Frontier of Communication Part3
InterCommunication No.0 1992

feature

フロンティア・オブ・コミュニケーション
新しい想像力のインターフェイスへ
[Part 3]


伊藤俊治
武邑光裕
藤幡正樹


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Part 1
1.未来ヴィジョンとマインド・リフレクター
2.アウター・インターフェイスからインナー・インターフェイスへ
Part 2
3.身体感覚地図の書き換え
4.音の世界とシンクロニシティ
Part 3
5.速度技術と遅延技術
6.新しい世界モデルの生成

5.速度技術と遅延技術

武邑――僕にとってコンピュータは,エンターテインメント・エンジンともいえるわけです.かつては筋肉を複写し増幅していくエンジンがあり,また,今までのコンピュータは,知識や情報を集約してゆくエキスパート・システムとしてのエンジンとしてあった.そうすると次はエンターテインメント,つまり情感とか感情をどこまでデザインできるのかということではないかと思う.そのとき,メディア・ヴィークルとかインフォメーション・ヴィークルということを僕は考えた.
 僕たちの欲望とメディアは結びついている.しかも,その欲望は複合的で,エディットやシンセサイズの基盤を自らの身体そのものが持っているという前提に立つと,そこを納得させるインターフェイスやエンジンが必要になるわけですね.その時に重要なのが車なんです.車というのは20世紀が成熟させた最大のメディアであり,ヴィークルというのはメディアとほとんど同義語でさえあると思います.今メディアといったとき,どこからが情報で,どこからが媒介なのかほとんどわからない.しかしヴィークルといったとき,それは非常にわかりやすい.そういう意味で,メディアという言葉はヴィークルになってしまった方がよいのではないでしょうか.
 ヴィークルの中で一番問題なのは,A地点からB地点へ至ろうとするときの時間だと思います.車に乗っている僕ら自身の時間があって,車というものの時間がある.あるいは本来はグラウンドを走っている景観としての時間があるけれども,100キロで走ると100キロで流れてゆく時間や,フロントガラスを通じての時間がある.車ほど複数の時間を同時処理して,われわれに伝えているものはない.しかも,僕らがアクチュエーターになって,車という動力機械を動かしているわけですね.
 車自体がアクチュエーターであるという考え方が,コンピュータも含めて,今までのメディアの考え方だったと思うんですが,われわれがアクチュエーターであるんだということへシフトしてしまうと,車はどうなるか.今,アクティヴ・サスペンションだとか,なるべく人間の制御だとか,制動性を軽減するために,機械があらゆることをやってくれるというような発想になっているけれども,このままいくと破綻をきたすのは明らかですよね.時速300キロで走れる車があっても意味をなさないわけだから.前に乗っていた車は100キロで走ったときにちょっと震えがきて怖かったけれど,今の車は150キロ出してもなんともないと.この発想をつきつめていくと,実は300キロ出しても平気な車になる.ところが300キロ出しても何も感じなかったら面白くもなんともないわけですよ.80キロで走っているんだけれども,150キロで走っているような車というのが重要になってくる.先程も話しましたけれど,これは一種の高度に制御された「遅延技術」ですね.
 非常にギミックだけれど,車の中のDSP(デジタル・サウンド・プロセッサ)はすごいですね.自分の家で聴いているとなんということはないものが,車の中でDSPをガンガンやると圧倒的にエフェクタブルで,自分の時間が圧倒的に変化する.
 この間,トヨタの人と,今,アクティヴ・サスペンションを倒立してしまうとどうなるかというと話しをしていたら,もう発想としては作っているというわけです.アクティヴ・サスペンションというのは,人間のアクチュエーターであることをなるべく軽減していくこと,例えば100キロでコーナーをまわってもロールしないというようなことですが,あれを完全に倒立させると,例えばサスペンションのサンプリングができるんです.だから,今日はフェラーリのサスペンションを使って,エンジン音もフェラーリのエンジン音をサンプリングしてみたり,また,今日はランボルギーニのエンジン音にフェラーリのサスペンションでいこうとか.つまり,80キロでしか走らないエコノミーカーで,そういったエフェクタブルなエモーション・コントロールができてしまうわけです.
 車がそういったギミックでエフェクタブルな情報に対して有効だということは,車が最も僕らと欲望の共犯関係を成熟させてきたメディアであることを示しているからだと思うんです.メディアというのは,そういったヴィークルへと加速度的に変換していく必要があるのではないか.あるというか,そうなっていくのではないか,そう思うんですけれども.
 今,確かにメディアはわれわれの欲望装置ですが,非常に中途半端な欲望装置である.そういう意味では局所的なんだと思う.その中途半端な部分を,われわれが自分自身の感覚の合成技術で補っているんです.だから,いくらマルチメディアとか,今言われているような要素を積み上げていっても,実はわれわれがやることはたいして変わらないわけです.かえって,テクスト,音声,データ,画像というものを,一律の時間軸の中で強引に組み合わせてしまうと,非常に大きな負担がかかってしまう.つまり,何故複数の時間を制御できないのかということですね.マッキントッシュが,タイム・ベースト・データということを言い出したのは,クイック・タイムによってフルモ−ションのムーヴィーを,二次元グラフィックスや文字や記号のようにカット&ペーストできてしまうということの大きな変化だと思います.このあいだスーパーマックというところが,ボストンのエクスポで,圧縮技術を使って3.5インチのフロッピィに30秒のフルモーションを入れていました.これはやはりショックでしたね.これからどんどん圧縮技術が進んでいくと,動画像や三次元の時間軸を伴った情報の処理や加工のステージから何がでてくるのか非常に興味があるんです.ヴィークルとしてのメディア,可変的に速度を変換できて,イマジネーションのアクセルだけを踏めば,それを時速5キロから400キロぐらいまで持ち上げられる,そういうアクセレレーターみたいなものが内部にあるのではなくて,外部のインターフェイスにあったらすごく面白いと思う.

藤幡――それは製品として成立しますね.フライト・シミュレーターみたいに油圧で座席がコントロールされて,5キロ動いただけなのに,中の座席は,すごく加速がついている感じがするとか.

武邑――その時,技術者が言っていたのは,――彼はエンジンやサスペンションのトップの人だけれども――,300キロ,400キロの世界は完全にシミュレーターになる,それは動かないヴィークルになると.つまり,今のセナの神業的なドライビングを体験したかったらシミュレーターにいけと.現実の交通体としてのシステムの中には生まれないというんです.だから,欲望と機能といったことを,同時に最初からインプットしてきた車というものを,今,欲望と機能を分化させていく方向に社会システムが動いているわけですね.とりあえず,その中間点に80キロで200キロの体感ができるような車を出していく可能性がある.それ以上の欲望に関してはシミュレーターになる以外にないと思う.

伊藤――そうしたら,渋谷のあそこに行きたいからと,パッパッパッと押せば,僕の運転とは関係なくそこまで行って,その間にエフェクターが縦横無尽の感覚の競演をくりひろげるという想定もありうるわけですね.

武邑――今,本気になって考えられているものに,全自動自動車がありますね.1939年のゲデスがつくったニューヨーク・ワールズ・フェアフューチャーラマにあった,車と道路システムのインタラクションで,通信制御でわずか5メートル幅で百何十キロのスピードで流れるというもの.あれはヨーロッパでも,アメリカでも,日本でも,2050年ごろまでには実現という方向で動いています.しかし,それができるエリアは限定されると思います.そこから出てきたときにどうするかということは残るけれど,逆にそういう機能でしか,交通体や,今のエコシステム全体の中で車の残る余地がないとすると,メディアと車ということを考えたときに,それはある意味で非常に完成されたメディアであるとは思います.しかし,車が奇形的に拡張しすぎてしまったのは,最初から単独に存在しえたからですね.逆に言えば,今の電子的な情報ネットワ−クとか,新しい関係性が,車の中に生まれてきていますが,しかし,ある意味で車の方が特化して進んでしまったメディアであるということはいえますよね.それが遅延技術というものなんです.つまり技術のための技術先進であれば,300キロでも500キロでも,いくところまでいってしまえということができるけれど,80キロで150キロの体感をエフェクタブルに,ヴァーチュアルに成立させてしまうところが,CADでもそうだし,遅延技術の重要な部分だと思います.
 デザインCADなんかで,エリアスというところで今作っているものは,完璧なものをとりあえずひとつ作って,遅延のパラメータというのがあって,人間の判断をいくつかインプットすることで,それをもう一回デフォルメしてしまうんです.ドリームデザインとか,人間の情感的反応というパラメータを設定しておいて,とりあえず空力的に完全なデザインだろうというものを,CG上でモックアップをつくって,そこに遅延のパラメータを入れる.例えばもうちょっと直線的なラインを融合したらどうなるかとか,時代のトレンドとか,いろいろな要素がある.エリアスの三次元グラフィックスのチーフ・サイエンティストのマーティン・ツォリが,トヨタのために考えたデザインCADは案外すごいですよ.

伊藤――それはコンピュータの中で作ったかたちを,そのまま外に出さないためのランダムな機能という意味ですか.

武邑――それが出てくるのは2年後ぐらいだと思います.

藤幡――例えば,ほんとうは使っていないのに鋲を打ってしまうとか.今のトヨタの車はスケール感がない.本来は鉄板を曲げたら,やはり鉄板を曲げたカーブというのがあった.ジャガーなどをよく見ると,曲面を幾つか継いである.そういうものだったはずのものが,全く素材によらないカーブを持っているから気持ちが悪い.今,遅延ということを聞いて思ったのは,最近のものは,溝とか鋲とかボルトとかを無理矢理つけたりするということでもできませんか?

武邑――いや,曲面サーフィスにとりあえずはなってしまうわけです.おしりが持ち上がっていて,ダイムラーになってしまえば一番速い.後ろがスパッと切れていてね.後ろにトランクケースで変なでっぱりをつけるだけで抵抗値が悪くなってしまうから,今の車はみんな,おしりがモコッとしたものになってしまっている.だけど,とりあえず何をプライオリティにしてデザインするのかということですよね.CADでつくった一応の理想型なのか,物理的慣性法則の中での理想型なのか,走っているときに美しく見えるフォルムなのか.いずれにしても直線をいれないといけない,だから直線というデータをどうやっていれるかですね.

藤幡――誰でもできる車のデザイン.

武邑――ハウスミュ−ジックじゃなくて,ハウスデザインですよね.

伊藤――例えば,ユーザーが自分の家や空間まで作ってしまえる.

藤幡――そうなるのではないでしょうか.僕が使っている樹脂みたいなものも,ボディのサイズまでくれば,デザインして一晩でボディが全部できてしまう.

武邑――今,トヨタが発注を受けて納車まで2週間でしょう.カローラを200万台作って,去年の段階で全く同じ車が200台しかない.全部少しずつ違う.オーダーを受けてから客に回るまで2週間のアッセンブリなんです.今はもう100台とか,そういう世界になってきている.そこまで選択肢を多様化させてきたということもあるが,逆にいえば,一品種一生産とか,そういうカスタマイズされた世界へときている.しかし,まだまだ外観のかたちにいたるまでは変えられない.

伊藤――こうした状況が究極的にいったら,べつにモノとして作らなくてもいい.ひとつの感覚の中に全感覚的なものが内包されているのであれば,グルメ番組を観て食べた気になって,もういいと思ってしまうように,実際に作って乗るということにあまり意味がなくなってゆくんじゃないですか.流通の問題とか,商品製造の問題が絡んで,電子情報ネットワークのなかの身体感覚の変容によって,消費プロセスと生産プロセスが大きく変質してしまい,一品種一生産という形式の向こうの,リアルタイム・マーケット的な,もうちょっと過激な流通や製造の変化みたいなものが,そこに見え始めていて,実はわれわれの身体感覚自体がそこまでいってしまっているのではないかと思うんです.消費とか欲望の問題に関していえば,もうそれで自足してしまえるように,僕らの内部ができあがりつつあるような感じがする.
 もともと人間というのは自分の身体速度を変えることができたと思う.僕らは通常,日常的な速度の中にいるから日常的な現実を作っているわけで,日常的な現実の速度とは異なった速度を,自分の身体がある種の方法によって獲得することができれば,すぐ別の世界に入ることができる.それはドラッグでもトランスでもいいんですが,そういう手法さえあれば,多様な速度の時間帯の中に入り込むことはできるはずですね.だから,メディアが速度を変えてゆく車だというのはモデルとして非常に明快なんです.そして大切なのは身体感覚を作っていくものが次々と変わっていって,身体を作る時間軸とか,空間軸を変えてゆくということは,われわれにとってどういうことなのかということだと思う.

藤幡――それが現在においてリアルになっているのだと思う.ヴィデオテープや写真が出る前は簡単にはできなかった.
 それが写真やヴィデオテープが出てくると,自分の生きている速度だけではないということが明解になってきたわけですね.それをより強く強調するとエンターテインメントになる.俺は今,違う時間を生きていることがリアリティなんだと思う.例えば,友だちが今こうしているだろう時間と,自分が今,車に乗っている時間とか,そういうものが見えてくる.昔はイマジネーションに過ぎなかったかもしれないが,「今,どうしてる」とか,意味もなく高速道路の中から友だちに電話する状況とかはそうでしょう.パラレルにある時間を,ある点でクロスさせて遊んだり,それがダイナミックにできる環境ほどリアリティがあって楽しいのではないでしょうか.

伊藤――ヴィークルとしてのメディアということを考えていった場合,ISDNのネットワークに介入するメディア・スーツを持っていれば,先程言ったようなことが,現実の身体を成立させてしまうわけですよね.遠い未来ではなく,数年後にそれは可能なわけで,そうしたときに,自分が持っていた界面,これはインターフェイスだけではなくて境界という意味もあるけれど,そういうものをどんどんずらしたり,引き寄せたりする,すごくざわめく身体性みたいなものがそこに現われると思う.そういう時点で,人間の位相を考えていかなければならないと思う.

藤幡――さきほどランボルギーニのエンジンで,フェラーリのサスペンションと言いましたが,それをパラメトリックにとったらフェラーリでもないし,ランボルギーニでもない,全く新しい別の空間があったことが明らかになる.そうすると,今まで,過去の車のメーカーがやっていなかったスポット,違った速度,違ったリアリティがパラレルにあったのに使っていなかったということに気がついてしまったという気がするんですね.身体の問題でも同じわけですよね.

武邑――今,僕が一番面白いと思うのは,車のエアバッグというものがありますね.とりあえず,今,車の中で不慮の事故とか,突発的な偶然を制御できるものは,物理的にはエアバッグです.あれもどのくらいのショックがあったらエアバッグがコンマ何秒で炸裂するかという一応の標準値をとっている.ところが,エアバッグなんて通用しない事故があるわけです.今,僕らがとりあえずT軸(P.78 註3参照)で持てる,これから起こるであろう,あるいはいつ起こるかわからない突発的な偶然に対して制御できる力の変数がエアバッグしかないとすると,そういう突然の事故を複数の時間から予測して,つまり,ひとつの事故にどこまでの時間を複合化させることでその事故を回避できるかということが想定できるはずなんです.エアバッグというシステムだけではなくて,例えば,壁に激突してしまう局面になった時に,時間と空間の中で物質がどう変化するかという物理的な慣性法則や,あらゆる法則性の世界をこの中に導入する.そうすると,車のタイヤが一挙に拡張したり,パンクしたり,あらゆる局面を制御することで,偶然という時間を越えることが可能ではないかと思うんですが.

藤幡――渋滞の時に追突事故がありますね.事故が起こる前にパッと避けるみたいなことですか.

武邑――もっとドラスティックに言うと,ぶつかるのが避けられないとすると,タイヤを一挙に破裂させてしまうとか.シミュレーションの中では時速80キロで壁にぶつかったら,鉄がどういうふうに壊れるかはある程度わかる.そういう慣性法則を導入すればいいわけですね.ところが,現実の中には他の要素がものすごく多く働いていて,路面とタイヤの関係で滑っていく力とか,重力とか,火で融けていくとか,そういうことを同時に処理することは,今,シミュレーションではできない.それを複数処理できるシミュレーターがあると,シミュレーターの中で,現実の偶然性とか,運命の糸とかいわれている領域を越えることができるんだと思う.

伊藤――時空間のパラメタライゼーションみたいですね.例えば,それとナノテクノロジーが結びつくことで,分子組成を変えてしまうとか.なんか,ちょっと怖くなってきましたね.


6.新しい世界モデルの生成

藤幡――僕はコンピュータと人間が出会っていろいろやっていく間に,コンピュータ側から作りだしてきた言葉みたいなものがこちら側に押し寄せてきて,それがあるリアリティを生んでいること自体ものすごく怖いと思うんです.フロッピィ・ディスクの中に僕が書いた原稿が入っているということを,今はわりとみんな信じられるようになったけれど,5年ぐらい前はデータがメモリに入っていて,メモリからフロッピィに落とすということはあまり信じられなかった.では,そのフロッピィ・ディスクの中にデータが入っているということを明確に確認できる時とは,どういう時なのかというと,コンピュータと生身の人間とのインタラクションが一番派手な時です.つまりそれを失ってしまった時,例えば,ワードプロセッサで3時間かけて文章を書いて,フロッピィ・ディスクにしまわないで電源を切ってしまった時とかです.僕はそれを相原コージの漫画からとって「ヒューララ感覚」と呼んでいるけれど,あれはもう坂口安吾や太宰治の虚無感ではない.みんな体験していると思うけれど,本当にもう虚数の世界に入ってしまう感じ.だから,作った時ではなくて,なくなったときに強烈に感じるあの感覚の延長が,これからもっと押し寄せてくる.オプティミスティックにいえば,そこに巨大な地平が開けているという人もいるし,もうやめてくれという人もいるし,エンデみたいな人もいる.

伊藤――それは未だ僕らが生身のこの肉体でしか生きられないゆえの虚無性ですね.

武邑――あのときくらい肉体を恨むことはないですね(笑).人文的な生と死というレヴェルの領域だったら,まだこの肉体で何とかというところがありますが,でもあれを初めて体験したときにはどうしていいのかわからなくなってしまう.2,3度やってみて,その対処の仕方を処方箋として感じとれる.

藤幡――もうひとつ,マルチメディアが何故売れないかということを考えた時に,まだみんなが慣れていないんだ,量の問題だという結論になった.みんなが使って,それが当たり前になればいいのだと.そうすると,中身についていちいち議論しなくなる.やってみて動いたからそれでいいということになる.テレビの中がどうなっていようが,スイッチを押したらタモリが出てくれば,それでいいということになる.現実のことというのは,必ずしもすべて理解されていなくても認知されてしまう.だから,リアリティというのは繰り返すということだとも思った.

武邑――リフレイン・テクノロジーみたいなこと?

藤幡――今日も朝起きてみたら,あいかわらず俺は生きているから,やはり俺は生きているんだ,みたいなことです.

伊藤――そういう感覚はもう何年ぐらい前から?

藤幡――87年に立体の展覧会をやったけれど,それを準備するのに1年ぐらいかかっている.そのころ,立体にして触りたいと思ったころからだと思います.それ以前には疑問がなかった.ヴィデオテープにレコーディングするとか,コンピュータを純粋に映像を作るための道具だと考えたらすごくシンプルでしょう.それがテクノロジーの使い方として発展してきて『ターミネーター2』のような,コンピュータ・グラフィックスなんて一言もいわないで,あれほど使いきる映画ができている.僕はそちらにはいかないで,すごく異様なものに思えてきて,気持悪くなったので,こちら側に出したくなったんです.

伊藤――さっきのヒューララというのは,自分が内包していたあるチャンネルを絶たれてしまったという…….

藤幡――時間がパラレルだったということを急に見せつけられるのではないかということですね.生きている時間とコンピュータの時間がパラレルにあって,かすかにキーボードでやり取りをしていたのが,電源を切ったらポンと消えてしまう.実はこちら側のものではなかったと.だからDTPと言っているもので重要なのは,やはり紙に出すということで,ペーパーレス・オフィスというのは嘘ですよ.

武邑――マッキントッシュにしても,何故欲望をそそるかというと,まさにそれだと思いますね.どんどん進化を遂げていくプロセスの中に,うまく僕らの欲望,解像度欲望とか,イメージの欲望といったものを,段階的に進化させてきたわけでしょう.最終的に,色もそうだし,文字としての形といったものだとか,そういうものに対する欲求をうまい形にしてきたと思う.紙というのは,すごく完成されたインターフェイスです.最初にいったテキストが10キロは残るというのは,その部分だと思うんです.しかも,その10キロは1950年代の10キロとは違って色もついているし,その10キロを支えているプロセスを自分でコントロールできる.その部分が非常に重要で,しかもその10キロの3分の1くらいは,予備的ではあるけれども映像になっていくだろうと思う.映像といったものも物質的な枠組みで所有したり,たんにデータとしてファイルされているかもしれないが,それも紙と関係性をもったところで生成されていくと思いますね.

伊藤――写真がノスタルジーではなくて強いテンションを持ち始めたのは,たぶん物質としての映像というファクターが強いと思う.今,いろんな人がDTPをやっているけれど,コンピュータ世界のリアリティを現実の世界に奪還していないという気がする.プリントメディアとして出てきたときに,へなへなしたものに見えてしまう.それならディスプレイで見ていた方がいい.何故プリントアウトするのか,現実に呼び戻すのかという問題は結構大きい要素になると思いますね.これから,もし物質化して,プリントアウトされたものが威力を持つとすれば,デジタルとかアナログという二元項を越えたものとして力を持つでしょうね.

武邑――もし今,イヴ・クラインが生きていたら,1670万色の世界の中からどのブルーを選択するか興味がありますね.でも,今は,選択肢が多過ぎる.例えばクロマキーブルーが良いとしても,ものすごく帯域が広いわけですね.カナダのジェネラル・アイデアがクライン・ブルーにひっかけて,電子的なクライン・ブルーという意味でクロマキーを変換する,あるいは,デレク・ジャーマンが構想したイヴ・クラインの映画にしても,今のデジタルの画像世界の中で,ブルーといったときの,最終的な色にとりつくプロセスというのは,今,もしクラインが生きていたら,もっとすさまじい葛藤になったか,即座に断念したかの,そのどちらかだろうと思う.

藤幡――コンピュータの中の色というのは,1600万色をフルカラーというけれども,1600万色すべて均等だからヒエラルキーがないわけですね.だから,ディスプレイの上で見えている色を指して,どうしてこの赤がプリントアウトできないんだと言っても出るわけがないんです.それは向こう側のものと,こちら側のものだから.それに思い入れを持っているようではだめです.本当は,ヴィデオアートの時代がそうだったけれど,明確に語れなかったわけです.でも,例えばヴィデオ編集室にいって,波形をモニタリングするのに時間軸方向にモニタリングするものと,色相だけみるものの二つがあるけれど,それは360度しかない.その量でしか色が表現されない.なんだこれかというのを見てしまうと,色なんか何でもいいと思ってしまうんです.だから,コマーシャルなんかで,あの女優の着ている赤がきれいに出ているとか演出家はいうけれど,今,台頭してきている新しいタイプのコマーシャルのディレクターで,佐藤雅彦という電通の人がいます.フジテレビの「ルール」とか「ラブ」を作っているディレクターですが,全くそういうことに思い入れのない人なんですね.ロジカルにきちっと伝えるという広告の原点にかえっている.しかし,そういうことが,まだなかなか受け入れられない.実は色に関しても「ヒューララ」しているのに,誰もそう思っていないでしょう.ブラウン管にこびりついている三原色の蛍光体の色でしかないわけですね.ブラウン管業界はできるだけ派手に発色するグリーンの蛍光体探しに全世界をかけめぐって,いろいろな石を探したりしている.そういうヒューララな状況をピックアップするだけでも面白いかもしれないですね.コミュニケーションといわれているものの実体の中身は実はヒューララだらけ.それを見る側のイマジネーションがかすかに補っているだけなんです.

武邑――例えば,電話なんてもうヒューララだから,ここまですごいものになっているんだと思う.先頃行われたICCのイヴェントの「電話網のなかの見えないミュ−ジアム」の録音をしたときに電話の限界を感じました.高域,低域がすべてカットされている.郵政省にしても,FCC(連邦通信委員会)にしても,あれを増やすことはできないんです.中間域の声だけをポイントにしている.すごく最適化された情報の帯域なんです.ところが,一挙にこれからオプティックになったら,500テラとかいう単位になるわけでしょう.4キロヘルツの回線であれば1000億入る.テレビの画像装置の信号の4メガヘルツでいえば1億チャンネル.それだけ広がる領域の中に,今なぜ電話がとりあえずあれだけの帯域になっているかというのはすごく大きな問題です.その一定の帯域の中の情報だけでコミュニケーションが成り立っているというのは…….

伊藤――本当は人間の可聴領域である20ヘルツ以下や20万ヘルツ以上の部分で,僕らがコミュニケーションしている部分もあるわけですよね.

武邑――その時に,電話というのはこれでいいんだと,だから今ホットになってしまったんだと思った.つまり,僕らがそれを補っている.ものすごい量のイマジネーションのエンジンを発動させて,相手が今どういう気持ちでいるかというようなことまでこちらで補っているわけですね.非常に限られた帯域の限定的な情報だけで,僕らはある種立体的な情報へと補完している.この種の理解がないと,テレビ電話にしても,一挙にシフトした時にとんでもないことが起こる気がするんです.

藤幡――その時に,イマジネーションで置き換えている部分が,実はそうではないんだということを見せれば,ヒューララだったということが明らかになる.

武邑――今のダイヤルQ2にしても何にしても,補えない部分のヒューララな部分を一挙に出しているでしょう.

藤幡――それでホットになっている.

武邑――コミュニケーションのエコシステムということでいうと電話に勝るものはない.

伊藤――ジャロン・ラニア−なんかも,VRは,未来のTVになろうとしているのではなくて,むしろ未来のテレフォンになろうとしているのだというような言い方をしていますね.音のネットワ−クを,ここでも未来のイマジネ−ションとか,クリエイティヴィティのモデルにしているようなところがある.

武邑――伊藤さんと数年前に対談して,僕らにとって,300年くらい先の未来イメージとかヴィジョンがないことが非常に不幸に思えたのですが,少なくとも30年代,40年代のドリームデザインとか,フューチャーイメージのイメージウェアとしての資産価値が,過去のイメージ・データファイルを検索することでしか設定できなくなってしまったという認識が当時はありましたね.今,そこに変化がでているのではないかと思う.僕らが,今の現実という制度とか枠組みに充足していないということは明らかです.かといって,かつての身体的なリスクの大きいドラッグとかも,イメージのファイルの中にかなり入り込んでしまって,ある意味ではドラッグもひとつのイメージファイルや広告のイメージ消費の中で淘汰されてしまった.だから今,リアリティの更新に可能性があるのは,とりあえずテクノロジーだったりコンピュータだったりする.それが,現実に何歩も先んじたシミュレーションを行なったとき,そのシミュレーション・リアリティを現実に奪還していくプロセス,そこにポテンシャル,それこそ仮想という意味でのポテンシャリティがあるのではないかと思うんです.
 変に世紀末的な演出をたてていくつもりは毛頭ないのですが,20世紀の世界モデルを形成したのは,あの時代の抽象表現衝動やシュールレアリスムなどですね.この先,21世紀の世界モデルが新しく成立するとすれば,今のメディア・テクノロジーの内部でどのようなことが起こるのか,そのパラメータを僕らの方で操作したり,変換してしまうという作業の中にあるような気がしてならないんです.それが多元的な新しいメチエになるような気がする.
 だから,ネグロポンテが70年代に『日曜画家の復権』という論文で書いたようなことはすでにそうなっている気がするし,それはその人間が持っている社会基盤や,文化基盤や,生活的な基盤とも関係があるけれども,逆に非常に有限的なコックピットの内部,有限的なメディアとのインタラクションの範囲の内部では,個人のベースにそれほどとらわれない有限要素の解析が進化を遂げるような気がするんです.
 だから,非常に広い意味でのメディア・テクノロジーやメディアということでは,重層的な範囲の選択肢があるけれども,カプセル化してコックピットのようなかたちで決め込んだとき,個人が持っていたさまざまな情報や,文化価値や,社会価値みたいなものを一挙に飛び越えてしまうこともあるのではないか.

伊藤――一方で現実の情報環境みたいなものを越えた,ある種の情動情報環境が作られつつありますよね.それはたぶん神の概念を作るということとかなり近いものがあって,それを組織化していくことによって,ある意味でディック『ヴァリス』的なネットワークのシステムができあがっていくみたいな把えかたができるのかなあと思ったりする.

武邑――藤幡さんの作品をみていると,僕らにとってのイメージとしての最初のエリアス,つまり原型となるもの,それが三次元的になったり,まさにこういう立体となっていくプロセスというのは,すごくエフェクタブルで,創造主的で,スリリングで,ドラスティックな体験だと思う.まさにアルゴリズムそのものをマニピュレートするというか.しかもその中にある種の偶然とか予知みたいなもののパラメータの変換までシャッフルできたりするわけだけれど,その中にもっとイメージや情報といっているもののスライスした世界とか,その中にかたちを与えていくとか,例えば二次元が三次元になったときに,かたちとしての,ある種の情報の変容といったものを見たように,スリリングでドラスティックな体験を感じると藤幡さんは書いていたけれど,それに僕はすごくシンセサイズしますね.
 植物の成長アルゴリズムが80年代前半あたりにでたときに,それはもうフラクタル以上にショックだった.ちょっと数値的なパラメータを変えると,全然違うものになる.しかも,それに対して,僕らはある意味でなす術を持たない,というよりは,結果に対してのある種の責任みたいなものを持つ.それまでをその範囲のフレームの中で今は回収できるわけです.
 バイオテクノロジーみたいに何が出てきてしまうかわからないような,倫理的なコードみたいなものと直接的な関係性を持っていると,エソテリックなものになってしまうけれど,この領域とバイオとか,遺伝子とか,新しいケミカルな物質を作るといった領域が,シミュレーションの世界の中でとりあえず完結していて,どんどん現実を先んじて生成している.そこからどの部分だったら現実に出してもいいかみたいな回路が,今ものすごく滞留していると思う.

藤幡――オートメイテッドライフという学会がありますが,遺伝子のシミュレーションのアルゴリズムについてディスカッションする学会で,1年間コンピュータを動かして1個の遺伝子と1個の遺伝子を掛け合わせて,ランダムに30個くらい作っておいて適当に選んで掛け合わせて,そのときどういう遺伝子になるかというアルゴリズムを検証する.それをお互いに見せ合う.
 僕たちには,たくさんの可能性があったけれど,とりあえず1個の歴史を選んできているという気がする.もし,クレオパトラの鼻がもう何センチ高かったらという話があるが,それがコンピュータの中でできてしまう.ポッシブルなものが全部できてしまうというようなところがあって,結果としてここに見えているものの意味がなくなっていく.変な言い方かもしれないが,神様の視点みたいな,見えているけれど見えないみたいな見え方になってくる.もっというと,生への執着みたいなことの意味が変わってゆきそうな気がします.私は肉体としてここにあるけれども,たまたまここにいるに過ぎないというような感覚が普通になってしまう気がしますね.

武邑――現実の側に物質的な根拠を伴って再現してしまったら,破局的な影響を与えるかもしれないものも,コンピュータの中では,そのシステムの中では,どのようにでも作れて,消すこともできる.消してしまった時に,あれは何だったかと.つまり,本来僕が現実世界の中で,それがひとつの要因として現われただけだったら,それだけでも大きな影響を与えるかもしれないけれど,それはひょっとしたら今でも生まれては消え,生まれては消されて,あるいはデータとして残っていたりということが起きているのかもしれない.今はそれを現実の物質的根拠として生成することができない部分もあるかもしれないが,そういった意味で,僕らの物質的な世界との関わりの中でとんでもないことが起こっている気がする.そのことを見つめてゆかなければならないのではないでしょうか.


(いとう としはる・美術史/たけむら みつひろ・メディア美学/ふじはた まさき・アーティスト)


★49――アクティヴ・サスペンション

バネ,ショックアブソーバーの減衰力の強さ,車高を路面状態,走行状況に合わせてコンピュータで制御する.この技術の導入により,近い将来,操縦性,安定性,乗り心地の飛躍的な向上が期待されている.


★50――「遅延技術」

先端技術体系に対して,特にヒューマン・インターフェイスの領域やヒューマン・ファクター・デザインの側で提起される生体サイドへのインタラクションの制御技術に端を発している.技術進化の速度状況に応じて,単にその速度を遅らせるのではなく,ヒューマン・ファクター・デザインの一環として,生体サイドのインサイド・インフォメーションをすり合わせ,技術進化のステージを生体の側でフィードバックするなど,高度な遅延を意味している.


★51――タイム・ベースト・データ

78ページ,註4「マルチタイム・リアリティ」参照.


★52――クイック・タイム

アップル・コンピュータのマッキントッシュ上で,ヴィデオやアニメーション,音声などの情報を,データとして自由に編集,リンクさせることの出来る次世代のソフト・ウェア.現在のマルチメディア的状況に継ぐ,新しいソフトウェアとして注目される.


★53――フライト・シミュレーター

CGとシミュレーション・システムの向上によって現実の飛行体験と限りなく近い身体知覚が,疑似コックピット内に実現されるようになった.操縦席の実物大模型に組み込まれた油圧ピストンによって機体の反応を伝え,実際の風景を飛行していると確信できる精度を持った複合感覚制御と画像システム,さらにアイトラッキング・システムなどが応用されている.(武邑光裕『現代思想』91.年4月号)


★54――ノーマン・デル・ゲデス

1883年生まれ.アメリカのインダストリアル・デザイナーの草分け.最初はメトロポリタン・オペラのステージ・デザイナーとして活躍.1927年頃からインダストリアル・デザインを始め,レイモンド・ローウィやヘンリー・ドレフェスらと同様,ありとあらゆるプロダクトを手掛ける.第二次大戦中は政府に協力して様々な戦略兵器の開発に従事した.


★55――ニューヨーク・ワールズ・フェア

1939から40年にかけてニューヨークで開催された博覧会.30年代におけるモダニズムを軸にした未来ユートピア実現への視覚的な欲求を具体化したものであった.


★56――フューチャーラマ

「ニューヨーク・ワールズ・フェア」でジェネラル・モーターズ社が提供したパビリオンで,未来都市モデルのシミュレーション・ジオラマ.インダストリアル・デザイナのノーマン・デル・ゲデスが当時の未来予測やイメージングをベースに作り上げた約15分の未来への旅であった. (武邑光裕『現代思想』91年4月号)


★57――エリアス

シリコン・グラフィックス社のグラフィック・エンジンに対応した,カナダ・トロントのCGソフトメーカー.主に,CADシステムにおいて世界有数のソフトウェアを生産している.現在主流の実画像とCG画像の合成技術や『ターミネーター2』などのCG制作上の基本ツールを開発している.


★58――マーティン・ツォリ

カナダ国防省,トロントのデジタル・ヴィデオ・システムズ社でソフトウェア関係の研究開発に携わる.1986年よりエリアスリサーチ社のストラテジック・リサーチ部門副社長.


★59――ハウスミュ−ジック

最先端のダンス・ミュージックの一部門で,そのハイタッチな曲調がディスコ,クラブシーンで流行.DJが過去に録音された素材の切り貼り(カット&ペースト)や,サンプリング,リミックスをして,即興的にサウンドを構成する.


★60――ISDN

integrated services digital networkの略.デジタル技術をベースにした総合デジタル通信網.音声,データ,画像などの情報通信を総合的に提供することができる.現在のアナログ網に代わり,電話回線・デジタルデータ通信網,ヴィデオテックスなどのような個別の通信網をひとつに統合する高速度網として整備が進められている.さらに従来のISDNの100倍の伝送容量を持つB-ISDN(広地域ISDN)は1995年サービス開始の予定.


★61――エアバッグ

自動車の安全装置.ハンドル等に取り付けられた空気袋で,衝突時前方からの強い衝撃を感知して高圧ガスで瞬時に膨らむ.アメリカでは90年型車から乗用車,軽トラック,ミニバンなどに装着が義務づけられており,日本でも高級車だけでなく一般の車種に普及している.


★62――『ターミネーター2』

1991年,アメリカ映画.ジェームス・キャメロン監督,アーノルド・シュワルツェネッガー主演.ここに登場する液体金属ロボット「T1000」の変身シーンはコンピュータ・グラフィックスで処理され,Industrial Light & Magic(ILM)が担当した.二つの映像をデジタルに記憶させ,片方の映像からもう片方の映像にスムーズに変化させるマーフィング技術は「T1000」の変身シーンには不可欠なものだった.


★63――DTP

Desk Top Publishingの略.パソコンや電子プリンタによって可能になった,簡便な机上システムでできる電子出版.


★64――イヴ・クライン

1928年生まれ.フランスの画家,アーティスト.1955年パリのサロン・デ・レアリテ・ヌーヴェルにオレンジ一色の絵画を提出,拒否される.56年,ミラノの「エポカ・ブルー」展で,ブルーのモノクロニスムを発表.ブルーの風船による空気彫刻,ブルーのパネルに花火を仕掛けた炎の絵画など,ヌーヴォー・レアリスム・グループの旗手として知られる.1962年没す.クラインブルーは,彼の使用した独特のブルーでIKB(International Klein Blue)と名付けた.


★65――ジェネラル・アイディア

1968に結成されたA・A・ブロンソン,フィリックス・パーツ,ホルヘ・ゾンダルの3人によるカナダのグループ・アーティスト.パフォーマンス,ヴィデオ・アート,雑誌『MEGAzine』の発行など,幅広い活動を行なった.


★66――デレク・ジャーマン

1942年イギリス生まれ.ブリティッシュ・シネマの鬼才.画家でもある.主な監督作品に『セバスチャン』『カラヴァッジオ』『ザ・ガーデン』等がある.また,デザイナーとしてケン・ラッセルの『肉体の悪魔』も手掛ける.


★67――「電話網の中の見えないミュ−ジアム」

1991年3月,日本における電話100周年記念とICCのプレイヴェントを兼ねて,関東1都7県で開催されたイヴェント.ヴォイス&サウンド,インタラクティヴ,FAX,ライヴ,パソコンの5つのチャンネルに分かれ,期間中,内外の約100名のアーティスト,作家などの参加者による「作品」(音声,音楽,ヴィジュアル作品,対談など)に,プッシュホン回線でアクセスすることができた.


★68――未来のテレフォン

「VRは未来のTVになろうとしているのではない.むしろ,未来のテレフォンになろうとしているのだ.そこでは他人の家のコンピュータと接続することによって,誰とでも同一の現実をシェアーすることができるという意味においてである」(ジョン・バーロウとのインタビュー『MONDO 2000』第2号より)


★69――ネグロポンテ

1944年,ギリシア生まれ.MITメディア・ラボラトリーの所長,メディア・テクノロジー研究者.『ヒューマン・インターフェイス』(日本経済新聞社等の著書がある.)


★70――フィリップ・K・ディック

SF作家.映画『ブレードランナー』(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』)や『トータル・リコール』の原作者として知られる.内的宇宙が創りだす多層的な現実がもたらす悪夢的世界を描いた作品が多い.


★71――『ヴァリス』

Vast Active Living Intelligence System の略.ディックの小説のなかで,VALISは,人間が打ちあげたものではない太古の人工衛星であると同時に,現代社会に介入する知的生命体とみなされ,ディックにとってこの新しい生命形式とは“神”のようなものであり,人間が内面に秘める“聖なるもの”と同一視されている.


★72――フラクタル

フラクタル理論:マンデルブロー博士によって提唱された理論で,不規則で複雑な自然界の様々な現象を,一種の関数を使って簡単に表現する.


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