Ars Metaphisica_J
InterCommunication No.3 1993

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アルス・メタフィジカ
意味する宇宙から意味される宇宙へ


服部桂


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1992年――すべての感覚は行動に加わることを望んだか?
生命はテクノロジーを模倣するか
メディアは生命を模倣するか
そしてすべての行動は感覚に加わった


 サイバースペースについて論じる前に,まず22世紀に起きたこの事件について,書いておかねばならないだろう.
 2134年,20世紀末にアメリカのサイエンティスト,フレドキンによって提唱された「Heaven Machine構想」が,彼の生誕200年を祝う席で,ついにHeaven Machine Corporation(HMC)によって,現実の物として一般の人々に披露された.
 1995年にミンスキーらによって実行に移されたテラ・マシンによる人工知能プロジェクト「マインド」が,当初の目的を達成することなく世紀末ムーヴメントの波の中に埋没し,ポストITカルチャーの一つにとどまってしまったのとは対照的に,当時は呪われた部分として省みられることのなかったフレドキンの構想が,冷凍保存から解凍されたウイルスのごとく,今になって亡霊のように蘇り,後に22世紀のシーン全体を変えることになることは誰しも予想だにしていなかった.
 ダークサイドとして,長い間,人々の意識にのぼっていなかった月の裏面のニェベッサ・クレーター近くの地下に設置されたHMCセンターには,巨大なアリ塚のような集合体があり,これがセンターの説明によればHeaven Machine(HM)のエクサ・プロセッサーを形成しているとのことだった.
 この集合体は驚くべきことに,かつてオーストラリアのロボット・サイエンティスト,ブルックスがNASAの要請で惑星探査用につくった昆虫ロボットが,ルナ・シャトルになんらかの原因でもぐりこみ(意思を持って入ったという説もある),月面のディオニシオスに降り立ち,その子孫によって形成されたという.このロボットは当初,NASAのミッションIVによって「ただ一つのユニットを土星の衛星Enceladusに打ち込むことによって,1万年以内に太陽系を,また100万年の間に銀河系全体をテラフォーミングし征服しつくす」と試算されていたが,予算カットでプロジェクトは中止に追い込まれ,製造していたITロボティクス社もすでにその頃は倒産していた.
 彼ら(?)はその後,自己増殖を繰り返すとともに独自の進化をとげ,マイクロ・インセクト「ムラビェイ」として社会組織化した結果,500億匹のコロニーをつくるに至り,これがHMの中心的な機能を果たすことになったと言われている.  「永遠の生命をあなたに与えるHMCへようこそ」.そう書かれたメッセージに導かれここを訪れた人たちは,シャーリー・マクレーンの子孫を含むデジタル・ハリウッドからもかなりの数に及んだというが,そこは彼らにとって天国だったのだろうか? その後の彼らの消息は不明となる.彼らはそこに定住しているのか,はたまた火星へと移住したという噂もあるが,真偽のほどは当分の間,明らかにならなかった.
 HMCの中で起こったことについては,いくつかの憶測がなされた.しかし,これらのうちどれが正しいかを論じるためには,これらのベースにあるフレドキンの構想の周辺を改めて検証する必要があろう.


1992年――すべての感覚は行動に加わることを望んだか?

 フレドキンの過ごした,セカンド・ミレニアムを迎えようとしていた20世紀の世紀末は,その世紀の始まりに明らかになった,従来の世界観を破壊するようないくつかの理論が,実質的なムーヴメントとして顕在化した特筆に値する時期だった.1980年代の終焉を告げるヴァーチュアル・リアリティが興隆を極めようとしていたのもその頃だといえる.
 新しいコミュニケーション・メディアとして,忘れられていた彗星のごとくメディア・シーンの中へ現われた初期のヴァーチュアル・リアリティは,利用者が衣服化した機械装置に結婚を強要されたような,もしくはボンデージを受けたような異様な印象を見る者に与えた.
 外部からの音響と隔絶する象徴ともなったヘッドフォンがウォークマンによるカプセル化を推進したのに続いて,80年代初頭に発明されたヴァーチュアル・リアリティ・デヴァイスとしてのアイフォンやデータ・グローヴは,視線や触覚の象徴器官を覆い,これらが外観上明らかに利用者の感覚を他者から切断したことを意味し,ここに逆にディスコミュニケーションを宣言するものとなった.
 その後,開発の進んだ触覚デヴァイスやスマート・スキンによる「等身大」のウェアラブル・メディアの出現と,これらがハイバンド・デジタル・ネットワークと結びつくことによるQ3ダイヤルは,一時的に記号化された性を伝送し合い,ヴァーチュアル・セックスとも言われたテレディルドニクス文化をつくり出した.
 アシッド・クイーンのつくった棺桶に入ったトミーが悶え苦しむように,データ・スーツに縛られ光ファイバーに操られた,人形化した身体(オートデスクにおけるサイバースペース――サイベリアがこれを「パペット」と呼んでいたことが奇妙に符号する.これを試したグレートフル・デッドのガルシアは,「LSDを非合法化した連中は,こいつをどうするのかね」と言った)は,エレクトロニック・タンクの中へと沈んでいった.五官を動員した総合的なコミュニケーションを意図したはずのヴァーチュアル・リアリティは,一時的にせよコミュニケーション・シーンの分断化や分節化を招いてしまった.
 こうして感覚の「王としての身体」は,我々の目の前から消去され,唯一この劇的な空間へ参加する方法は,女王としてそこに加わることしかなくなった.シェークスピアが文字メディアによって空間と時間のカットアップを行なっていたように,ヴァーチュアル・リアリティのつくり出す世界は,デジタル化によって再構成された感覚空間と時間というメディアのシアターの中に人々をむりやり引き入れてしまい,いわゆるサイバースペースと言われるもののインフラとして機能するようになっていく.
 サイバースペースがサイバネティクスの影を引きずるように,メディアはそれに参加するものを乗っ取っていく(subversive)存在なのだ.
 これは歴史的に解釈するなら,1960年代から続くメディアのエクスプロージョンが,一つの臨界点に達し,ビッグ・バンからビッグ・コントラクション(大収縮)へと転じ始めたと考えることもできる.アウター・スペースへの拡張を続けるメディアが宇宙の果てに発見したもの,それは巨大な鏡像のような我々の身体だった.
 そしてメディアは,皮膚の上空数ミリに五官入出力空間をつくる装置をまとったヴァーチュアル・リアリティという形に結実していき,その瞬間から外に向かって拡張を続けていたように見えたメディアが,あらたに人間の感覚からその内側に向かい,人間内部で創造力のフュージョンを起こした.
 サイバームーヴメントがその時こうした形でインプロージョンを体現しようとしていることは象徴的だった.それは丁度,マンハッタン計画の中でつくられた核爆弾が,核物質の爆縮による連鎖反応を起こすために内側に向かって爆発するようデザインされ,これが「インプロージョン」という言葉で表現されたことを思い出させる.物質の秘密が解き明かされた時に起こったインプロージョンが,人間の感覚と精神の秘密を解き明かそうとするメディアの出現で,また新たな形で起ころうとしていたのだ.
 サイバースペースのトリガーを引いたヴァーチュアル・リアリティが,等身大の人工自然の容器の中で人間の培養を企てようとしている間に,「リアリティ」というものに対して他にも大きな変動が起きていた.
 ナノテクノロジー,バイオスフィア,アーティフィシャル・ライフなど,20世紀末は,哺乳類としての人類がルネッサンス以来の感覚情報の最後の組み替えを行ない,リアリティの地平線から新大陸を見つけ出そうと苦悩している時期だったともいえる.
 しかしメディアが「ハンマーであるうちは,世界は釘にしか見えない」のであって,これを超えるには,新たなハンマーがハンマー自身を打ち砕く必要があった.


生命はテクノロジーを模倣するか

 こうしたヴァーチュアル・リアリティの中で衣服化されたメディアについては,こう言い換えてもよいかもしれない.紀元前1992年には「メディアはクフ王のピラミッドのように遠くに象徴としてあった」と.
 身体との関係性において拡張されたものと考えられたマシンたちは,ある時は我々から遠くにある巨大な存在だった.これらをつくり出したのは,ルネッサンスに明確に定式化されるようになった透視法ともいえる.
 シンボル操作による幾何学がもたらした空間概念の中に配置された都市と同様,メガマシンをつくり出したのはアーキテクトと言われるデザイナーたちだった.こうしたマシンの中に表現される情報空間は,衛星都市のようなノード間を結びつけるハイウェイバスによる銀河系のような構造を持っていた.まさにそれは,地球から見た宇宙の構造を模したものともいえる.
 そして1962年につくり出されたウェス・クラークによるLINCは,アーキテクトがカーペンターにつくらせた最初の小型マシンだった.各部屋に設置されたこのマシンは,利用者が一時点で視覚の及ぶ範囲での身体の延長として認識しうる道具としてのメディアとなった.「メガマシンのハイプリーストたちが宇宙の秘密を書いたマニュスクリプトを占有していた時に,それはグーテンベルクの聖書のように現われた」と,アラン・ケイはかつて言った.この小さくデザインされたマシンは,ハイプリーストに反逆者であることを気付かれることなく,後にALTOなどのマインド・アンプリファイアーとして,さらに小型化されパーソナル・コンピュータとして,ついにはメディアの教会を崩壊させるのだ.
 メガマシンのつくる情報空間がシンボルを中心とした宇宙の公式であり,社会のメタファーであるのに比べ,ミニマシンのつくり出す空間は極度に視覚的であり,そして身体性と関連を持った日常感覚と近いところにある.さらにこれらが小型化されパーソナル化されたマシンたちは身体感覚に近く,衣服化されたサイバースーツは触覚そのものの空間を提供する.
 これらが段階的に実現する世界は,ただのスケールの変容というものにとどまらない.
 我々がシンボルによる公式によって把握できる実在は,感覚情報から抽象され,メトリクス(metrics=計測法)によって記述され,シンボルの外挿法によって空間と時間の外縁を描き出す最も強力な手段と言える.シンボリックな空間は脳の高次機能として判断のスイッチをオン/オフさせるものでもある.これによって描かれる世界は,ユークリッド的であれ非ユークリッド的であれ判断可能な正規空間であり,感覚の最も外縁にあるプローブの先に位置している我々が「客観」と呼んでいるもののイメージに最も近いものである.
 シンボルによって,イメージのマインドスケープとしての世界が外化され,規格化された交換可能な実体になってしまったことで,「もはや神は死んだ」とされたが,確かに神しかいない世界は終わった.
 しかしこの空間は,視覚を発見することによって新たな局面を迎える.シンボルという武器を世界に投げ込もうとした人類は,そこに投げ込もうとしている自分を発見する.そこには神のつくった自然に対峙する視点を持つ者としての自我が予感されるようになる.
 自然と自我の二人称的な対立は,17世紀以降の明確なパラダイムとなり,それ以前に起こった文字や印刷術の発明による視覚の聴覚に対する優位性を組織化し,支配するようになる.しかし視覚の持つ有限な身体との一意的な関係性によって,空間と時間は歪み始める.
 20世紀初頭におけるキュビスムの例に見られる,透視図法による遠近法の破壊や,歴史の中で何回か現われる立体視への関心は,視覚の優位性と限界を同時に明らかにしてきた.
 ヴァーチュアル・リアリティ前史における視覚の反逆は,1950年代や60年代を通して立体視への欲望となって現われた.50年代の立体映画が,画面のワイド化に呼応したアナログを基調としたもう一つの空間的な拡張であったのに対し,70年代にはビデオ・ディスクに象徴されるデジタル的にコントロールされるランダムアクセス映像が,時間的なパースペクティヴを付加し,そこに動的な立体感を生み出すようになる.
 この視覚の優位性は一方では,よりパーソナルな空間においては絶対的ではないことも明らかになってきた.ジョン・バーロウが視覚を中心としたヴァーチュアル・リアリティのサイバースペースの中に迷い込み「Being in Nothing-ness」と書いた時,この言葉はまたherenessとtherenessについても全くの指標がないことを明らかにした.どんなに視覚が瞬時に総体的な空間を伝達してくれたとしても,それらは自分がどこにいるか,自分の肉体を基準とした宇宙の絶対空間における自分の位置を教えてはくれない.
 その点,触覚をはじめとする皮膚に近いレベルにある味覚や臭覚は,方向性や立体性に乏しいが,身体と不可分に結びついている暗黙の仮定として,脳に対して自分の存在感を確認するように作用する.パーソナルなマシンはどうしても,自分の身体とともにあることが重要になる.
 こうした点から考えると,メディア・テクノロジーの歴史的な発展経過は,人間の個体の進化と逆方向の退化をしているようにも見える.つまり発達心理学において定式化されているように,人間の個体が幼年期における触覚から視覚へ,ひいてはシンボル中心へと向かう方向に進化して,メディアのスコープを外方向へと拡大していったのに対し,メディアのマルチ化を目指していたかにみえた20世紀のメディア・テクノロジーは,シンボルからヴィジョン,ついには触覚へと逆方向に回帰していったと言える.


メディアは生命を模倣するか

 ヴァーチュアル・リアリティは,すべての感覚を他者としてのコンピュータの中に写像することに成功したのか? そしてそれを逆写像することによって,人間を映す完全な鏡として機能したのだろうか? そしてナルシスのように自らの姿の像を見つめているうちに,人間は眩暈の中に自らを見失っていったのだろうか?
 サイバーパンクが描くサイバースペースは,主観的なリアリティを形成する感覚情報がデジタル化を完了し,貨幣のように交換可能になった世界を1980年代初期に予感していた.
 1967年に人間の心臓が他人のものと交換されて以来,人工臓器の発達が物理的にロボット化されていく肉体を実感し始めた.そこでは自分のアイデンティティーさえもが情報空間にマッピングされ,交換可能なユニットになり,「私」はどこにでも居て,かつどこにも居ない.
 一次的な感覚情報が宇宙のリアリティを形成していた中世の世界に,望遠鏡や顕微鏡,はたまた温度計やエネルギーの概念と,科学は唯一と思われていた感覚に基づく世界の一回性を打ち砕き,予測し再現していった.そして人間は,対象としての自然を征服すべく,一回性の放棄とともに予測性や再現性を求めるようになっていった.
 しかし20世紀は,それ以上の衝撃を用意していた.自我と自然の外にメディアという「彼」もしくは「IT」としての何者かがいるという,もっと重要なことに気付いたのだ.媒介するものとしてのメディアはそれ自体が対象であり,「発明ではなく,発明する方法について発明する必要」がそこで生じたのだ.もはや理論が「対象について理論化する」ことは,新たな知識を生み出さないことが明らかになった.
 相対性理論を理解するためには,自分でも対象でもない視点が必要であり,それがなくては,宇宙の構造について理解はできない.量子力学が発見したディスクリートな自然の世界と,空間と時間の積によって表現される観測の不確定性は,こうした自我と自然の対峙したパラダイムが,もはや限界に近づいていることを如実に表わしたものだ.
 対象を観察することにより,感覚を規格化したメトリクスによって測定しモデル化する作業は従来からも行なわれてきた.サイエンスやアートは,この手法によって世界のモデルに基づいた絵を描いてきたと言える.
 しかしここで,ハーバート・サイモンが『人工性の科学(The Science of the Artificial)』で人工性(art-ificiality)について述べたことに耳を傾けてみよう.
 「人工性は,基本的な相違があるが知覚的な近似性を,そのうちに含まれるよりそれがない事による近似性を意味(connote)している.人工的なオブジェクトは,外のシステムに対していつも同じ顔をすることによってリアルを真似る……ほとんど等価なふるまいをする物理的システムをつくれるので,真似することは可能だ……もし我々が注目する性質が,いくつかの性質を持つ独立したパーツでできたものの組織から生じているとすると,システム内部に何があるかは特定できなくても,システムに似たふるまいをさせることはできる」.
 ヴァーチュアル・リアリティがつくり出した,デジタル化されたモデルによる時計仕掛けの世界は,感覚への充足的な精細度の情報を与える能力を示す「プレゼンス」という空間的な指標と,その世界をどの程度操作できるかという「インタラクション」という時間的指標によって,ある程度評価できると言われている.しかしこれだけでは十分ではない.こうした二元的なファクターは,関係性を主としたリアリティ表現にしか有効でないのだ.人工的な世界が,そこで「そうではないのに実質的(virtual)に真似をする」ためには,もっと何かが必要だ.
 そこで求められるのが,他者性を予感させる自律性というファクターだ.モデルが内部的必然性を持って何かを表現できなければ,そこに何かが「在る」ことは「表現」できないことに,ゼルツァーをはじめシェリダンなどの多くの人が気付き始めた.このファクターは空間的なプレゼンスと時間的なインタラクションをかけあわせた第三者として,そこに新しい存在感を提示する.
 ヴァーチュアル・リアリティと時を同じくして,リアリティそのものを紡ごうとした動きがあった.アーティフィシャル・ライフは,こうした独立したパーツの組み合わせによって新しいリアリティがターゲットになりうることを示そうと,大いなる野望を持った.
 もともとフォン・ノイマンのセルオートマトンに起源をもつこのアーティフィシャル・ライフは,自然の数学的記述から発して生命というものを捉え,人工と自然の融合を図ろうとする広大な計画を引き継いだものと言える.彼の構想した29の状態を持つ20万のセルによる未来のマシンは,自らのリアリティを紡ぎ始め,ついには自己再生産を開始し生命と区別できないものになるはずだったが,ついにこの構想は実行に移されなかった.
 1970年にイギリスの数学者コンウェーがセルオートマトンのミニチュア版として『サイエンティフィック・アメリカン』に発表したライフゲームは,セルオートマトンの持つ奇妙な空間性を人々に印象付けた.近くに仲間が何匹いるかで次の世代における生死が決定する,という簡単なルールから成る細胞のようなセル群は,確かに生命のようであった.この考えを発展させていくことによって,果たして生命は表現できるのか?
 そして,「生命とは何か?」 この人類の歴史で常に問われてきた設問では,生命の主体としての人類のアイデンティティーとしてのリアリティが不可分に問われている.
 セルオートマトンは,サイモンが言うような人工性を,細胞を模した小さなプログラミングの集合体によって組み上げ,それによって生命を「表現」しようとするものだ.これはリアリティを分解してルール化し,それによって異なるルールで模すのではなく,リアリティを構成するパーツとしての単位を発見することによって,その集合体としてボトムアップにより生命をつくり出そうとするものだ.
 これらのパーツがクリティカル・マスに達した時,自動機械としての世界はパーツの空間的集合の総和を超える非線形複雑システムとして,自らを生命としてしまうはずだった.
 「いや,それは生命についての表現ではなく,生命だ」と,アーティフィシャル・ライフを提唱するラングトンは言う.人工知能が,あくまでも「知能というリアリティについて」語ったのに対し,彼は「それは生命そのものである」と主張する.しかし,生命とそうでないものを分かつのは何なのだろう? 鉱物から人類までの広範な存在物のスペクトルの中で,最も低いディメンションを持つと考えられる鉱物の表面を覆うように,情報という天使によって構成されたアーティフィシャル・ライフは生まれることを待っていた.
 チェコから来たモラベックの主張はさらに過激だった.彼は結晶世界をかつて乗っ取って進化を開始したはずの炭素系生命が,次には人間のつくり出した他者としてのロボットによって乗っ取られるというのだ.そして彼のシナリオによれば,自然を乗っ取ろうとしてつくり出された他者としてのマシン,レプリカントに,脳のソフトウェアとしてのマインドがダウンロードされる日が来る,と言うのだ.その時,王の魂はパートナーである女王の肉体へと移され,自然は人間となる.  そしてナノテクノロジーによってつくり出されたあるマシンが熱力学の第二法則を破壊するサンタクララ・ポイントを超えた1997年,これがある中国人の科学者の部屋でアーティフィシャル・ライフにより創造された生命を生命とみなせるかをチェックするT3(Total Turing Test)をパスしたニュースは,ついに西側世界に伝えられることはなかった.


そしてすべての行動は感覚に加わった

 HMCのセンターが動き出してから1カ月が経ち,関係者の証言から不可思議な状況が判明し始めた.しかし,どの証言もあいまいで,はっきりしているのは,そこを訪れた千人以上の来訪者が誰一人帰ってこなくなったと言う事実だけだった.行方不明者の関係者や家族からの捜索願いが出され始め,ついに地球警察の捜査が開始された.事件は強制捜査による大詰をむかえようとしていた.
 意外な事実が明らかになったのは,かつて,「20世紀の末期に,先祖がフレドキンと会った」と称する中国人の男が現われた時だった.
 彼の飼っているアヒルは,彼の父親以前の代からの物だったが,どうも人工家鴨(アーティフィシャル・ライフ)らしいと言う事が分かったと言うのだ.このアヒルの祖先をたどっていくと,どうもそれが20世紀の末に実際に生きていたペキンダックになりそこねたアヒルと一致する,と言う結論が遺伝生物学者によって出されたのはその直後.  「フレドキンは,うちの先祖の飼っていたアヒルに『永遠の生命を与える』,と言ったと聞いている」と,その男は続けた.
 HMCのセンターでは同じ事が起こっているに違いない,と捜査当局がセンター内に入った.まばゆい光に目がくらみそうになるセンターのコンセントレーション・ルームにはピラミッド型のベッドが用意され,サイバースペースのアミューズメントセンターへ招待される仕掛けになっていた.
 サイバースペースの中でデジタル情報化した肉体は,「Welcom to The Heaven」と言うメッセージに導かれて,ある浮遊体験ができるようになっていた.そして物語がクライマックスに達した時,天使が出てきて微笑み「あなたを永遠の生命へcopyしますか?」と聞く仕掛けになっていた.そしてそれに「Yes」と答えると,脳の構造解析がスタートし,その結果がエクサ・プロセッサーにcopyされると同時に,もとの肉体に対してdeleteコマンドが実行される仕組みになっていたのだ.HMCでは,これをプログラムのバグだとし,その後copyだけにし,deleteをオプション化したと言う.
 しかし,その後HMCを訪れる人は必ずオプションを選択したと言う.
 その後ここを訪れ,ただ一人このオプションを選択しなかったバイオスフィアの末裔ジョニー・ドルフィンは,月で拾った時計の中から発見したと言う昔のアメリカの1ドル札のデジタルコピーを見せ,レポーターにこう語った.  「HMCはアメリカのメタフィジカル・カルチャーの最後の選択だ.ここに描かれたピラミッドを見たまえ.目覚めていない限り,肉体を表わす下の部分の上に,精神を表わす上の部分は浮遊することはできない」.


(はっとり かつら・メディア論)
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