ICC

「ポスト・インターネット」の質感
水野勝仁(インターフェイス論)

「ポスト・インターネット」を巡る言説は、ルイ・ドゥーラス Louis DOULASの「ポスト・インターネットのなかで|パート1(Within Post-Internet | Part I)」(★1)で簡単にまとめられている。

「ポスト・インターネット」という言葉は、2008年にアーティストでもあり、批評家・キュレーターでもあるマリサ・オルソン(Marisa OLSON)がインタヴュー(★2)の中で言ったことがはじまりとされる。そこでオルソンは「作品を作るのにテクノロジーを使っているかどうかもはや区別をつける必要はなく、結局すべてはテクノロジーであり、誰もがすべてのことをするのにテクノロジーを使っている」と言ったあとに、そうした状況で(彼女が言うところの)「ポスト・インターネット」アートと呼ぶべき作品を作り始めている人がいると続ける。そして重要なのは「インターネットは文化全体に影響を与えたのだから、その影響はオフラインにも及んでいるべき」だとしている。ここにはインターネットはすべての人に影響しており、オンライン/オフラインの区別は無効であるという意識がある。

ドゥーラスが次に取り上げるのはニューヨークの批評家ジーン・マクヒュー(Gene McHUGH)である。彼はオルソンの言葉をタイトルに据えた『ポスト・インターネット』というブログを2009年12月から2010年9月までのあいだ、アンディ・ウォーホル財団からの助成を受けて書いている(★3)。そのブログでマクヒューは、インターネットはもはや目新しいものではなく、平凡・陳腐なもの(banality)になったとしている(★4)。ドゥーラスは最後に、アーティ・ヴィアーカント(Artie VIERKANT)が2010年に書いたエッセイ「ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト(The Image Object Post-Internet)」を取り上げる(★5)。ヴィアーカントは「ポスト・インターネット」では、作家性がユビキタスなものになり、それゆえに作品への注目を集めることが重要になっているが、それはインターネットによる物理空間の崩壊とデジタル化したオブジェクト=イメージ・オブジェクトが示す無限に近い複製可能性と可変性が関係していると指摘している。

以上のようにドゥーラスは「ポスト・インターネット」を巡る言説を辿って、それぞれの違いはあるけれど、それらは変化し続けるインターネット社会の中での新しいアートの定義を示しているとしている。ドゥーラス自身は「ポスト・インターネット」というのはカテゴリーではなく、状況・条件(condition)だと書いている。

「ポスト・インターネット」は、現在私たちが生きている状況に即した作品に対して与えられている名前ということになるのだろうか。もしかしたら、それは作品だけではなく、現在の時代そのものを示しているのかもしれない。現実があり、インターネットがあり、それらが整然と区別されているのではなく、オンラインとオフラインが入り混じった状態にあるポスト・インターネット時代に、私たちは生きている。だから、この入り組んだ状況に意識的になることが、インターネットとアートのこれからを探るためには重要になってくるのである。

ポスト・インターネット時代のアートを読み解くひとつのヒントとして、ネット・アーティストのガスリー・ロナガン(Guthrie LONERGAN)の提唱する「インターネットを意識したアート(Internet Aware Art)」を挙げることができるだろう。この言葉は「(アートはまだだけど)インターネットについてはみんなが意識しているという皮肉でもある」と、ロナガンが後にコメントしているものである(★6)。しかし、ロナガンがこの言葉に関連づけて真に言いたかったのは、インターネットによって「オブジェクトではないオブジェクト」が現われてきているということである。彼はオフラインにあるTシャツや本、テキストといったインターネットとは関係しないようなものを意図的に強調することで、それらがもうインターネット以前と同じようには存在していないということを示そうとした(★7)。アーティストのトム・ムーディ(Tom MOODY)はこの言葉を受けて、ロナガンとは逆の意味になるが「ブログは小説のようだがそうではない。それは新しい創造物なのだ」と書いている(★8)。彼らの言葉を理解するには「インターフェイス美学」を提唱するセーレン・ポルド(Søren POLD)が、コンピュータが作り出すイメージはメディアでもあり道具でもあるというキメラ的(複合的/多義的)な性質をもっていると指摘していることが関係しているかもしれない(★9)。つまり、コンピュータやインターネット以前は「オブジェクトはオブジェクト」「イメージはイメージ」と「AはAである」としか言えなかったものが、それらの登場以後、ロナガンの(実際の物体として存在しえない)「オブジェクトではないオブジェクト」や、ヴィアーカントが示す「オブジェクトでもありイメージでもあるイメージ・オブジェクト」といったこれまで矛盾するとされていた関係や要素がさまざまに融合して存在するようになっていると考えられる。このことからポスト・インターネット時代のアートは、今までは考えることができないような要素が結びついた事象が溢れている世界を対象としているといえるだろう。

最後に、これまで「ポスト・インターネット」という言葉を使ってきたが、インターネットは終わったわけではない。けれど、それはオルソンやマクヒューが指摘するように特別なものではなくなりつつある。インターネットでの行為は現実とは異なるにも関わらず、わたしたちは、そのようなことは考えず「現実」の続きとして受け入れて、ツイートし続け、友達を作ることに慣れていっている。しかしこのプロセスは、インターネットが「オブジェクトではないオブジェクト」というキメラ的な何かを作り出しているように、ネット上での行為や認識がヒトをヒトではない別の何かにしていくものである。それは、ヒト中心の考えを改めさせるということである。ヒトとインターネットは互いが組み合わさることではじめて成立する行為と認識(例えば、Twitterの140字以内のつぶやきという行為、ニコニコ動画における「擬似同期」という認識)を作りあげていっている。ヒトを中心とした世界の仕組みから、ヒトとインターネットとが共にあり、どちらが中心であるのかがわからない世界がひろがりはじめている。そのなかで、ヒトはヒトでありながらも、ヒトではない何かになろうとしている。その何かが何なのかはまだわからない。だからこそ、インターネットに対する慣れのプロセスに亀裂を入れ、「オブジェクトではないオブジェクト」の生成や脱ヒト化を示すことで、そこにいままでとは異なるかたちで生じつつある新しい質感を見出さなければならない。そして、その新しい質感から「ポスト・インターネット」という現実とネットとが入り混じった世界のリアリティを改めて認識することが必要なのである。

[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ