ICC
ICC メタバース・プロジェクト
濱野智史 メタバースのアーキテクチャ
3D仮想空間の可能性とは?

──ちなみに,3Dであることの可能性というのは何でしょうか? 例えば僕らが馴染み深いものとして,それこそICCができた頃に一番人気のあったものに,「CAVE」というヴァーチュアル・リアリティ技術を応用したシステムがありました.専用のメガネを装着して,4面のプロジェクションの中に入ってゆき,3D空間の体験ができるというものでした.だけど東大でも「CAVE」システムの研究自体もう終わってしまったし,「CABIN」[※10]もなくなってしまったりして,ある意味ヴァーチュアル・リアリティ研究自体が,その役目を終えてしまったのではないかとすら思えるわけですが…….

濱野:でも,最近ではまた,AR(オーギュメンテッド・リアリティ=拡張現実)とかって言って,現実世界の中に仮想オブジェクトをオーヴァーレイする技術が登場して「次はリアル空間に3Dだ!」みたいな感じで盛り上がっている人たちもいますよね.だけど私が思うに,あれも今のままだとやっぱりダメで,コミュニケーションの方向に繋げていかないと,少なくとも一般までは普及しない.つまり,作り手の自己満足に終わってしまう可能性が高そうです.
 去年から私もしばしば指摘していたのですが,ARもリアル空間にコメントをつけるとか,普通に考えたらそういうふうに使うはずが,例えば彼らが紹介していたのは「竜安寺でダースベーダーと誰かが撃ち合うゲームができる」とか(笑)[※11].発想としては,というかデモンストレーションとしては面白いですが,「これで未来が変わる!」とまでは思わないし,むしろ「面白そうだけど,一回やったら飽きるでしょ」みたいな感じで,またしてもセカンドライフと同じ匂いがしてしまう……(苦笑).
 これは笑い話でなくて,これってけっこう本質的な部分だと思うんですよ.今日はログとかコミュニケーションの方向で,色々と話を展開してきましたが,私はそういう方向に可能性を見ている一方,やはりアーティスト系の方って,一般ユーザーの動向とかはあまり気にされない.というか,CGMとかUGC(User Generated Content)とかをアーティストの側が認めちゃったら,負けですよね(笑).「消費者生成コンテンツとかいっても,どうせクソだろ」みたいな感じはむしろあって当然でしょう(笑).実際問題,たしかにクソみたいなものは多いし,クソみたいなものだからこそ,「あえて感」があってみんなで盛り上がってしまうみたいな側面はあって,それは事実です.とはいえ,「クソ」といって無視しててもなあ,という気もする.何かもったいない断絶が,特にこのネット系界隈の中では起きている感じがしています.
 例えば建築関係でもよくある話として,「市民参加で民主的に作った建築なんて,どうせクソでしょ」問題.クリストファー・アレグザンダーのパタン・ランゲージにしても「そんなので市民参加しても,結局いいものはできない」という話になって,ある種の作家主義に行きつきがちな文脈がある.実際,ある側面では,それは正しいと思います.最大公約数の合意をまとめても普通は面白いことにはならないし,議論だって普通はそんなにまとまらない.しかし,もし何かこれから可能性があるとすれば,議論をひたすら積み重ねるのではない……つまり「ランゲージ」ではなくて「ログ」を取っておいて,なんとなくぼんやりした合意というか,皆のナレッジを集めるような仕組みのほうではないか,と.
 先ほどの藤村さんの「超線形設計プロセス論」も,そういうことです.別に「地域住民と議論しあって,こういう最終形態を作りました」ということではなくて,「設計を練るプロセスで,各人に散らばっているナレッジを徐々に吸収し,建物の形態を変えていく」みたいなことのほうが,結果的にできあがるものもいいし,しかもラディカルな形態にもなる,みたいな発想です.

──たしかに,すべての意見を反映させて作ってみても,どっちつかずなものができてしまう.だったら,とにかく何かの意志のもとにあるものを最後まで作って,失敗したら,もしかしたらその過程の中で「こちらのほうが良かったのかも?」という分岐点まで立ち戻る.そうしたら,その分岐点から違う可能性が見えてくる.
 あと,先ほども話題にのぼった「同期」という時制の問題.ニコニコ動画に上げられている映像は,それ自体がひとつの尺度になっている.そういうシステムはたしかにある種での擬似同期性を生むわけだけれど,結局はやっぱり,同じ動画を何回も何回も繰り返し見るということは考えづらいのではないか.だけど,その「ひとつのタイムライン」という仕組みをメタバースにそっくりそのまま移植するというのは,ちょっと難しそうですよね.

濱野:完璧には,難しいでしょうね.だから先ほど申し上げたような擬似巡礼コースの仕組みにしても,うまく設計しないと,ひとり一回で終わってしまう.いまニコニコ動画で起きているのは,コメントの最大表示数を1000個までに絞り込んでいるので,結局,すごい人気のある動画だったら3時間ぐらい経ってしまうと,表示されるコメントが全部入れ変わっちゃったりするわけですよ.なので同じ動画を見ていても,コメントがどんどん変わっていくので全然違った印象になる,みたいなことが起きていて,そのコメントの生成変化の具合を楽しむ,という見方もあります.ログを皆でパカパカ変えていくうちに,反応の感じもどんどん変わってゆき,作品の解釈そのものも流動的になる.そして,それを見たさに何度でも同じ場所を訪れる,みたいな感じになっているんですね.
 つまりニコニコ動画は,僕の言葉を使えば「いま・ここ性」を複製するアーキテクチャなんですが,そこではさらに,「いま・だけ性」みたいなものもガンガン作られている.つまり,いつ行ってもコメントが変わっているので「いやぁ,またイイ感じで見られたわ!」という感覚が生じて,「同じ動画を200回くらい見ちゃった!」みたいなことが起きる.普通はよほどハマらない限り,ひとつの映像を何回も見返したりはしませんよね.でも,ニコニコ動画の場合,もともと投稿された動画の上映時間が短めだということもありますし,けっこう複数回繰り返しの視聴に耐えられてしまう.というか,メタデータ(表示されるコメント)が主コンテンツになってしまっていて,「図と地」の話でいえば,コンテンツはコメントを受け入れる「地」としてしか機能していない,という逆転した状況になりつつある.でも,メタバース系は,まだ全然そこまで行き着いていないですよね.CGMとか言っていますけれど,結局はコンテンツ至上主義で,まだまだコミュニケーションが主役になっていない.何かしら実験的にでも,コミュニケーションの側を無理矢理主役にしちゃう仕組みがメタバース内でもできれば,新しいサーヴィスの可能性があるのではないでしょうか.

──なるほど.この「コンテンツか,コミュニケーションか」が,メタバースをめぐる今後の議論のポイントのひとつになりそうですね.

濱野:それってけっこう普遍的な……というと大袈裟ですが,常にネット関連では立ちあがってくる問題なので,その辺も議論を重ねていけるのではないでしょうか.

──本日はどうもありがとうございました.
(2009/01/30@ICC会議室)




[※10]CABIN:インテリジェント・モデリング・ラボラトリーが仮想空間の研究成果のひとつとして開発した,正面1面,左右2面,上下2面の大型スクリーンを使い,コンピュータの作り出す仮想空間の中に入り込む装置. [※11]「竜安寺でダースベーダーと誰かが撃ち合うゲーム」:参照サイト「Parallel Tracking and Mapping for Small AR Workspaces (PTAM) - extra」 http://www.youtube.com/
watch?v=Y9HMn6bd-v8
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