InterCommunication No.12 1995
InterCity Yokohama/Tokyo
私は「OUT」している,ゆえに私はここにいる
―― dumb typeのパフォーマンス《S/N》

熊倉敬聡
  付記 
それは「ランドマークタワー」という人類の恥の巨塔の一つに穿たれた.サラエボ
やルワンダの悲惨に比した時,恥ずかしくなるほど無邪気に幸福そうな人々が漫ろ
歩く傍らで,壁一つ隔て,それは人類への希望を力強く秘め,自らのノイズを,そ
して愛を,解き放った[★1]
ダムタイプのマルチメディア・プロジェクト《S/N》[★2]は,インスタレーショ
ン(《S/N #1》,《S/N #2》)としての展開,そして実験的な「《S/N》のためのセ
ミナー・ショー」を経た後,オーストラリアのアデレード・フェスティヴァルで昨
年の3月,そのパフォーマンスの(とりあえずの)全貌を現わした.その日本初演が
横浜・ランドマークホール(1994年12月2−4日:第1回神奈川芸術フェスティバル)
で,次いで東京・スパイラルホール(1995年1月7−16日)で行なわれた.
観客席と対峙して白い壁が我々の視線を遮断するかのように舞台を横断している.
そのどこまでも白い沈黙の中央に微かに判別できるほどの文字で「dumb type S/N
work in progress」と投影されている.《pH》の,観客席から見下ろすような舞台
=スクリーンを見慣れた目に,この壁=スクリーンの垂直方向への立ち上がりはす
でにダムタイプがこの《S/N》で全く新たな展開を志向していることを予感させる.
さらに強力な「ハイテク」パフォーマンスだろうか? が,その種の期待は見事に,
というか誠に奇妙な形で宙吊りにされてゆく.
プロローグ.左手から現われた一人の男が四つんばいになって不器用そうにステッ
プを踏む.両手にはハイヒール.そこにもう一人の男がマイクをもって近づき,
「何してんのお」と京都弁のイントネーションも露わに話しかける.耳の不自由な
前者の口から発せられる不明瞭な発語(NOISE)を後者が「標準語」(SIGNAL)に翻
訳する.普通二人で踊るべきタンゴを一人で踊っているらしい.そこに第三の男
(「黒人」)が登場し,あまり流暢とはいえぬ日本語で話しかける.掛け合い漫才
のようなやりとりの中で,各自の服に貼り付けられていた次のような言葉がヒュー
モラスに「公言」される.“male, Japanese, deaf, homosexual”, “male,
Japanese, HIV+, homosexual”,“male, American, black, homosexual”.
「アイデンティティ」と呼ばれる,身体の固有性に加えられる言語の文節的・差別的
暴力.しかし,その暴力を逆手にとるかのように,“HIV+”とcome outした男は,
その“OUT”する行為そのものを通して,我々観客に語りかけてくる――これから始
まる《S/N》があなたにとって全く新たなコミュニケーション=愛のきっかけとなる
かもしれないと.
暗転.“ピッ”という信号音(SIGNAL),それに同調するストロボの点滅.呟き
(NOISE) .その間歇的リズムの中,水平方向に4分割された壁面中央の2分割の左
サイドにはライフ・リズムを刻むオシログラフが,SとNで始まる単語のペア
(SOCIETY/NATURE, SEX/NEUTER, etc.)とともに投影され,右サイドには,今日の
「科学的」と称される知のユニヴァーサルな「申し合わせ」(Conspiracy of
Science)が世間全体に「沈黙の申し合わせ」(Conspiracy of Silence)として拡
がり(=SIGNAL),人々が様々なノイズ(「老人の繰り言」「女性の愚痴」「少年
の夢」「狂人の叫び」)に耳も貸さず,口を閉ざしている事実がフレーズとして映
し出される.こうして,感覚的・言語的に提示される“S/N”は,以後変奏されなが
ら,強力にクレッシェンドしてゆく.
フレーズが投影されていた分割部に一つの円が開き,左右にスクロールする裸のト
ルソの多様性・固有性に,医学的視線を思わせる“+”字のグリッドの幾何学的暴
力が加えられる.と,壁の上の狭い通路では,全裸の男,女が顔と「陰部」だけを
ブラインドされて直立する.ここでは,セックスを検閲する権力と医学の科学的視
線の権力が実は密かに通底していることが暗示されている(フーコーを思い出そう).
と,今度は,両端の分割部で突然壁面から垂直に飛び出すように“I/DREAM/MY/
GENDER/WILL/DISAPPEAR”“I/DREAM/MY/NATIONALITY/WILL/DISAPPEAR”
といった単語のラッシュが,音声,ストロボとともに我々に襲いかかり,壁の上で
はそれに突き動かされたかのように女性パフォーマーが激しく踊る[fig.1] .かつて
一つの「マニフェスト」がこれほどの造形的強度を持ちえたことがあっただろうか.
が,《S/N》はそこに留まらない.その感覚の,メッセージの衝撃に震撼する間もな
く,さらにスピードアップした音声とストロボの洪水の中を,壁上で男性パフォー
マーは疾走し,女性パフォーマーは踊り狂う[fig.2].と次の瞬間,壁の後方へと背
中から落下してゆく.その後方への転落と拮抗するかのように,依然としてマニフ
ェストの単語のラッシュが,そしてさらに壁の上から同じ言葉がマイクを通して前
方へと暴力的に「アジテーション」される.
そしてついにクライマックス.光/音のテンションは極点に達し,壁後方へのダイ
ヴィングとアジテーションの前方性との垂直的力線をさらに増幅するように,壁面
の4分割すべてに円が開口し,グリッドの向こう側で裸のトルソたちが水平方向にめ
くるめくようにスクロールする,その上を「マニフェスト」のフレーズが駆け抜け
る.《pH》のラストを思わせる芸術的強度の絶頂.
ところが,《S/N》はそこでは終わらない.さらに先へと進む.それも人々が――特
に〈芸術〉を期待して観に来た人々が全く予期せぬやり方で.〈芸術〉という「申
し合わせ」に安穏としている人々が限りなく苛立つようなやり方で.ここから
《S/N》は〈芸術〉という目に見えない制度からの「脱走」を試みる.
その「脱走」は様々な形をとって試みられるが,ここではその中でも最も強力な二
つのヴェクトルを取り上げてみよう.
上記の芸術的強度のクライマックスの後,それを静かに脱臼させるかのように
(〈芸術〉的には)ロー・テンションのトーク場面が続く.プロローグで登場した
「黒人」の“ピーター”が,これまたプロローグで登場した「HIV+」の“悌ちゃん”
(彼は壁上で化粧をし,その顔をプロジェクターで壁面に大写しにされている)
[fig.3],そしてやはり壁面にクローズアップされた“ブブ”(女性のセックス・ワーカー)
と,セックス,エイズについて屈託のない雑談を長々と交わす[fig.4].そして壁面に
は「エイズ」についてこの十数年マスメディアや学者たちが発したデフィニション
(「ジャンキーとホモに対する神の怒り」「第三世界撲滅のための帝国主義者の陰謀」
etc.)が延々と映し出される.この〈芸術〉の「零度」の限りない引き延ばしは,
つい先程絶頂を迎えた〈芸術〉の余韻を圧殺するまでに,《S/N》というパフォーマ
ンス全体を宙吊りにする.と思うと,今やドラッグ・クイーンと化した“悌ちゃん”
は突然シャーリー・バッシーの〈People〉の絶唱を始め,「ロー・アート」のけ
ばけばしい美神たることを誇示する[fig.5]
あるいはラストに近い,「耳の不自由な」男と“ブブ”との踊りのシーン.薄暗い
沈黙が長々と続く中,男はノイジーな発語で「あなたが何を言っているのか分から
ない.でもあなたが何を言いたいのか分かる」といったSIGNALとNOISEの境界線での
生存に関するフレーズを極度に間を引き延ばしながら反復する.その傍らでは,小
柄で太った“ブブ”が踊りの「不具」とでもいうべきものをこれでもかこれでもか
と繰り返す.そして時たま二人は芸術,いや〈芸〉としてのダンスが苛立ちを覚え
るほど「下手」なペアの「踊り」を見せる.《S/N》はここで〈芸術〉の零度のみな
らず,ほとんど〈芸〉の零度に触れる.それはもはやほとんど他人に「見せる」も
のですらない.「申し合わせ」=制度としての〈芸(術)〉を内側からなし崩しに
する下手=ノイズの静かな氾濫[★3]
そうなのだ.《S/N》とは,〈芸術〉と非芸術,〈芸〉と非芸とのぎりぎりの境界線
(“/”)をどこまでも綱渡りしようとする作品なのだ.それは一歩間違えればす
べてを失ってしまうような,〈芸術〉に穿たれた深淵,〈芸術〉の存立根拠そのも
のへの問いかけを奇蹟的に“モノ”と化した作品なのだ[★4].我々は通常,〈芸
術〉という「沈黙の申し合わせ」の内部で,芸術というものを了解し,芸術的コミュ
ニケーションを行なう.しかし,《S/N》はそのような〈芸術〉的安穏に公然と異議
を申し立てる.それは敢えて〈芸術〉から“OUT” する行為そのものを通じて,観
客へと喰い込み,コミュニケートしようとする[★5]
そうなのだ.芸術的コミュニケーションのみならず,社会のすべてのコミュニケー
ション的行為は「申し合わせ」=制度への内属(“IN”)を通して成立する.
《S/N》はそのような不可視の「沈黙」したディシプリンの壁を突き破り,〈私〉た
ちが共に“OUT” すること,“OUT”そのもので在ることを通じて「愛し合う」こと
を希求する.「個々の人間が愛し合い始めることが問題なのです.制度は虚を突か
れてしまいます」(フーコー).“OUT”としての愛.〈外部〉への,〈他者〉への
勇気=優しさとしての愛.それこそ,この,「不況」と言いつつも相も変わらず世
界中の幸福を一身に体現し,それに麻痺し続ける国の人々に最も欠落しているもの
ではないだろうか.I am "out," therefore I am. 私は「OUT」している,ゆえに私
はここにいる.


★1――なお,この文章は「阪神大震災」発生以前に執筆したものだが,我々はこの
ような幸福が今回の地震のような潜在的なカタストロフィと常に背中合わせである
ことを今改めて意識するだけでなく,この資本主義的な幸福が実はアフリカ諸国な
どの「絶対的貧困」の上に築かれてきたことをも自覚すべきであろう.
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★2――タイトル《S/N》は,いわゆる音響用語の「S/N比」(SIGNALとNOISEの比
率)に基づいているが,その象徴的意味よりも(のちに見るように)その2文字から
言語的・感覚的に連想,変奏される様々な展開の方が重要らしい(「今月のひと 古
橋悌二」,『すばる』,1994年7月号参照).
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★3――たとえば,同じ神奈川芸術フェスティバルで行なわれたウィリアム・フォー
サイスの《アーティファクト》の幕間=第3楽章の「練習風景」の〈芸(術)〉性に
比した時,この《S/N》のノイズの特異性が明瞭になるはずだ.
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★4――「通常の価値観でいえば,それは単なる“下手”とか呼ばれるものですが僕
は一層そこを注意深く見つめたい.そんな自分勝手なノイズを見せられる観客もた
まったものじゃないですが,でもそんなノイズを人様にお見せできるような“モノ”
にする」(西堂行人「古橋悌二にきく」,『第1回 神奈川芸術フェスティバル コ
ンテンポラリー アーツ シリーズ』パンフレット,神奈川芸術文化財団,1994).
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★5――スパイラルホールでは,毎日終演後,ダムタイプのメンバーと観客との出会
い=交通の場として「カフェ」が設けられた.彼らは本拠地京都でも隔週の土曜日
「ウイークエンド・カフェ」を開いている.
(なお,本稿執筆にあたり,『シアター・アーツ』第1号[1994]所収の《S/N》の
テキストを参照した).
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付記
スパイラルから,ダムタイプ初のCD『S/N』が発売された.スパイラルのオリジナル
CDレーベル「NEWSIC」からリリースされたこのCDは,ダムタイプ結成以来10年間に
発表された一連のパフォーマンスのサウンドトラックを新録音で再構築したもの.
収録曲は《睡眠の計画》,《036-Pleasure Life》,《Pleasure Life》,《The
Enigma of the Late Afternoon》,《pH》,《S/N》からの10曲.作曲・演奏はダム
タイプの山中透と古橋悌二.
問い合わせは,スパイラル:TEL 03-3498-1171(代表)まで.

[ダムタイプは95年3月末から5月中旬まで,フランス,ベルギー,ルクセンブルク
などヨーロッパの6都市で公演を予定している.また,秋には,カナダ,アメリカの
数都市を巡る北米ツアーも予定されている]

(くまくら たかあき・フランス文学,現代芸術)


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