InterCommunication No.12 1995
Communication Frontier

音楽の反方法論序説[13]ピアノ
An Introduction to Anti-Methodology in Music [part13] :Piano
高橋悠治
TAKAHASHI Yuji
ピアノという最もヨーロッパ的な楽器を弾くこと,それを 鍵盤上の手の舞いとして,創りなおすことができるだろうか.

鍵盤は何と言っても,ヨーロッパの偉大な発明だった. オルガンがパンパイプとちがうのは, あるいは,チェンバロがツィンバロンとちがうのは, 口や撥をたくさんの管や弦のあいだに走らせるかわりに, 指がちいさな板の上を左右に往復すればいいということだ. パイプを吹く口は一つ,撥を持つ手は二本,鍵盤の上の指は十本. 数が多ければ,うごきをつくる部分や組み合わせが多様になる. さらに,指は手よりも細く末端にあるので, 繊細なうごきが可能で,しかも勁力が先端に集中する.

鍵盤のもう一つの利点は,身体の一部,たとえば 掌または親指が楽器を支えていなくてもいいことだ. ヴァイオリンは左腕と左肩で楽器を支え, 左親指で棹を支えて,他の四本の指で弦を押さえ, 右手に持った弓で擦って音を出す. 床置きの楽器は,身体で支えなくてもいいが, 箏などのように,使える手や指は限られている. 十本の指が独立に音を出せる楽器は,例外的だ. もちろん不便さもある. 音の高さが固定され,音の途中で変えられないこと. 音の出し方が一種類に限られ,音色が均質であること. 床置きのため重く,一人では携帯できないこと. このうち,音色については, 均質な音相互の関係によって変化の印象を創りだす さまざまな技法があった.たとえば, 装飾音型,時間的ずらし,アクセント,打鍵速度の変化, そしてそれらを制御する運指法.

人びとは,親指が楽器を支える必要がないことに しばらくは気付かなかった. 親指を鍵盤の手前にぶらさげて, 手をすばやく左右に移動させながら, とぎれとぎれのフレーズを弾いていた. それは,たどたどしさと同時に, 音勢によって,しなやかに伸縮する時間と 音色の印象を創ることもできる方法ではあった.

やがて,親指は鍵盤に載せられ, 五本指は「よい指」と「悪い指」に分かれる. 地域により,よい指は2と4,あるいは反対に 1,3,5だったらしい. よい指が拍と一致すれば,単純で活気のある音楽が生まれた. 反対に拍から外れた音をよい指に振り当てれば, リズム上の拍と旋律的アクセントとのずれによって, 含蓄のある表現ができた.

十八世紀のなかば,バッハとクープランの時代に 運指法の革命が起こった. それまで手の位置感覚は,他の楽器すべてとおなじに 第二指の位置によっていたのが, 新しい運指法では親指が基準となる. 親指から小指までの拡がりが枠となって,運指空間が設定される. 第二指を起点とする運指法が旋律的だとすれば, これは和声的な音空間に対応する. さらに,親指を他の指の下にくぐらせることによって, 手の移動をなめらかにし,長く連続するフレーズを 中断なしに演奏できるようになった. バッハが『インヴェンション』の序文に書いたような, 多声部を正しくたくみに扱い,歌うような奏法を習得することは, 親指を起点とする運指法によって可能になった.

こうして音楽は変わった. 運指法が音楽を変えたのではなく, あの時代に運指法も変わり,チェンバロにかわって ピアノという楽器も登場したのだ. その後,十八世紀末にはメトロノームの発明, 十九世紀後半までには,管楽器と弦楽器の改良と 奏法の変化がつづいて起こり, そのすべてをあわせて,音楽の近代化と呼んでいる.

ピアノ奏法について言えば, 以前の鍵盤楽器は指で打っていた. 今のピアノは弦楽器のように音を持続し,歌い, 電子音のように空間に無人称の響きをこだまさせたりもする. 指や手ではなく,五線という絶対空間内の音符という記号, 音のイメージという抽象が手をうごかしている. 手は脳に従属しているだけだ.

ピアノ演奏は近代スポーツであり,頭脳ゲームでもある. 音の均質性を前提条件とする 速度と音量の粗な次元での操作技術は極限まで発展した. だが,技術が統合性と計量にかかわるとすれば, 分散性と差異にもとづくものである技法, 装飾法,音勢,音色,微細次元にかかわる操作, そして何よりも,自発的に音楽を創る即興技法が, ほとんど消滅してしまった.

失われた身体技法の回復は,指の差異化からはじまる. どの指でも均質の音を創れる近代技術のかわりに, 指それぞれに異なる固有の機能を担わせ, 指相互の関係の上にうごきの型の差異を組み立てる多様な技法は, 指で鍵をすばやく打ち,手でゆるやかな運動の拡張と 方向性をあたえることで,あるいは矯めをはらんで停止することで, 装飾された一音,またはまとまったフレーズとしての型を, 連鎖的に発生させる. 鍵盤上の運動とともに創られていく空間も時間も, 格子のような平均律と拍節に区分され計量されるのではなく, その時そこでしなやかに浮動するトポロジーになるだろう.

 (たかはし ゆうじ・作曲)

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