ICC
ICC メタバース・プロジェクト
田中浩也×柄沢祐輔「メタバースにおける空間,環境,身体性」
グローバリゼーション以降の「身体性の共有」を,メタバースと結びつけるには?

田中:話はやや脱線するけれど,インプロヴァイザーらが,メタバースに何のメリットもまだ見出していないような気がします.たとえば楽器を作っている人とか,ブリコラージュ魂を持った人たちにとって,何の魅力もないのは,どうしたことか.

柄沢:でも,ブルース・マウ[※16]は身体を共有するスペクタル空間に2005年以降取り憑かれて研究をしていて,『Spectacle』というタイトルの本[※17]も1冊書いています.彼はそこで「多くの人が共有している身体感覚が,グローバリゼーション以降にあきらかに台頭している」という話をしていて,具体的にはネヴァダ州の砂漠でのバーニングマン・フェスティヴァルやラスヴェガスに巨大ピラミッドを作った人などを分析しています.
 で,その考え方は,メタバースにそのまま応用できると僕は思います.たとえば「MySpace」で多くのミュージシャンが自分の作った音楽を公開していますけれど,そのページに何人集まっているかということが,彼らの音楽的評価に繋がっているわけです.今「ライヴハウスにどれだけ観客が集まっているか」というような感じでMySpaceを見ているユーザーの存在がインターフェイス上で可視化されていたら,身体性を共有するかりそめのインターフェイスとなるわけです.これはブルース・マウの言うスペクタルの現実的な応用化だと思いますけどね.

田中:ん〜.コミュニティに関心のあるコンピュータ・ミュージック関係者はそれに興味を持ちそうだけど,表現とか知覚のレヴェルではまだ出てきていないと思います.せっかくだから,ちょっと振っておきたい話題があって……CGやグラフィックや建築など,いろいろな分野がある中で,音楽というのはある意味,完全に非物質的なものだから,ずうっとデジタル表現の最先端を探求してきたと思うんですね.いつも,「一番早い」というか.その意味でコンピュータ・ミュージックとメタバースにまったく接点がないのは,どうしてでしょう(笑).

──たしかにラップトップを使ってインプロヴィゼーションをやる人もいるけれど,それは「音が出る機械」として使っているわけで,実際のコンピューティングとは関係がない.その意味で言うと,インプロヴィゼーションとコンピュータというのは,実際には(たとえばタイムラグの問題等もあって)なかなか結びつきづらいものではありますよね.でも,たとえば大友良英さんとSachiko Mさんの「互いの音をまったく聞かないインプロヴィゼーション」みたいな試みもありました.あるいは自分の音が演奏してから30秒後に出てくるインプロヴィゼーションだってあるかもしれない.それこそ「不自由さ」の上で成り立つインプロヴィゼーションだって,あり得るでしょう.

田中:「2年前の自分といっしょに演奏する」とか?

柄沢:インプロヴィゼーションした結果が瞬時にリアルタイムで反映されて,音響効果として展開されて,それをまたフィードバックしていくような状況だってあるかもしれない.かつて60年代末にはフィル・スペクターという天才的な音響エンジニアが執拗な多重録音によって斬新な音楽を作っていました.彼はその手法によってジョン・レノンら一流のミュージシャン達から絶大な支持を受けていたわけです.そこでは単純なモノラル音響を果てしない回数に渡って積み重ねていくことによって,ある種量子論の多世界解釈にも通じるような差異を孕んだ音響効果を生み出していったわけですが,いまならばテクノロジーの力で同様の体験がより精緻にできますね.

田中:ちなみに(僕が先ほどから挙げていった)栽培とか植物とかが面白いのは,ジオメトリックな幾何学的思考とサウンドのような波動的・聴覚的な思考……その両方の世界の中間にあるからなんです.いまも植物に音楽を演奏させようというプロジェクトをやっているんですよ.

柄沢:話は戻りますが,一方で,先ほど述べたような「グローバリゼーションによって引き起こされた,身体性の共有に対する価値の増大」は,セカンドライフ的な仕組みの中で意識的にやると成功するようなモデルかもしれません.身体性を共有して楽しいジャンルというのが,いくつかあると思います.

田中:皆で集まって,楽しい?

柄沢:無目的だとつまらないけど,目的があれば楽しいものはありますよ.たとえば先ほどのブルース・マウはマクルーハン主義者で,「グローバル・ヴィレッジ」みたいなことを未だに信じていて,それが分立・統合されたようなものとしてスペクタル空間を見ている.でも,グローバル・ヴィレッジのような可能性……仮想空間でも身体性を持って世界を享受するみたいなことは,まだ捨て去られてはいないと思いますよ.

田中:「ヴィレッジ」のスケールのイメージが皆バラバラですよね.どの程度の人数のヴィレッジにするかで,全然話は変わってきますから.その密度の設計が,いまは完全に断片化されてしまっている……というのが社会学者の問題提起ですよね.「島宇宙的な」とか.

柄沢:ある種,距離的な隔絶があるから分断しているジャンルがあると思う.こういう空間において有効な集合離散を繰り広げるモデルの可能性というのは,捨てられてはいないと思いますけどね.

──建築で言えば,それこそ「アーキペラゴ(島宇宙,群島)」?

柄沢:そうですね.ヴェネチアなどのリアルな群島としてのフィジカルなアーキペラゴや,距離を隔てたアーキペラゴや,趣味によるアーキペラゴ…….アーキペラゴには色々な種類があるわけですが,その中でも距離を隔てたアーキペラゴは,アーキペラゴがフィジカルなものをある程度前提にしていることを考えると,ある程度質と内容が変わりますよね.つまり,距離を離れて集合するアーキペラゴのモデルをフィジカルなアーキペラゴに上書きして,グルーピングやサーキュレーションを作るという発想がありえます.
 都市理論家のサスキア・サッセンはそのような考え方を近年「グローバル・サーキット」という言葉で定式化しています.そこでは,そもそも群島として存在している都市をさらにさまざまなファクターで織り上げて,距離を隔てたアーキペラゴをグルーピング化してさらに上位のネットワークとして扱うという発想が展開しています.いわばかつてのマクルーハンのグローバル・ヴィレッジが現実に裏切られて,グローバル・(ミニ・)ヴィレッジの並立という状況をもたらしているのが現状だとしたら,グローバル・サーキットという考え方は,そのグローバル・(ミニ・)ヴィレッジを部分的に統合してゆくという考え方です.

──たとえば,P・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(早川書房,1969/ハヤカワ文庫,1977)というSF小説の中では,皆がある宗教を信じていて,専用端末を通じて神様のお告げを聞く,みたいなエピソードがありました.そういう宗教的・信仰的な仕組みにおいて,仮想空間に人が集まることはありえるかもしれませんね.

柄沢:絶大な人気を博すバンドやミュージシャンがメタバース上でいきなり大きなライヴをやったら,やはり人は集まると思います.「距離を隔絶した趣味の空間」というのがあるから.同様に,宗教的な司祭のもとに教徒が集まって「ウワー」と熱狂する,みたいなスペクタクル空間としては,たしかにメタバースは利用しがいがあるかもしれない.
 何らかの信条を同じくする,ある濃密なコミュニティを共有したい人たちのためのグループウェアとして機能するのかもしれない.それをザッピングして,郵便的に移動していく経験は刺激的だと思います.建築家のレム・コールハースは,著書の『錯乱のニューヨーク』(筑摩書房,1995/ちくま学芸文庫,1999)においてニューヨークという都市のグリッドの街路区分とひとつひとつの高層ビルの床面がそのようなアーキペラゴの自律性を成立せしめていると分析した後に,ラ・ヴィレット公園のコンペ案(1983)などではそのような群島をどのように撹乱するかという思想に基づいて建築物を提示するわけです.実際にそのような「アーキペラゴを横断する」という発想に基づいて作られた彼の建築物のシークエンシャルな空間体験は本当に刺激的なのですが,それはおそらくネット上のアーキペラゴにもそのままあてはまる可能性があります.

田中:それは限りなく文化人類学的な話ですね(笑).

柄沢:メタバースが普及して,網野善彦的な世界が仮想空間内に本当に現われたら面白いですよね.

田中:だけど,いままでのメタバースでは,そこまで成熟した経緯がない…….

[※16]ブルース・マウ(Bruce Mau):1959年生まれのカナダ人デザイナー.インスティチュート・ウィズアウト・バウンダリー(IWB)の創設者にして,自身の会社「ブルース・マウ・デザイン」社のクリエイティブ・ディレクター.レム・クールハスとの共著『S,M,L,XL』(Monacelli Press, 1995)や,2004年まで続けた『Zone Books』のデザイン・ディレクターとしてもつとに知られる.参照サイト⇒Bruce Mau Design: http://www.brucemaudesign.com/ [※17]『Spectacle』というタイトルの本:"Spectacle" by David Rockwell with Bruce Mau, Phaidon, 2006