ICC
ICC メタバース・プロジェクト
田中浩也×柄沢祐輔「メタバースにおける空間,環境,身体性」
空間設計には「不自由さの設計」が不可欠だ

──ちょっと議論の次元が変わりますが,メタバースというのも,それこそ自分で空間を作ったりすることを各自がやっていいわけですよね.システマティックなものを介さなくても,勝手に作れる.

田中:ただ,僕も試しにやってみたことがあるのですが……空間を作るときには何か制約条件がないと,そもそも何を作っていいかが分からないのではないですか?
 メタバースの中で作られている空間には2タイプあって……現実世界のミメーシスか,数式に基づいたフニャフニャした形か,そのどちらかしかない.それ以外の制約条件がないから,それ以外のヴァリエーションが出ない.デザインの仕様がないのだと思います.
 ならば人々の現実の生活を見たほうが,いろんな制約条件があって,面白いと思う.「私の家族は何人で,こんなライフスタイルで,こんな場所に住んでいる」という制約があるからこそ,多様な建築や空間が生まれる.そうした制約群を創造的に捉え返さないと多様性は出てこないと思います.「自由に実践できます」というのは,全然自由じゃない.

──前回の(エキソニモ×ドミニク)対談の中でも「不自由さの設計」という言葉が出てきていました.

田中:アーキテクトとして「不自由さを設計する」ことに意味を見出すというのは分かりますが,もともと私たちの現実の生活って不自由ですよね.だから「いまのアクチュアルな不自由さを少しでも克服するために,何を作るべきか」という問題設定で考えたほうが有効だと思います.

柄沢:でも「不自由さの設計」というのは,情報空間の設計においても現実空間の設計においても,共にキーワードになると僕は思っています.

田中:現実はもう十分に不自由じゃない??

柄沢:現実の解釈の仕方はたしかにそうですが,実際に設計する主体のツールだったり,情報環境を設計する主体の思考パターンとしては「どうやって不自由さを導入するか」という問題設定は,ものすごくリアリティがあると思います.

田中:メタバースを現実世界とは違うオルタナティヴとして考えるから,自由ばかりがどんどん拡大されてしまうように思うわけですよ.だからもっと現実世界と関連づけて,現実にある制約や不自由さに満ち溢れた世界と,ある程度自由に実験ができるメタバースのような世界の2つの間の見通しをよくすることが,結局どちらにとってもいい効果を与える気がします.

柄沢:ある程度は現実と必然的な関係を取り結んだプラットフォームになっているべきですね.たとえば現実と同じような気象条件がシミュレーションされていて,それが常に再現されて動いているとか,ミラーワールド的なGoogle Earthやストリートビューみたいなサーヴィスが,現実のサイト・スペシフィティと連動した関係を持っていることが「不自由さの構築」に繋がると思う.

田中:賛成です.制約のパラメータを増やしたほうが,多様でいい世界が生まれると思うなぁ…….

柄沢:それは分からないけれど,人が認知できるレヴェルで制約条件がうまく設定されていることが,おそらく鍵になってくる.たとえば,ミクシィのコミュニティに何千個も入っても意味がない,というように.

田中:でもそれは「認知限界」じゃないですか? コンピュータ上のインターフェイスや世界の設計の最後の制約条件は,「認知」限界ですよね.だけど建築は,人間の有限な「身体」という制約を受けているわけで,それはコンピュータの設計の中にはない.だから認知的に可能だったら,どんなものでも可能なわけでしょう?
 でも,身体と認知って,やはり体の中で連続して回っているものだから,そこを分裂させるとまたおかしなことになるんじゃない?

──その辺の「境界」を作ろうという試みが,荒川修作の作品群ですよね.

田中:そうだと思います.柄沢さんもそういう部分がすごくあって,でも認知のほうが身体よりも,少しだけ先行するような形ですよね.

柄沢:そう.認知がズレている部分をあえて放り出すというか…….

田中:そういう設計ができる人は,あまりいない.だから環境というのは,認知限界と身体的な制約の両面から作るべきだと思います.

──ちなみにヴァーチュアル建築というのは,もともと建てるときに何か制約を決めてから建築を構想するわけですか?

柄沢:基本的には彼らにはサイトがないんですよね.言わば建築の抽象的なタイポロジーだけがそこにボンっと投げ出されていて……それが,たとえばオランダの建築家のベン・ファン ・ベルケルの場合には常に「メビウスの輪」だったりするわけです.まず抽象的なモデルを呈示して,敷地やサイト・スペシフィティとかはなくて,基本的には単純な形式性の追求だと思います.
 でも,実際にその形式性が現実に落とし込まれた場合,身体感覚をセンシティヴに具現化すると,かなり面白いことが起こるのではないでしょうか.ヴァーチュアル建築の遺産は,実は「負の遺産」ではなくて,現実に落とし込まれた場合に多様な可能性を持っていると,僕は思います.たとえばベルケルが「メビウスの輪」に取り憑かれていると言いましたが,あれが実際に体験してみると,おそらく身体感覚としてはかなり不思議なものだと思います.

田中:アメリカ西海岸ではその路線がもう起こっていて……僕らと同世代の建築家がコンピュータ上で設計した《メビウス・ハウス》みたいなものがもう実際に建っていますよね.その辺は,アメリカの建築文化と日本の建築文化が全然違うところです.UCLAあたりでは,いまだにコンピュータ・ジェネレーテッドなものをちゃんと建てようとする人たちが残っている.そして,いまようやくその人たちが30代中盤にさしかかって,実際に建物を建てられるようになってきた時期なんですね.
 ところが日本の建築界では,その流れが途切れてしまった.「コンピュータなんて関係ない」というのがマジョリティだから,本当に我々の周りの数人しかいない(笑).あと,形の形式性ということが,日本の建築界ではあまり主題にならない.どちらかというと「文化」で語っちゃう傾向があるから…….

柄沢:慣習的なエレメントのマニエリスム,という流れが日本には連綿とありますからね.でも,形式的にヴァーチュアルなものを,身体性を伴う現実空間に落とすことには意味があると思います.アメリカ西海岸の人たちの作品集を見ても,まだインスタレーション・レヴェルですよ.家になっていないし,建築にもなっていない.それが建築物としての「図書館」とかになってくると,身体としてもかなり重みのあるものになると思います.

田中:「新しい空間の知覚や経験を与える」目的で建築を建てるという習慣が,日本にはあまりないですよね.それこそ,荒川修作さんや磯崎新さんの作品にそういった部分があるくらい?
 以前,それはなぜなのかを考えたことがあるのですが……「すでに多様な空間を経験できる東京のような都市空間が存在するのだから,それでこと足りているのではないか」というのが結論でした.アメリカの西部なんて砂漠なわけだし,そういう経験を実世界で得られないからこそ,一連の体験装置を作る必要があったのではないでしょうか.これは僕の仮説なのですが,どう思われますか?

柄沢:それは正しいと思います.たとえば新宿駅西口の「思い出横町」とかに行くと,やはり身体感覚としては建築よりも新鮮だったりする.そのパラドックスはたしかにあるのですが,でも「日本に新しい空間を求める文化がない」という話とは,また少し違う話だと思います.

──「敷地が狭いから階段が急だ」とか,それってもう必然的にそうなっちゃっている部分がありますよね.

田中:そうです.そこで,やはり荒川修作さんに話を戻します.ある空間の中でずっと生活することは,美術館のような場所で瞬間的に知覚的インパクトを得るのとはまた別の体験だと思います.長い時間そこに住むことで,初めて何かを徐々に獲得できるから,荒川さんは住宅にこだわるようになったのでしょう.
 《養老天命反転地》みたいな空間は,行ったとしてもたぶん1回ぐらいですよね.そうではない「何か」に彼はこだわっていて,その着眼点は正しいと思う.日常的に長い時間滞在する空間が人間に与える影響の大きさを考慮したら,それこそメタバースみたいな空間こそ慎重に設計する必要がある.ずうっとそこにいるのだったら,それなりのものを設計しないとまずい.

柄沢:でも荒川さんの空間は,僕からすれば1年ぐらいで身体が慣れてしまう気もするのですが…….

田中:だからこそ,いつも少しずつ,環境を書き換えるようなメンテナンスが大事なのかもしれない.

──たとえばそういう家に1年間かけて慣れたとすると,それによって人間の(テンポラリーなものに留まらない)何かが変わっていくと思いますか?

田中:変わるんじゃないですか.いま,認知科学者の方が《三鷹天命反転住宅》に住んでいて,赤ちゃんがそこで育っていく様子をムーヴィーに撮られているらしいですよ.

柄沢:でも,一般的な感覚を持っている大人が荒川修作の建物に異化されるから意味があるのであって,そこで子供を育てるというのは……育児環境的にも,どうなんでしょうか?

田中:それはたとえば,赤子が森の中で生まれ育ったのと同等に考えればいいんですよ.都市というのはユニヴァーサルでバリアフリーなものを設計しようという大きな流れがあるわけです.それに対してやはり根本的にはヒューマンネイチャーとして噛み合わないものがありますよね.

柄沢:子供を育てるための「いい空間モデル」というのは,ある種,ヘーゲルの弁証法みたいな感じで,外界に働きかけると即反応が帰ってくるような,リアルタイムでフィードバックがあるものだと思います.だから子供にとっての仮想空間として想定しているのも,インタラクティヴに跳ね返ってくるところで学習できないといけない.でも,荒川さんの空間で子供を育てても,フィードバックはないと思いますが.

田中:僕はあると思いますけれど……荒川さんの擁護を僕がするのも変な話ですが,インタラクティヴな空間って,ああいうことではないのでしょうか.

柄沢:現実空間として? そうかなあ…….

田中:「働きかけたら何らかの手応えが返ってくる」ということ.

──「手応え」というところでは,先ほどの柄沢さんのお話にあったように,経験が覆されたときに初めて手応えがあるのではないでしょうか?

田中:エクスプロラトリー・サーチ=探索的認知というものがあって,見ているだけでは認知は完成しないわけです.子供は実際にタッチすることで認知するから,タッチできる場所が多いほうがいいし,その経験が多様であればあるほうがいい.触ってみて別々の感覚が返ってくる場所があればあるほどいい.遊具のデザインとして見たら,イサム・ノグチがやっていたことにも似ている.イサム・ノグチの遊具(プレイング・スカルプチャー)とかを見ると,たしかに子供にとっては素晴らしいと思いますよ.

柄沢:なるほどね.僕がアルゴリズムでやろうとしていることも,実は「プレイング・スカルプチャー」みたいなものを現実に日常世界に作ろうということです.要するに日常の環世界に親しんだ自分の身体図式が快楽と共に変更されるのを目標としています.