いろな所に成立していくわけです.だいたい,グローバルに開いた場合,1万や2万
の全く面識のない人の意見がいっぺんに入ってきたら,本当にどうしようもない.
現実に,日本の狭いネットワークの中だって,1日に 200通とかの書き込みがある.
200通となると,もう読むのは全然無理なんですよ.結局,グローバルにつながって
いても,あまりに情報の量が多すぎて,無意味化してしまうんですよね.

浅田――コミュニケーションというのは,ディスコミュニケーションを不断に伴っ
ているわけで,ここでも,単純に言って,接続を切るとか,情報を削除するとか,
そっちから考えた方が早いかもしれない.たとえば,ハウス・ミュージックなんか
で,とにかく沢山のチャンネルの中に全部音を入れておいて,どんどん引き算して
作っていくというやり方がある,ああいう感じですね.クリエーションのネガとい
うか,つまり,過剰なデータをどうやってすかしていくか,と.

柄谷――この前アメリカに行って,アジアから来ている人たちといろいろ話したん
ですけれど,一つ面白かったのは,どこでもカラオケが広まっていると言うんです
よ.それは日本の……

浅田――世界に冠たるインタラクティヴ・アートだね(笑).

柄谷――たぶん彼らの間では,まだ社交的に使われていると思うんです.でも日本
では,いま黒崎さんが言っていたコンピュータ・ネットワークのあり方と同じで,
4人くらいで連れ立ってボックスに入って,しかも,他の人が歌っているのを誰も聞
かずに,次に自分が何を歌うのか調べているだけ(笑).

黒崎――パソコン通信は,まさにそういう感じです.私は前に,パソコン通信は文
章表現のカラオケ化だ,と書いたことがあります.開かれたフォーラムに入っちゃっ
たりすると,カラオケ・パブに行っちゃって下手な歌を延々と聴かされ続ける感じ.
それで,これはとても耐えられないということで,閉じた空間を作る.それがカラ
オケ・ボックスですね.かつては,歌というと,訓練したプロが,いい歌ばかりを
聴かせてくれるということだった.それがいまは,民主化したというか大衆化した
というか,すべての人が歌っていいということになってしまった.ちょうど,パソ
コン通信において,すべての人が自分の意見をパブリックにしていいんだというこ
ととパラレルですよね.これはもちろんある意味ですばらしいことかもしれません.
けれど,実際は,聴くに耐えないような歌がずうっと続くわけで,その中にはいい
歌が一つぐらいはあるかもしれないけれど,その一つを探る労力のあまりの膨大さ
に,やはり閉じていくほかない.そうやってカラオケ・ボックス化していくんでしょ
うね.


電子メディアと直接民主制

大澤――黒崎さんがゲストになって,津野海太郎さんと室謙二さんとで討議したの
を最近読んだのですが(津野海太郎+室謙二『コンピューター文化の使い方』思想
の科学社,1994),この二人は,パソコン・ネットワークをカウンターカルチャー
の理念で捉えていますよね.つまり,パソコン通信というのは,理念的に言えば直
接民主主義の道具だという感覚なんです.たしかに,パソコン通信というものが出
てくれば,理論上は直接民主主義に近いものができるようになるわけなんですよ.
直接民主主義が物理的に不可能だから,仕方なしにそのオルタナティヴとして代議
制というのがあったと仮定しておくと,本当に直接民主主義ができるならその方が
いいじゃないかという議論になってくるでしょう.

黒崎――でも,実現してみるとものすごいことになりそうだ,と.

大澤――つまり,直接民主主義は実現できないから仕方なしに代議制でやるんだと
言っているときに,民主主義というのはいちばんうまくいくんですよ.先ほどの話
との関係で言えば,直接民主主義ということを言った場合,理論上は,個々の主体
はアイデンティティを確立してちゃんとした意見を持っているという前提があるわ
けです.しかし意見を表明するにも1分前といまとでは意見が違うというようなこと
なら,民主主義というのは成り立たなくなってしまうわけです.パソコンのネット
ワークというのは,実際にちょっと意見が変わった場合に,これをネットワークを
通じて伝達したり,集計に反映させたりすることを,技術的に可能にしてしまった.

柄谷――「朝まで生テレビ」にしても何にしても,TVでディスカッションをしなが
ら,その内容に関して視聴者からファックスで意見を聞いたり世論調査をしたりす
るけれど,それは非常に曖昧かつ流動的で,誰かが強力にしゃべると,サーッとそ
ちらに変わったりして,一定しないんですね.

黒崎――だから,直接民主主義というのを,どの時点でやるのか,ニュースを流す
前にやるのか,後にやるのか,それだけで結果が全然違ってくる.

柄谷――自己というものを持つには,一定程度の時間が必要なんですよ.そのこと
は,ヒュームも言っているし,ニーチェも実はそれをひそかに引用していると思う.
つまり,自己というのは一つの政府(ガヴァメント)だ,多数の自己の間での代表
だ,とその意味で,自己というものがすでに代表制でしょう.そうすると,そのよ
うな自己から成り立つ政府形態というものを考えるときに,それを直接民主主義で
やるというのはおかしいんです.全国民がボタンを押して絶えず現在での意見で政
策を決めるようになれば,政策の一貫性なんてなくなるんですよ.

大澤――いままでは,そういう問題が単純に技術的な問題で隠されていたわけでしょ
う.たとえば,国民の意志なんてものがどうして存在できるかと言えば,しょっちゅ
う確認できないからなんです.何年かに一度,選挙をやって,ようやく確認できる
というような段階だから,国民の意志というふうに束ねて存在できるわけですね.
それを本当にリアルタイムで確認できるようになったとたんに,「国民の意志」と
呼ぶにたるような統一性は,あっというまに分解してしまう.そうなれば,そもそ
も,民主主義的な意志の集計によって,「何を」決定しているのかも判らなくなっ
てしまうわけです.

黒崎――そうなると,完全にバークレー的な状況ですよね.一瞬一瞬,私も別な自
己であり,政府も別な政府であり,ただ命名によって一貫性を保持しているだけだ,
と.

浅田――ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を
考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズム
と限りなく近いものになってしまうわけです.
たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,
あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,
そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.
みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね.そこで,市長
の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっ
しゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定し
ないわけです.

黒崎――だいたい,一人の個人にしたって,どうしようかとずいぶん迷っている.
その総和が増幅されて出てくるだけだから,それはもう,かなり混乱するでしょう
ね.

柄谷――アドルノがヘーゲルについて,ヘーゲルが精神と言っているのは実は社会
のことなんだ,と言っている.社会という意味で精神を捉えるならば,ヘーゲルの
言っていることはだいたい全部了解できる,と.それがどういう社会かというと,
全然発展段階の違うものが,しかも同時に存在しているということだと思うんです
ね.これが,現在の社会で物を言う時に痛感することなんですよ.

黒崎――感覚的確信や自己意識から絶対知までが,一挙に存在している.

柄谷――そう.民主主義と言ったって,各国で意味が違う.いまだに民族=民権み
たいなことをポジティヴな意味で言えるところもある.それは否定できない.しか
し,そんなところと,それこそコンピュータ・ネットワークなんかでやっていると
ころが,パッと一緒になったら,話が通じませんよ.
マイノリティの問題でも,いろいろなレベルが同時に出てきて,大混乱が起きてい
る.それこそ,前に浅田さんが言ったように,三重苦より四重苦が勝つとかいうこ
とになって,そうなると,自分を代表することすらできない人がいちばん偉いとい
うことになってしまう――ということはつまり,誰かがそれを代表した形で勝つと
いうことになるんでしょうね.


情報資本主義と神の眼

浅田――情報資本主義というけれど,グローバルに見ればそれは1割ぐらいかもしれ
ない.もちろん地理的な問題ではなく,〈南〉にいたって,情報ネットワークにア
クセスできる人はそこに属しているし,〈北〉にいたって,そこから落ちこぼれた
人はどうしようもないわけです.で,それと,その他の9割とを含めた全体は,世界
資本主義によって重層的に決定されているとしか言いようがない.調停不可能ない
ろんなレベルが入り組んでしまっていて,それでハバーマス流の自由な討論による
合意形成なんてことはちょっと不可能ですよね.

大澤――社会がいろいろなレベルで存在しているということで言うと,先ほどの民
主主義の話がいちばん判りやすいけれど,ある共同体の意志を決定するということ
があるわけでしょう.これをメディア論的に言うと,マクルーハンもアンダーソン
も言っているように,出版資本主義というか,出版文化の事実上の広がりと,国民
の広がりというのは,だいたい一致しているわけですよ.社会にはいろいろなレベ
ルの人がいるわけですが,国語で書かれた出版物が,ある範囲内で非常に密度の高
いコミュニケーションを生み出すという事実性に支えられて,レベルの差が隠蔽で
きるわけですよね.それによって,国民とか,国民の意志とかいうフィクションが
成立し得たわけでしょう.それがもはや成立し得ない段階にきていると思うんです
よ.

柄谷――かつては第三世界というのがあった.第三世界としての統一性があったと
いうことですよ.しかし,もうそれはない.かわりに,すでに80年代からそうだっ
たけど,現在いちばん世界的に広がっているのは,イスラム原理主義ですね.でも,
これはなにも昔からあったものじゃないわけで,現在の先端的な資本主義に対する
運動だと思うんです.その意味でこれは強い.

浅田――イランなんかは,パーレビ王政下で欧米が武器から何から売り込んで,腐
敗と癒着の限りを尽くした,それに対してイスラム原理主義が出てきたわけでしょ
う.しかも,ホメイニの説教がカセット・テープで広範に流布したことがイスラム
革命に果たした役割は大きいと言われている.だから,あれは非常に現代的なもの
なんです.

柄谷――そう.第三世界だって,ソニーのポータブル・ラジオで成立したんじゃな
いですか.ゲリラとポータブル・ラジオってのは不可分ですね.

浅田――ちなみに,ラジオが確信を広げるメディアだとすると,TVは確信を突き崩
すメディアだという見方がある.ルーマニアでチャウシェスクの当惑した表情がTV
に映っちゃったことが,独裁体制の権威を突き崩すのに決定的な役割を果たしたわ
けだから.

大澤――原理主義というのは,いま支配的な情報資本主義に反抗するものとしては,
いちばんはっきりしたスタンスをとれるわけでしょう.逆に言うと,原理主義ほど
情報資本主義の中にいる知識人に評判の悪いものはない.しかし,ジジェクが言っ
ているように,よく考えてみると,昔は原理的に行動するのが正しいとされ,その
つど方針を変えるやつは日和見主義と言われて信用されなかったわけですよ.それ
が,いまでは日和見主義のほうが倫理的だと言われ,原理主義の方がいちばん非倫
理的だと思われている.倫理の意味が逆転してしまっている.

柄谷――だから,僕はどちらもネガになっていると思うわけですよ.昔の第三世界
というのは,進歩とか発展とか近代化を考えていた.それはもう全部あきらめたの
で,徹底的にラディカルにやる,と.他方,昔は第一世界もちゃんと主体的にやっ
ていたのが,いまはもうそんなつもりもないんですよ.だからいまは,第一,第二,
第三といった構造は完全に消えてしまって,世界資本主義−対−原理主義というこ
とになっているんですね.

浅田――結局,現代の世界資本主義の矛盾は解きがたいとしか言いようがないでしょ
うね.ただ,情報資本主義といっても,特に CNNのようなレベルで言うと,とにか
くあらゆる情報を中央で全部完璧に編集して,それこそ30分で世界が判るという形
で世界中に流すという,そういうものですよね.で,軍隊が上陸するとかいうと,
ちゃんとカメラが待ち構えていて,上陸するところをライヴで映し,そういうもの
が,リアルタイムの情報だということで,世界中に流れている.だけれど,リアル
タイムの情報というのは,本当は,黒崎さんがおっしゃったように,どうしようも
ないほど退屈で散漫なものだと思うんですよ.情報資本主義というと,すべての情
報が集中的にしかも瞬時に世界を覆うといった CNN的なイメージで語られ過ぎてい
る.しかし,あれは古いTV原理の延長ではないか.本当は,あらゆる街角のTVカメ
ラから撮った,何も起こらない映像が,延々と流れつづけていて,どこにでもアク
セスできるというのが,本来のグローバルなリアルタイムの情報だと思うんですよ.
それは退屈だけれど,その退屈さにおいてリアルなのではないか.

黒崎――われわれは,世界のあらゆる所にカメラが入っていて,現実を見ているん
だという感覚を持っているけど,実は,浅田さんがおっしゃるように,3分なり15分
なりで起承転結のあるドラマを次々と見せられている.生の情報といっても,実は
編集されていて,そこにはかならず他者の意図が入っているんですね.さっきも言っ
たけど,そういう情報が1000チャンネルも2000チャンネルも個人の部屋まで入って
くる.そこで,個人は,世界のあらゆる出来事を手中に収めたような気になる.だ
けど,私の目というのは一組しかないので,2000台のTVを置いたにせよ,やはりそ
れを順次見ていくしかない.しかし,その間にも,電子メディアのリアルタイム性
によって,情報は刻々と変わってしまう.2000台のTVをいっぺんに見通す目という
のを,私たちは持っていないわけです.だから,超パノプティコンといっても,今
度はそれを最終的に取りまとめて統括的に見通す視点自体が成立しなくなるわけで
すね.

大澤――それもやはり,近代の理想がある程度実現されればその残余に裏切られる
ということなんですよね.TVの多チャンネル化の果てに自分の部屋から世界の情報
のすべてが見えるというのは,形式上はパノプティコンの視線を内面化した主体と
いう理想の実現なわけで,そうするといわば本当に神の目を獲得することができる
かに思える.しかし実際には,神の目とは対極にあるようなことが起きる.2000チャ
ンネルの中に忙殺されていくというのは,ザッピングということで,ザッピングと
いうのは,およそ思念のかけらもない,もっとも愚鈍な選択にすぎないわけですよ.
TVの多チャンネル化の果てに,神の全能性というのが愚鈍なるものと全く同じもの
になってしまうわけですね.

黒崎――われわれ人間は,神の全能性に到達したと言っているその地点で,身体性
において全く愚鈍なものになっているわけね.

大澤――そう,「おぞましい客観性」と言ってもいいし,「身体性」と言ってもい
いけれど,そういうものに裏切られる.もっとも神々しいもの,ジジェクの言葉で
言えば「崇高なもの」が,いちばん惨めなものと同じものになる.そういう循環が
至る所で起きているという感じがします.


「物自体」とフレーム問題

柄谷――夏目漱石が『文学論』で大文字のFと小文字のfということを論じていて,
だいたい認識的要素と情緒的要素という意味なんですけどね.カントでも,美につ
いて論じるときに,情緒というか,快・不快という感情が出てくるわけです.とこ
ろが,最近の記号論でもテクスト論でも,意味については論じるけれども,情緒に
ついては論じない――ヤコブソンなんかは一応言っていますけどね.情緒の問題を
意味の問題に置き換えようとするから,そうすると情緒は意味としては決定不能に
決まっていますよ.この情緒という部分が,コンピュータにはないと思うんです.
それから,もう一つ,他者というのもコンピュータにはないと思うんですよ.カン
トは,他者というものを一つの人格としてみた場合に,これは認識の対象ではない
と言う.認識の対象としては,フッサールが言ったような現象的な了解の仕方しか
できませんからね.その向こうに,何か不透明なものがあるとすると,それは実践
的な領域,真でも美でもない善の領域でしか出てこない.
もっとも,初めからそういう領域が分かれているわけではないですから,そのつど
一種の還元,つまりカッコ入れをしていくわけですよ.こんな比喩はあまりよくな
いんですが,世界の現在を一つの全体性として考えたときに,脳みたいなものだろ
うと思うんですね.それで,認識の所でごちゃごちゃやっていたり,道徳の所でご
ちゃごちゃやっていたり,情緒の所でごちゃごちゃやっていたりする.そういうの
が一緒くたになっているという状態じゃないですか.そこは,問題によって他の要
素をカッコ入れしていかないといけないんです.
ただ,それはカッコに入れるだけであって,消すことはできない.たとえば,情緒
的な部分も消すことはできない.ファシズムが美学の問題だとか言われるのも,そ
の部分があるからでしょう.情緒の問題をサブライム(崇高)の美学に変えて処理
しているのがファシズムであり原理主義であると思うんです.まあ全部政治の問題
だとも言えるんですよ.

黒崎――カント的に言うと,他者は,認識のレベルではどうしても現象でしかない
んです.カントによれば,そのレベルでは,自分自身さえ現象なんで,自分自身の
実体には近づけなくて,それは内感の対象でしかないし,他者も外感の対象でしか
ないから結局内感の対象に還元される.私も現象だし,他者も現象だ,と.じゃあ,
実践的な場面に移ったときに,どうだろうか.たしかにそこでは,私も他者も物自
体性を帯びますが,しかし,そこでは他者性の根拠ともいうべき,感性的個別的側
面がみんな切り落とされます.柄谷さんの他者論はとても面白いと思うんですが,
それとカントの物自体をくっつける戦略よりは…….

柄谷――ただ,それを「眼差し」ということでうまく言ったのはサルトルだと思う
んです.自分が見られているときに――「眼差し」だから日本語のしゃれで言うと
目で刺されているとき――他者はある.それをこちらが見たとたん,他者は現象に
なるんです.

大澤――フレーム問題に引きつけて言えば,なぜコンピュータでフレーム問題を解
決できないかというと,途中の経過をとばして結論だけ言うなら,究極の原因とい
うのは,結局コンピュータは他者を知らないからだと思うんですよ.われわれの認
識においては,もちろん他者は主題化されてはいないんだけれど,その恩恵を被っ
ている.その恩恵を,コンピュータは被ることができないんですね.だから,コン
ピュータはフレーム問題を回避できない.それが,コンピュータに何かを判断させ
るという場合の,最大のアポリアになっているんじゃないかな.

黒崎――他者と言ってもいいけれど,コンピュータというのは,すべてをエクスプ
リシットに書いておかないと走らない.暗黙知という言い方はあまりしたくないけ
ど…….

浅田――インプリシットに…….

黒崎――そうですね,われわれはインプリシットな知識にかなり支えられている.
ところが,コンピュータにそれを教えようとすると,インプリシットなことをエク
スプリシットな形にして書き出してやらなければいけない.他者性と言っていいの
かどうか,ともかく問題はそこにあるんじゃないかと思う.

浅田――それは,柄谷さんが「教える」という問題に関して引用していたヴィトゲ
ンシュタインの話で,言語を教えるのに,文法と語彙をすべて教えたらいいのかと
いうと,そうではなくて,なんだか知らないけれど真似しているうちにしゃべれる
ようになっていた,しかし,エクスクプリシットには説明はできない,というのが
本当なんですね.なぜか自転車に乗れるようになっていた,なぜか泳げるようになっ
ていた,と.

大澤――それをまあ,暗黙のうちに知っていると言うんですね.しかし,それは他
者がチェックするわけで,そのときに初めて暗黙の知識だということになるわけで
しょう.「君,それは日本語にならないよ」と言われたときに問題になるわけです
よ.クリプキ流に言うと,そう言われる前に頭の中に計算過程があったわけじゃな
くて,言われたときに自分が何をしたかが判るわけですよ.つまり,暗黙の知とか
無意識の知といったような精神の内的な状態があるというより,他者との実践的な
関係の反映として,そのようなものが存在しているのと等価な事態が成立するのだ
と思います.

黒崎――他者の承認によって,自分の中にインプリシットな知識があったことが判
るというのは,確証の段階ではそうかもしれないけど,認識の構造は,他者が見て
いるか見ていないかという点には還元できないんじゃないですか.

大澤――だから,他者が見ているという意味を,もうちょっと考えなくてはいけな
い.実際にそこに誰かがいて何か言われる,という水準だけでは狭すぎるんですよ
ね.それからもうちょっと言うと,他者の問題と物自体の問題が同じかどうかは別
として,コンピュータには現象しかなくて,物自体も判らないわけですよね.それ
は当たり前と言えば当たり前なんであって,認識のレベルで言っても,物自体は判
らないわけですよ.

黒崎――認識のレベルでは,われわれにも物自体(Ding an sich)は判らないんで
すからね.われわれが物を認識するということは,それ自体としての物(Ding an
sich)を,われわれにとっての物(Ding f殲 uns)にしてしまうことでしょ.われ
われの関心から逃れているところに物自体は成立するわけで,ところが,認識とい
うのは関わることだから,関わった途端に物自体の性格を逃れて現象の中に組み込
まれていかざるを得ない.

柄谷――それでもやはりそこから逸脱するものがあって,それをサルトルは「吐き
気」という形で書いたと思うんです.

大澤――われわれはそこで吐き気をもよおしたりするんですが,コンピュータには
そんなことがなくて,現象化された方だけをすくい取るという構図でしょう.つま
り,われわれは物自体を積極的に主題化して認識することはできないにもかかわら
ず,そのような認識の内に固有化できない部分として,いわば否定的に物自体と出
会うということがある.コンピュータにはそれがない.

浅田――しかも,エクスプリシットなルールに従って拾い上げた特徴しか計算に入
れない.それとインプリシットなルールとの差が,もう一つの問題ですね.

柄谷――コンテクストがテクストであるという議論がありますね.あることが判っ
ているというのは,コンテクストが判っているということでしょう.で,そのコン
テクスト自体はインプリシットなんです.そのコンテクストを説明しようとすると,
そのコンテクストがまた出てくる.

黒崎――何かを「図」にすれば,必ず外部に「地」が発生するわけですからね.

大澤――それが暗黙の知とか言われるわけでしょう.そこの部分で決定的な選択は
終わっているんですよね.つまり,コンテクストを区画するような決定的な選択は,
常に,「終わってしまったもの」としてのみあるわけです.だから,われわれはフ
レーム問題に直面しなかったりするわけです.ある意味では何もしていないという
ことなんですよ.何かしたら,エクスプリシットなんだから.

黒崎――それは,大澤さんがかつて言ったように,無視するというのと同じ構造で
すよね.コンピュータの場合,無視するためには,これは無視する側に入れると認
定しなければいけないのに,われわれはその過程を経ないで無視できる.これは興
味深いことですよね.

柄谷――それから,先ほど言ったように,いろんな次元が混在しているのを,カッ
コ入れによって混同せずに捉えるということですね.カントのやったことは現象学
的還元として読むべきじゃないかと思うんです.超越論的還元と言ってもいいです
けどね.要するにカッコ入れですよ.たとえば,医学的には,人間を物あるいは機
械として見なければいけないんで,道徳的なものや情緒的なものはカッコに入れな
いといけない.あるいは,ヌードの絵を見るときでも,これは芸術であるというこ
とで,性的関心をカッコに入れないといけない.そういう態度の変更が必要なんで
すね.カントの場合も,認識と道徳と情緒の三つの領域を総合することなんかでき
ないんで,そのつど混同なくやれるということが「批判」なんじゃないか.
そういう混同なしにやるには文化的訓練が必要なんで,それが〈啓蒙〉なんだと思
うんですよ.そうでないと,ラシュディみたいな事件になる.いまでもTVなんかで
は「これはフィクションです」って必ずクレジットを入れるでしょう.

浅田――なんでそういう態度変更ができるかというと,もちろんそういう文化的訓
練が前提になるわけですけれど,さらに言うと,その作品の中にいくつかの次元の
ずれが入っていて,一方ではイスラム問題を扱っていながら,他方ではレトリック
がアクロバティックなまでにすごいとか,そういうずれがある種のシグナルになっ
ているわけですよね.岡崎乾二郎なんかが言うように,美術でも同じことでしょう.
それは,単に文化的な約定でもないし,直観的なものでもなくて,ある程度は分析
的に捉えられると思う.ただ,それはいわば決定不能性のシグナルだから,コンピュー
タで読めるかどうかは判りませんけれども.

柄谷――レベルの奇妙な混同を,自己言及的なことを含めて,うまく使っているん
じゃないかな.哲学でも,理性による理性の批判というのは,まさに自己言及的な
わけでしょう.それと同じことだと思う.問題は,それがなぜできるようになった
のかということなんですよ.

浅田――そういうパラドキシカルな多層性というのはいまも本質的な重要性を持っ
ているし,電子メディアがそれをどうやって取り込めるかというのは大きな問題で
すね.で,それ以外のリアルタイムの情報というのは,善くも悪くも退屈なものに
なると思う.最初の月着陸の時に,月着陸船がいつまでも延々と映されていたんで,
待ちきれなくなってトイレに行ったら,その間にニール・アームストロングが月面
に降りていた(笑).リアル・タイムというのはそういうものなんじゃないか.ク
ライマックスだけ見るというのは,実は編集されているわけで,本来的に古いんで
す.それに対して,リアルタイムというのは,とにかく退屈かつ散漫なんで,しか
しそれゆえにリアルだと思うんですよ.もちろん,現実的にはそんなことばかりやっ
ていられないから,専門家同士の閉じたネットでやりとりをしたりするんだけど,
本来的に分散型のネットワークとかいうのは退屈かつ散漫なものなんで,それに耐
えられないと,下手をすれば全体主義になってしまうと思うんです.

柄谷――記録がすべて残ってしまうということも困りますね.最近の人だと,子供
の頃からビデオの記録が残っていたりして,それを結婚式なんかで上映したりする.
あれほど退屈なものはないですね(笑).僕は,子供の時の記録が克明に残ってい
たらショックだと思う.自分の記憶だけで十分なんで,ビデオなんか僕は見たくな
いよ.

黒崎――そうそう,まさにそういう退屈な人生がいっぱいあって,これまではメディ
アの制約によって出てこなかったものが,いまは全部出てしまう.

柄谷――飛行機の中でだって,日本人の団体観光客はビデオを回している.帰って
から見るんですかね.将来は,みんながそういうコレクションをいっぱい持ってい
て,晩年になるとカラオケ・ボックスみたいな所へ入って見て暮らすのかなあ(笑).

黒崎――写真なら100枚を1分で見ることもできるけど,ビデオは時間拘束的ですか
らね.結局,現在われわれが遭遇している電子メディア環境は,われわれの基本的
な態勢を変容させながらも,他方では,退屈さや散漫さを増幅してしまったりもす
る.浅田さんの言うように,その退屈さに耐えるべきか,あるいは,自分の退屈だ
けでいいと切断し,自分の内に何かを作っていくべきか.

浅田――いや,僕も個人的には,切断すべきだと思うんですよ.切断すべきものは
切断し,消去すべきものは消去したらいい.だけど,一般的に言えば,いま広がり
つつあるメディア・ランドスケープは本質的に退屈かつ散漫なものであって,その
ことを否定したり,新たに「崇高」な高揚を求めたりはできないというだけのこと
です.しかし,ある意味でそれは昔から変わらない条件でもあるのではないか.要
は,それを横目で見ながら,自分の情報空間の中にできるだけ多くの余白をあけて
おくことだと思うんです――本当にリアルな出来事との遭遇にそなえて.


[1995年1月13日,ICCにて]

(あさだ あきら・社会思想史/おおさわ まさち・社会学/
 からたに こうじん・文芸批評/くろさき まさお・哲学)
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