ICC
IAMAS車輪の再開発プロジェクト研究会

[※47]マテリアライジング展Ⅲ http://materializing.org/15_about/

[※48]フィルム状の塩化ビニールで作られたレコード.7インチの大きさであることが多い.雑誌の付録などで多用された.https://ja.wikipedia.org/wiki/ソノシート

[※49]「オープン・スペース 2015」研究開発コーナーでの展示に合わせて作成された25冊の書籍からなるリスト(PDF 612KB)

[※53]Bruce Sterling. 2009. COVER STORY: Design fiction. interactions 16, 3 (May 2009), 20-24.

[※55]エドワード・ベラミー『顧みれば——2000年より1887年をかえりみる』山本政喜訳,岩波文庫,1953.

[※57]アンサンブル・モデルン演奏会&トーク,フリークアウト・ミュージック,水戸芸術館,1998年9月8日.
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メディア考古学をめぐって

金子:ツールの話に戻って,またメディア考古学の話をしたいんですが.

城 :プロジェクトのステートメントでは「メディア考古学を足掛かりに」って言っています.

金子:ええと,車輪の再発明の作品が,メディア考古学で語られるようなものとどう違うかを話しあっておきたいなと.

中川:違うんですか? 違うっていうか,違って当然ですよね.これは別に学問ではないんでしょ.

金子:それはそうですね.ただ僕と中川さんは学問側みたいな立場です.

中川:関わり方がよくわからない.とりあえず僕らは学問をしたらいいんじゃないの? 違うの? メディア考古学的に何かを研究するとか,そんなことを期待されているの?

城 :ひとつの期待としては,これらの実践を学問的にどのように位置づけられるのかということを,メディア考古学や,より中川さんの専門に近いところの聴覚文化論,音響文化論の知見と比べて論じてもらえたら,と思っています.

金子:話し合ってみたいのはメディア考古学自体ではなくて,フータモがよく論じる作家や作品と,車輪の再発明の作品を比べると何が見えるか,ということです.僕が思うに,デマリーニスの作品は今回の車輪の再発明の展示作品に近いものと,そうでもないものがある.たとえばアルス・エレクトロニカで賞を取った《The Messenger》[※40]という作品がありますね.電信が誕生したころの逸話をインターネットに重ねあわせた作品.

金子:電信の初期のアイデアには,電線の末端に人間を結びつけて,電気が走ると人間が叫ぶみたいのがあったとか.あれ,違ったっけ(笑)

中川:そんな作品あったっけ?

金子:《The Messenger》ではインターネットからデータを受信すると骸骨が音を立てます.

畠中:インスタレーション作品ですね.

金子:この作品はとてもメディア考古学的で,二つの時代のメディアを重ねあわせることで,過去を学びながら現状を見つめなおすという作品です.

中川:《ミュージカル・バスタブ》とかね.すごくメディア考古学的だと思うけど.

金子:どんな作品でしたっけ?

中川:エリシャ・グレイが発明したとかいう《ミュージカル・バスタブ》を復元したんじゃなかったっけ.バスタブを触ったら静電気が発生して音楽になるみたいな,楽器.見たことないけど.

金子:「グレイ・マター」っていうシリーズのひとつですね.

畠中:ICCでも展示[※41]しました.97年ですね.

城 :みんなお風呂に入ったんですか?

畠中:入ってない(笑)

中川:そうね,いいなあ(笑).そのときは僕まだ京都ですからね.

金子:「グレイ・マター」はたしか何作品かありましたね.「エジソン効果」と「グレイ・マター」があった.話を戻すと,デマリーニスには《Rain Dance》[※42]という作品もありますね.スピーカーの再発明みたいな作品.

中川:でも,あれは新しい発明だよね.

金子:《Rain Dance》の方が,いま車輪の再発明でやっていることに近いのかなあと思います.

中川:特許とれそうだけどね.

金子:《Rain Dance》が?

中川:違う,これ(紙のレコード).

畠中:たしかに《Rain Dance》はそうですね.ノズルで水の勢いを変えると音程になる.傘をさしてノズルの下を歩くと,歩くのにつれてシュッシュッと水が噴射される.そのノズルの開きを調節していて,歩いていくと「雨に唄えば」だっけ? が演奏されるという.

城 :何曲かあるんですよね.

中川:すごいよなあ.

城 :電気と磁気とで膜を動かす代わりに,水滴を落とす密度の違いで傘の表面を振動させるんですよ.実際聴いてみると音質はそんなに良くなくて,みんなが聴いたことのあるようなシンプルな曲が多い,と言うかシンプルな曲じゃないと認知できない.

中川:音程が調節できる?

城 :調節できます.1秒間に水滴を100個落とすのと90個落とすのとで鳴る音が変わる.

中川:そういう仕組みなんだ.

城 :PWMという電圧制御の仕組みと似ていると思います.密度を上げると音程が高くなる.だから,鳴っている時に傘を引くと,ドップラー効果で音程が低くなるし,上げると高くなる.

金子:《Rain Dance》がなんで車輪の再発明に近いと思うかというと,《The Messenger》と比べて,ツールをつくっているという印象が強いからなんです.《Rain Dance》にも背景として過去のエピソードがあって,とてもメディア考古学的な作品ではあるんですが.この方法を使って別の作品をつくろうと思う作家もいるんじゃないかなと.デマリーニス自身《Rain Dance》は何ヴァージョンか作ってますね.ゲーム音楽みたいな曲がよく使われるようになったのは,彼がこの作品をずっと聴いてて,電子音に聴こえると思いついたからなのかなと.

城 :電子音に関しては,多分そのような音しか結果的には使えなかったんじゃないですかね.

金子:それはそうですね.

畠中:だってビニール傘じゃなかったっけ?(笑)

城 :ピンと張ってないと鳴りづらいんですよ.

金子:曲の文脈から考えると「雨に唄えば」でいい.音質から判断するとゲーム音楽みたいな曲が合っている,とか考えたのかなと.

城 :そんな気がしますね.

金子:スピーカーの膜と傘の膜を重ねあわせるのが面白いところで,じゃあまた別の膜だったらどうなるだろうと想像しますよね.または水じゃなく別の液体とか.そういう展開が期待できるところが,車輪の再発明の展示作品との共通点だと思うんです.《The Messenger》はどちらかというとコンセプチュアルというか,スペシフィックなものが強調されているように見えますが,《Rain Dance》はツール寄りに見えます.

畠中:《エジソン効果》[※43]なんかでも,ふつうに蝋管に刻まれた音をレーザーで読むものもあれば,金魚鉢にレーザーを投射して,金魚がレーザーをさえぎると音がするのもあるじゃない.そうすると,後者の方が《Rain Dance》に近いですよね.

金子:ありましたね.要するに,メディア考古学が参照する作品にはいくつか別の傾向がある.そのどれが車輪の再発明に近いのか,と考えてみるのは面白いと思います.メディア考古学ではパーソナル・ファブリケーションは特に重視されていませんが,ツール寄りの作品はパーソナル・ファブリケーションと結びつきやすい.

畠中:そういうものを基盤にして出てくる発想だよね.

城 :確かに《Rain Dance》と紙のレコードは似ていると思います.音質があまり良くない,というところも(笑).

金子:《Rain Dance》はスピーカーの再発明.

城 :ただ,似ているが故に,単にポール・デマリーニスの後を追っているだけ,にはならないようにしたい.

中川:会いに行こうよ.

城 :来年呼びましょう!

インストラクションを撒く

城 :「技法」といっている部分に話を戻すと,僕としてはこれをある種の見せ方とか位置づけの仕方の問題だと捉えています.作品として,コンサート・ホールで上演するとか,美術館で見せる,というので留めるのか,そうではなく意図していない使われ方までを許容する,受け入れるのか.この後者の考え方と,パーソナル・ファブリケーションとは親和性が高いんじゃないかと思っています.確固たる意図のもとに作られたものだけが正しい作品であって,それ以外は評価されるものではない,とかではなく.とはいえ,インターネットで公開すれば,それを見て誰かが真似たり,連絡が来たりするかと言ったらそのようなことはないのですが.でも,今プロジェクトの中で新入生の学生に,このレコードの技法とクワクボさんの網点の技法とを自分なりに解釈して,僕らがやっていないものを作ってきてください,と課題を与えています.ここからは何か面白そうなもの,「あ,そんなのあったか!」みたいなものが出てきそうな感じです.

金子:ひとつのメディアにとらわれず,さまざまなメディアや素材をひとつの作品のなかで組み合わせる方法はすでに一般的で,「ポスト・メディア」的作品と呼ばれたりもします.INOMATAさんの展示もそうなのかなあ.あえてそうすることで,コンセプトや物語を浮きあがらせるようとする.そういう方法と比べると,城さんが考えている展開はメディア自体にこだわりつつ,でもツールの固有性よりツールがどんどん変化していくこと重きを置いているのかなと思います.

中川:それは,誰が重きを置いているんですか?

金子:僕が,城さんの作品を見たり話を聞いたりしてそう思う.

中川:城くんが重きを置いているということ?

金子:あくまで僕がそう思うわけですが.

中川:ふーん.

金子:城さんの《紙のレコード》も展示ごとにどんどん違ったかたちになりますよね.

中川:城くんはそういう展開を探っているの?

城 :面白いとは思っているのですが,自分でやり続けるというのはどうなんでしょうね.

金子:レコード型でなかったり,ターンテーブルを使わないとかもできる.

中川:僕が生成音楽ワークショップへの関心を持続させているのは,基本的にはワークショップをするからです.ワークショップをするということは,ツールを提供すると言ってもいいけど,学生が共有できる体験を提供してくれるってことですよね.アーティストが自分個人で完結する作品を作るってんじゃなくて,他の人が共有できる何かを作るためのツールを提供してくれている.それがおもしろいです.車輪の再発明プロジェクトのなかでも,学生と一緒に,似たような方向性でも全然違うことを,やたら数打っていけばいいんじゃないかなと思います.

城 :つまり,僕らがいまやっていることは正しいと?

中川:うん(笑).城くん個人がどうこう展開していくというよりは,人にどうさせるかということを考えたらいいんだろうなと思います.

金子:城さんが学生と一緒にやっていることですね.

中川:そういうことの方法論の理論化を期待されているの? 僕らは.たぶんそうなんだよね.僕ら作家じゃないもんね.

城 :そうですね.今まさにやっている実践を体系づけて論じてみたいと思っています.

金子:生成音楽ワークショップのときから実践と理論を並行してやってました.

中川:それは具体的実際的には,説明書を作るということ? 「車輪の再発明をする方法」とかタイトルがついていて「1,なになにをする,2,なになにをする」みたいな,そういう説明書を作るということですか? 2年後.

城 :うん,極端に言えばマニュフェストのようなものを作るというのも一つのあり方かな.

中川:だとすると「紙のレコードはツールである」という認識で始まったほうがいいですよね.

城 :ただ説明書ありきの実践になると,そこから新たな試みは生まれづらくなるので,まずは実践を進めて,それを事後的に説明書の形に落としこめたらいいかな.

金子:アドホックの,一時的なインスタラクションというか.

城 :一つ作って終わり,というわけではなく,都度アップデートできたらいいですね.

中川:作品ごとに作ってみたらどうですか?

城 :ただ,作品というか技法ごとの切り分けがなかなか難しくて.とはいえ,単純なインストラクションという形では「紙のレコード」の作り方[※44]は作っていますね.

中川:もう一個メタレベルを上げてみたら?

城 :他の人がこの技法を使って作ったものが出てくると,俯瞰してみることができそうですね.

中川:城先生のものを教科書にしてみたらどうですか?

金子:IAMASで学生とやっていることは,そういうことでしょ?

金子:できればたくさん教科書があるといいですよね.城さんの作品が特権的にならないように.

中川:そんなんあったらおもしろそうだと思います.

金子:そうですね.固定しないでどんどん変えていければ,なおいいですね.

中川:なんかそういうのって,言葉に直したら必ず一面的になるけど,一面的になるのは当たり前のことだし,まずは,なんかマニュアルみたいに書いてみたら?

金子:それはいいと思う.

中川:「こんな考え方をしたら紙のレコードが作れます.紙のレコードという画期的なものが作れます」って書いたら?

城 :たぶんもう少し実践が必要な気がします.それをやるために.

中川:そうか,例がないんだ.

城 :レコードという一つの例だけでマニュアルを書くのはなかなか抽象度が高く,難しい気がします.でも最終的にはそこまでやりたいですね.

中川:なるほどね.

金子:事例が複数ないと,紙のレコードが作品然とし過ぎてしまうかも.

城 :その意味で,クワクボさんや瀬川さんの取り組みも含めて車輪の再発明として考えられるといいなあと思うんです.

レコードを再発明してしまう

畠中:紙のレコードって作品然としているかな?

金子:どうでしょうね?

畠中:たとえば,レコードというものの素材が問題になるとする.では,八木良太の氷のレコードというのは?

金子:八木さんの《Vinyl》[※45](2005)ですね.氷という素材には強い意味がありますね.氷だから消えてなくなるとか,そういう意味が作品の重要な要素だと考えています.《紙のレコード》は,紙じゃなくてもいい.

畠中:でも誰でもやろうと思えばできるよね.お気に入りのレコードを氷にして自分で氷の音楽を.

金子:そうですね.その意味では,一品物の作品とはまったく違う存在感があります.

畠中:紙のレコードって,やっぱり技法的な部分が色濃いですよね.

金子:《Vinyl》も,八木さんの作品全体のなかでは技法的な性格の強い作品だと思います.

畠中:そういう意味では,紙のレコードは技術という側面がすごく強いと思う.なんでかというと,音を転写する方法という意味では単に型を作って氷をつくるというのとは,ちょっと違う.やっぱり紙に音を刻み込む技術というのが発明されているから.それはやっぱり新しい手法だったんだと.その手法を元になにか表現するというフェーズにどう向かうか.たとえばあの紙の「モホイ=ナジ・ラースローに捧ぐ」という名前をつけたら作品になってしまう.名前がついてなかったら,もうちょっと作品とは思わないで,なにか汎用性のある誰でも使ってもいい開かれた技術と思うかもしれない.だけど紙のレコードになぜその名前をつけてしまったのか.

城 :それはすごく意図的にやっています.キャプションでも「技法」と「作品」というふうに分けて書いていますし,今回二つの作品を出品している意味もそこにあります.両者は,Adobe Illustrator上で波形を描くという,同一の技法を使っているのですが,でも作品としては違うものとして別々のタイトルをつけています.各々の作品としての位置づけも異なっていて,たとえば《断片化された音楽》と名づけたアクリルを弧に分割した作品では,ミラン・ニザのブロークン・ミュージック[※46]の話をキャプションに書いている.僕としては作品が複数あるというのは重要で,一つしかないと技法=作品となってしまいますが,同じ技法を用いたものが複数提示されていれば,そこには提示されていない別種の可能性まで想像が広がるんじゃないかと思っています.その意味では,今後のICCの展示のなかで学生の作品などを通じて,技法としての紙のレコードのさらなる展開を見せていきたい.並行して技法がこの紙のレコード特有のものとは思われたくはないので,クワクボさんや瀬川さんの写植や網点も技法として位置づけて,技法と作品が一体化しきらない,必ずその技法からいくつかのバリエーションができるということを見せていきたいと思っています.

畠中:そうすると,マテリアルは関係ないことになってしまう.波形を刻めればなんでもいい.だからマテリアルの問題じゃなくなってきていて,紙とかそういう話ではないと.音をデジタルで波形という形にして,Illustratorで溝にして刻める,という技術のことなんだよね.

城 :そう思っていたんですけど,このあいだ実はそうでもない,という経験をしました.蓄音機で紙のレコードを鳴らそうと思ったら,蓄音機って電気を使わずに機械的に音を出すので,針の圧力が100倍くらい高いんですよ.ターンテーブルが1.5gぐらいなのに対して蓄音機は120gとかあって,針を置くと回転が止まってしまう.紙だけじゃなくMDF(成型材)やアクリルといった今まで使っていたマテリアルは全部摩擦で止まってしまう.堅い木ならどうだろうと思って,黒檀でやってみたら多少すべるんですけど,でもやっぱり途中で止まってしまう.

畠中:それおもしろい話ですね.

中川:へえ.

城 :最終的に行き着いたのが,アルミニウムの表面を加工して色をつけたアルマイトというマテリアルです.色がついている部分に数十ミクロンの層ががあって,その部分だけはレーザー加工ができるんです.ただその厚みだけでは針が載らないんですよ.アルマイトには溝は刻めるんだけど針を乗せると滑ってしまう.そこで,針を載せるためにアルマイトの上にラッカースプレーを吹いて,その状態でレーザーで溝を刻みました.そうするとアルマイトが切れた溝の脇に,雪の道の壁じゃないけど,0.数ミリのラッカーの壁が立ってくれる.そこに針を載せるとラッカーに支えられて溝に沿って動き音が鳴る.ただ,このアルマイトの上にラッカースプレーを吹いたものは,アルマイト盤と言われているレコードの原盤とほぼ同じ仕組みで,いわゆる「車輪の再発明」をここですることになってしまいました.

中川:おめでとうございます(笑)

城 :それを京都市立芸術大学のギャラリーで展示[※47]したのですが,その際に京都市芸で蓄音機を研究している研究室のスタッフの方が見に来てくれて,僕はその現場にはいなかったんですけど,担当の学芸員の方から聞くには,「なんで原盤をかけているんですか?」という話になったと.だから,蓄音機を専門にしている人たちの目から見た時に,これはいわゆる彼らが普段目にしているレコードの原盤と認知されてしまったということがありました.

中川:ええ話やなあ.

城 :うまく言葉にしづらいんですけど,一周りしてなんか嬉しい.

中川:ええ話なのかな?

城 :よくわからないんですよ.でもいい話なんだと思う.

金子:もしかすると,こういう作品を作りつづけていくとよく起こるのかも.

畠中:そうだよね,結局,原理的なところに到達しようとしていくわけで.どうやったら針が載るんだろう,蓄音機に載せられるんだろう,と.そうしたらすごくエッセンシャルな問題に立ち向かわざるをえなくて,そうしたらそれは当然,原盤をカットするような方法にぶちあたる.

城:蓄音機という,いま一般的に認知されているレコードの原点に近いところまで戻ってみると,誤用とか逸脱をしようとしても,それを許さないくらい合理的に作られていたということは言えると思います.

畠中:そこがメディア考古学と違うところの明確な線引きになるんじゃないか,って気がする.メディア考古学と言われている作品って,おそらくひとつには「再発見」という要素が大きいよね.過去にあったメディアの再発見を行なう.その再発見された廃れたメディアを,ある種再利用するようなかたちで復活させるみたいなやり方がある.そうすると,そもそもが再利用なわけなんだ,アイデアの再利用になってくるわけだから.そうすると,それを原理的な部分でもう一度作るみたいな,今みたいな蓄音機に載らないという問題は発生しようがなくなってくるわけだよね.

金子:ツールとして使えるか,有用性を追求していくと,収斂していく.

畠中:そうそう,それがたぶん車輪の再発明とメディア考古学の違うところで.車輪の再発明が陥りやすいトラップみたいなものでもあるのかなと.

金子:トラップだし,そのプロセスがたしかにおもしろいですね.出発点がぜんぜん違うので,再発明していると言っていいかわかりませんが.

畠中:その罠にはまったというのが,実はこのプロジェクトの性質を表わしていると思う.

城 :さきほどの中川さんの提案のマニュアルに即した形で言うと,車輪の再発明を原点でやろうとしちゃいけないというのが,一つ言えると思います.メディアによってその時間はまちまちだと思いますが,原点から時代を経てそれなりに多様性が出てきた状態のものを,今ある何かと組み合わせて改変したり,誤用していくというやり方の方がうまくいきやすいんじゃないかな.

畠中:ただそれって,紙のレコードみたいにこれを使って何かやろうというものにはなりにくいのでは.

城 :でも紙のレコードはまさに100年経ったレコードを誤用してみたものなんですよね.

畠中:そういうものを,さっき言ったようなトラップにはまらないようにやっていこうとすると,やっぱり実用性とかからはかけ離れていく.メディア考古学的なアプローチって,実用的なところとはちょっと乖離があるような気がするんですよ.

金子:そうですね.

畠中:実用でなくてもいい,そもそも実用されることを目指していない.だけど,もしそういうものを目指そうとするとやっぱりさっきみたいなことに陥ると.

城 :実用を目指していても,十分に原点から距離があれば,別の流れというのを作りやすいんじゃないかなとも思うんですよね.距離がある分,少し角度が違うだけでもその差は大きなものになるんじゃないかな,と今は思っています.

中川:むしろ城くんが発明してしまったものは,従来のレコードではないことが明確になったんじゃないの?

畠中:それ言ったら,ソノシート[※48]は蓄音機に掛けられないわけだ.

中川:そうだ.

城 :塩ビで出来ている普通のレコードも蓄音機では再生できないんですよね.

畠中:ということになるわけじゃない.ということは,ソノシートも紙のレコードもターンテーブルというものが発明された後に出てきたメディアなわけですよね.

城 :そのことがすごくわかりやすくはなりましたよね.紙のレコードによって.

中川:音響メディア史的な重要性が.

発明をめぐる物語

金子:再発明のプロセスが物語としておもしろいという話で思いだしました.ちょっと話が拡がりすぎそうなので,次回にした方がいいかもしれないですけど.「車輪の再発明ブックリスト」[※49]を作ったときに,松井さんと中川さんは今日話したような情報なしで,いくつかの作品だけを見ただけで選んだわけですね.なのに,二人がつくったリストは共通点があったと思います.それは,仮の架空の歴史や物語をつくるという発想です.『ドラえもん』が挙がってましたよね.

畠中:ドラえもんなんだ.

金子:松井さんのリストにも,作家による歴史という説明がありました.こういう議論は,いままで僕と城さんとではほとんど話してなかったんですが,重要な議論ですね.ひとつのツールができるプロセスの歴史,それが使われる物語とか,いくつかのツールがネットワークのように結びついて歴史や物語が作られるとか.さっきの話に戻ると,レコードの原盤がどういうものかを城さんはもちろん知っていたけれど,気づいたら原盤にたどりついてしまった.

城 :原盤の仕組みは知っていたけど,それは再発明するのはなにか違うんじゃないかな,と思ってその存在は極力無視していましたね,最初は.

金子:そう思ったのは,《紙のレコード》ができていく物語のなかにそれまでレコードの原盤が出てこなかったからかもしれない.それと,レコードというメディアの歴史の側でも,やっぱり表に出るのはレコード自体でありターンテーブルであり,原盤は陰に隠れている……なんか話だけ先走ってしまって申し訳ない(笑)

畠中:松井さんは何を挙げたの? 『インターメディアの詩学』と.

松井:磯崎新『手法が』と,中ザワデヒキ『西洋画人列伝』,あと岡﨑乾二郎『芸術の設計』,松平頼暁『20.5世紀の音楽』.これらを選書したのは,作家自身が,現在の自分に関わる技法,手法,方法と言われるようなことを整理した,歴史書を偽装していると思うんです.内容が嘘だということではなくて,技法書なんだけど歴史書の体裁をとっているという意味です.それで,技法を整理して,個々のアプリケーション,モジュールと言ってもいいのかもしれませんが,そういう紹介を歴史的に書いている.そうやって作家たちが手の内を明かしながら自分のジャンルを解体して,他の領域と再編しようとしていると僕は読んでいます.重要なことは,アプリケーションとすることで,それぞれのジャンルから自立した機能にしてみせているように読めるということ.

さっきのオヴァルの話もそうなんだけど,作曲技法をプログラム言語やアプリケーションに置き換えていくことによって,サウンド・ファイルとして楽曲と考えるのではなくて,楽曲はアプリケーションやモジュールになっていくのではないか? と,勝手に解釈していたんですね.つまり,前述の作家たちも,それぞれの領域で,従来の作品概念を解体,再構築するためにこれらの本を書いたと見られる.音楽に関していま一度言えば,作品は聴くものではなく,作曲にも近づいて改変可能になるというか,ある程度いじりながら,生成的に演奏しながら聴取される,みたいなこともありえるだろう.すると音楽という領域が解体されて,新しい作品概念が再編されるのではないか? 雑な議論ですが,そんなことを考えたわけです.で,それはデジタル・ファブリケーションの話が出てきたときも,僕にとっては同じことだった.

金子:音楽生成ソフトウェアのKoan [※50]みたいなやつですね.

松井:作品とか作家性の意味がそうやって変わるんじゃないかと,期待しつつそうならないという.最初に言った,ファブのことをテキストで書いたときにも考えていたのはそんなことだったんですけどね.難しいですね.それで最近はまた保守化しているかも(笑)

城 :なかなかね.

松井:そういう意味では,車輪の再発明として,技法といったり,アプリケーションを公開していくということで,音楽という領域を切り崩していくことを考えたい一方で,「城一裕個展」というような形で作品で提示するほうが,状況を変えるのかもしれないと思ったりもしているわけです.僕が決めることじゃないですけどね.

生成音楽ワークショップでライヒの《振り子の音楽》の再演ってありうるんだ,という気づきには,すごく新鮮なところがあった.何を考えたかというと,従来の作品概念では楽曲と技法というのは,不可分なはずだと考えるわけですが,これを自立させて,各人でやってみよう,改変してみようという提案ですよね.——楽曲ということにつきまとう作品概念は,そんな雑な言い方でかたづけてはいけないことはわかってますが,あえて乱暴に言えば——楽曲の固有性よりも汎用性に着目して,アプリケーションとして取り出しているようにも見えるわけですね.

このあたりが,やはり再発明において重要で,歴史を別の角度から解読する.さらに言えば,ジャンルを解体して再構築するということに関わっていると思うんです.抽出したアプリケーションの系列を,時間軸上で遡ったり,未来に向けて伸ばしたり,まぁ,そういう作業ですね.ま,圧倒的な作品を作るのだ,ということではないけれど,自分の作品だとか,個展とか言ってしまうと見落とすことになる,沃野があるようにも思います.

僕が挙げた5冊の本は,それぞれの作家にとって,作品とは違うこうした沃野を扱っているような気がするんですね.

金子:そういう話はすごく考えさせられます.城さんがあらためて原盤をつくったのは,正統なレコードの歴史とは別のところから出発したからこそ,そういうことになる.それでまた,城さんが車輪の再発明をしたプロセスが,ひとつの別の歴史や物語になる.そういうかたちでどんどん,陰に隠れていたり僕らが忘れていったりしたものを掘り起こしては,別の歴史がいくつもできていく.それが蓄積されていくというようなことが,プロジェクト全体を通じてできるといいなと思うんです.

松井:そういう意味では,僕があげた本の歴史というのは,作家が現代の自分自身を位置づけているために書いている歴史であって,研究というよりは,制作に近いものだと思うんですよね.偽史とは言わないけれど,作品のための歴史であり,作品としての歴史書.自分のための歴史ということが制作に繋がっている人たちは面白いですね.

畠中:誰かから見た歴史って全然あってよくて,それぞれの誰かからみた歴史があるべきだと思う.

特に今だと時代がイズムの転換みたいなふうには移り変わっていかなくなっちゃったので,それこそ複数の歴史になっているから,誰がどういうふうに編纂していくことの方が重要になってきちゃった.

城 :それはおもしろいですよね.

金子:歴史という言葉はちょっと重たいですけど…….城さんの場合だと「あ,これ忘れてた」とか,「そういえばそうだった」みたいな発見が,歴史とか物語をつくるプロセスの一部なんですね.だからそういう偶発的なもの,「あー忘れてた」みたいなところから始めるのがいいのかなと思います.

城 :たしかに松井さんがおっしゃるように,作品と作家性との関係については,このプロジェクトはなんらかの貢献ができそうです.アプリケーションに関しては,生成音楽の説明の時にも触れましたが,iPhoneの初期のアプリにブライアン・イーノのBloom[※51]やRjDj [※52]というものがあって,この原点はどこにあるんだろう,知っておかないとまずいでしょ,と思ったのが.

金子:生成音楽ワークショップのきっかけのひとつですね.

松井:あれらはアプリケーションとして革命的だったね.逆に言えば,未だにあれ以上の生成音楽のアプリはないでしょう.

城 :生成音楽がようやくポータブルになった!と思って,Appストアという売れるマーケットまでついているから,これからの音楽はもうこの形でしかないだろうと思ったんです.その中で僕らとしては,生成音楽アプリをつくるよりも,その原点を掘っていくほうが良いかなと思って始めたのですが,世の中は思ったよりもついてこない.

畠中:でもOvalprocessもそうだったけど,Bloomみたいなのも,ほんとうに70年代からやっているわけですよね.だから,自動生成の音楽というのはもうアイデアとしてあって,でも決定版としてイーノでさえアルバムとしては2,3曲しか出していない.それはなぜか.だからオヴァルってOvalprocessのあとなにかやっているかと言ったら,やっていない.それは作家性が消滅したのではなくて,結局決定版的なものは自分しか作れないという,むしろ作家性を強化するためにあったとも言えて.

金子:そのツールは実は使っているんだけど見えない,という場合のほうが多いとは思いますよ.

畠中:もちろん.でもそれはそれ自体が作品化されることはなくて,結局それが本当にツールとして,ある音でもある環境でもなんでもいいんだけど,そういうものを作るために使われる道具になるっていうことだよね.機材の一つみたいな.

金子:そうですね.メディアやツールは透明になる.でも,そこでそのツールが作られたり使われたりする物語があるとまた違ってくるかもしれないです.それで,メディア考古学の発想と,『ドラえもん』みたいな架空のツールの物語を,車輪の再発明のなかで重ね合わせるのが面白いんじゃないかと.

金子:架空の物語としてつくったら,実は本当にあったことだったとか,物語が作られた後に実現したとか,そういうこともよくあります.

中川:すごいシンプルに話すとさ,歴史って人が語るものじゃないですか.メディアのメインの使われ方というのは,なんとなしに誰かが決めたわけじゃなく,なんとなく決まって社会的に受け入れられたものでしょ.技術が社会的に人々に受け入れられたメジャーな形態がメディアなわけでしょ.そうじゃないメディア・技術の使われ方を探りたいとなったら,過去の発明された時点とか,昔の技術の使われ方を考えるのが手っ取り早いでしょ.

金子:技術の使われ方が定まっていなかった時点ですね.

中川:ってことは,メディア考古学的なアプローチをすると,たぶん,レコードと後に言われるようになる技術の変な使われ方とかも出てくるだろうと思います.で,そういう想像力が一番出てくるところはSFですよね.レトロ・フューチャーな想像力とかおもしろいんじゃないかなと思うわけ.だからやっぱりドラえもんとブルース・スターリングと大阪万博と東京オリンピックとか考えるとおもしろいなと思うんですよ.

金子:東京オリンピックもおもしろいんですか?

中川:東京オリンピックは違うかな? 大阪万博かな,日本だったらね.

城 :もちろんSFはその一つだと思います.ただ,モホイ=ナジのエッセイが端的に表わしているように,もう少し現実に近い,空想として書かれていないものも僕は面白いと思っています.とはいえ,近いところだとデザイン・フィクションの提唱者[※53]の一人ブルース・スターリングはもともとSF作家だったりはしますが.

松井: デザイン・フィクションとかクリティカル・デザインとか,あのへんの流れって車輪の再発明と被る部分はあるでしょう?

城 :被ると思います.

畠中:クリティカル・デザインは,遠くない未来に実現するかもしれないけど,いま作品としてちょっとでも技術的にであれ,現実にかすっているかというと,そういうわけでは必ずしもないですよね.フィクションとして提示する.だからこそクリティカルだというところがあるわけで.

城 :そこは差別化したいところです.

金子:クリティカル・デザインは,実現可能性は問わないことで,ひとつのデザインに対して一般的には無関係に見えそうな社会のいろんな要素が将来的に関わってくる,というところにおもしろさがあると思っています.車輪の再発明はどちらかというと過去志向というか,歴史志向と言えるのかなと僕は考えているんですが.

中川:でも再発明の考え方はそんなに決まっていないでしょう?

金子:そうですね.車輪の再発明というよりは,城さんの作品をそういうものと考えています.

城 :僕としては過去とか未来よりは今,本当に動くものを作っていきたいと思いますね.

畠中:たとえば ロビダの『20世紀』[※54]という本があるけど,あれとか見ると,19世紀から見た100年後の世界が描かれているんだけど,そこに出てくるのが,いまで言えばスチーム・パンクの世界なんだよね.つまり今から見たら100年前のテクノロジーを無理矢理未来に展開しているわけです.19世紀に書かれた20世紀の本,100年前に100年後のことを描いた本なの.そこに出てくる世界がスチームパンクの原点なんじゃないかと思う.

金子:スチーム・パンク自体が,ありえたかもしれない別の未来ですね.

畠中:なんか19世紀のまま未来になっちゃったっていう感じだよね.古いテクノロジーのまま,デジタル化とかを経ないで未来になったらどうなるか,というか.

中川:それは何年の作品ですか?

城 :1880年代って書いてあります.

中川:80年代.じゃあベラミー[※55]と同じですな.時期が.

おわりに

城 :そろそろ時間になりますが,いくつか論点が見えてきた気がします.その中でも,最後に松井さんの話で出てきた,作品という概念,作家性の持つ強さ——これは端的にBloom以降に生成音楽アプリが出てきていないことに現われていますが——は考えていきたいですね.

松井:ブライアン・イーノの作家性,作品性の強さと,生成音楽アプリの相性みたいなことをどう考えるかですね? ある意味ですべての生成音楽アプリがイーノの作品に見えてしまうとかね.

城 :でも作品として作ってしまうことで,その呪縛から逃れられなくなるんじゃないかという危惧もあります.

畠中:もっとたくさん作ったらいいじゃない.

城 :確かに.

松井:みんなが作ったからといって何かが起こるというところは,別の話ではないかと思えてしまうんですよね.裾野が作るシーンと,傑作が作ってきた歴史の対比というか.

城 :ただ,僕だけが作っていると《エジソン効果》になっちゃうんじゃないかっていう.

松井:うーん,なっちゃうか(笑).僕は変化を体験したいとは思っているんだけどね.

城 :作品概念はあまり変化しないままになってしまうし,作家概念もあまり変わらないことになってしまいますよね.

松井:他方で,城さんによる傑作を待ってもいるんです,僕は,その上で,追随者のシーンができるのだろうと考えちゃうんだけど,クラシックな図式であることは自覚しますよ(苦笑)

畠中:逆に言ったら,じゃあ「俺もやってみよう」でできる話なのでは?城くんと全く関係なく,断りなしにじゃんじゃん作れる,というものでもあるんじゃない?

城 :それでもいいんです.例えば美術の枠ではなく,デザインとか工学の世界でこの話をして,それがどう受けとめられるのかっていうことには興味があります.あまりやられていないような気もするし,僕自身ごりごりの工学は専門外ですけど,出自としては多少なりとも関連しているので.

畠中:技術は解放されていて,誰がなにをやってもいいんだけど,でもじゃあ仮に城くんがこれから音楽家としてデビューするとして,一切コンピュータとか使わないで,作品を全部紙のレコードで作ります,と言ったら強烈な作家性になるわけでしょ.これがメディアでこれがスコアでこれが作品そのものです,でもいいわけでしょう.

松井:生成音楽的な概念って,大学のようにアカデミズムで扱うだけじゃなくて,バンドやろうぜ,くらいのかたちで受容されるようなところに出していけないでしょうかね?

城 :そこは考えていきたいなあ.

中川:コンロン・ナンカロウ[※56]みたいにさ.メキシコに亡命してさ,晩年までずっと人に知られず気づいたらずーっと自動ピアノの作品を作っていたという,紙のレコードだけ作っていたら……

城 :それはつらいよなあ.

金子:自動ピアノの作品は大好きですけど.

城 :ナンカロウおもしろかったのは,アンサンブル・モデルンが手で弾く[※57]っていうのがおもしろかったですけどね(笑)

中川:手で弾いてくれるかもしれんね,誰かが.

城 :藝大のね,版画の人とかが手で削って(笑).それやれたらいいですけどね.

松井:やれそうで,こわいというか,すごいというか(笑).

城 :彼らはできると思いますよ.

中川:米粒写経くらいの感じでできるかも.

城 :コンピュータの精度なんて粗いって言って.

中川:はあ,すげえな.

金子:えーと,じゃあもうひとつだけ.自動ピアノで思い出したんですけど,城さんのこれまでをずっとたどると,創作楽器をつくっていたと言えないですか.SWOでもAEOでも.

城 :はい.

金子:じゃあ《紙のレコード》は創作楽器と言えるのか,なんてことを考えてみるのもおもしろそうです.創作楽器というもの自体がかなり捉えがたいものですが,今日の話を創作楽器の話として考えなおすのもいいかも.

城 :その場合は,その楽器を使ってどのような音楽を奏でるのか,という問題を考える必要がありますね.楽器という点から考えると,音楽までを含めないと中途半端なものになってしまう.これは僕自身パフォーマンスとしてこの技法を実演するときの課題でもあります.

【おわり】

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