ICC





はじめに
入場料
展示作品 1
展示作品 2
海市について




計画/経緯
ANY会議/ユートピアをめぐる言説
ヴェネツィアビエンナーレ/海市計画コンセプトパネル
展覧会について(会場構成




1. プロトタイプ
2. シグネチャーズ
3. ヴィジターズ
4. インターネット
ウェブページを通じた展覧会への参加
DWF形式によるAutoCAD図面の参照
フォーラムのページ
参加作家
カタログ
 
1997年4月19日 〜 7月13日 [終了しました.] ギャラリーA





田中純氏の「連歌」4月20日付け


〈水とのimmediacy〉というフレーズによって,しかし,連想は再びヴェネツィアに回帰します.ただしヴェネツィアの再生ではなく,その緩慢な死に向けて.沈み続ける都市ヴェネツィア.迷宮であり,洗面器であり,あるいは「あらゆる街のなかで最も暗い街」とニーチェがいう街のことです.「百の深い孤独が集ってヴェネツィアを形作っている. ─ これがその魔力なのだ.未来の人間たちのめのイメージ.」まさに群島的な,不確定な全体がヴェネツィアと呼ばれているわけです が,それはもはやマスター・ナラティヴではなくアフォリズムの集積としてしかありえない.ニーチェの都市,アフォリズム都市とは,さまざまな計画が挫折し分断されて重合しながら形成される,無数の署名を持つ空間であり,蜃気楼のように,流れる水の上に建造された蜘蛛の巣(wwweb?)状の,デカダントな納骨堂だった ─ ヴェネツィアのように. われわれは都市の創造を思考しつつ,実のところ,都市がいかに死ぬかを演出しようとしているのではないでしょうか.自らが生み出した都市の何が死に,何が生き残るか.いや,都市が死んだとして,その屍体はどのように埋葬されるのか.なるほど,すべてを破壊することはいとも容易なように思える.しかし,殲滅的な破壊によっても残されるもの ─ 都市の遺灰 ─ があるとしたら? 自然成長をシミュレートしようとするこの都市はいつフリーズするでしょう? 破局はいつ訪れるのでしょう?しかし,それは予告できない.壊し得ない記憶の場がそこに残されるでしょうか? 連歌的時間の連鎖をアナクロニックに錯乱させ,未来の記憶を都市に埋蔵すること,都市の死(それは単なる廃墟ではない)を先取りすることはできるでしょうか?

ユートピアという言葉に何ともしれない居心地の悪さを感じ続けながら,トマス・モアの著書を再読しました.「・・・イギリスの羊です.以前は大変おとなしい,小食の動物だったそうですが,この頃では,何でも途方もない大食らいで,そのうえ荒々しくなったそうで,そのため人間さえもさかんに喰い殺しているとのことです.おかげで,国内いたるところの田地も家屋も都会も,みな食いつぶされて,見るも無残な荒廃ぶりです.そのわけは,もし国内のどこかで非常に良質の,従って高価な羊毛がとれるというところがありますと,・・・百姓たちの耕作地をとりあげてしまい,牧場としてすっかり囲ってしまうからです.」(平井正穂訳)イギリス資本主義勃興期の〈囲い込み〉による土地の収奪に対する批判がそこにあったとして,ユートピア島とはしかし,この囲い込みが反転して外界に投射された,〈囲い込まれた共有地〉であったこともまた自明です.ユートピアは〈粗野な先住民〉との闘いの結果,征服された土地であり,人口過剰の場合には,近隣の土地に植民し,場合によってはそこの先住民を武力によって追い払ってしまう.「なぜなら,ある国の国民がその土地をただ無意味に遊ばせているくせに,自然の法則にしたがってその土地によって生活しようとする他の国民にそれを拒むことは,これこそ戦争のもっとも正当な理由と彼らは考えるからである.」この戦争のためにユートピア人は高額の報酬で傭兵を雇いいれ,「傭兵をいくら破滅に陥れようが少しも意に介さない」.ユートピア人そのものが,資本主義,帝国主義のプロトタイプであり,カール・シュミット流にいえば,モアの「ユートピア」で告げられているものこそ,資本主義による世界市場成立という〈近代的技術による全面的脱場所化〉(アトピーと呼ぶべきでしょうか?)と国際法秩序の崩壊という〈ニヒリズム〉にほかならないことになります.その現在における帰結が,もはや本国をもたない(ホームレスな)資本(ソニーなど)による全世界規模の植民地化であるとしたら,まず,「ユートピアとはホームレスな資本である/ホームレスな資本こそがユートピアである」と断言することからしか,私は始められません.ユートピアとはまさしく〈経済特区〉です.マルクス・レーニン主義ならぬ,マーケット(市場)・レーニン主義国家のユートピア?

囲い込みがトポロジカルに反転した表象がモアのユートピアであったとしたら,海市という蜃気楼もまた,何ものかの反転像であるように思われます.とりあえずそれは共同体の中心の不在,資本の帰属先の不在といった,不在の中心を補填する場に見える.そして将来,アジアの政治的共同体の中心にそれがなりうるとして,そうしたシナリオから欠落しているのは,中華人民共和国が断固として内化しようとしている外部的な〈島〉,台湾の存在でしょう.もちろん台湾は経済的投資の源泉としてはこのシナリオに含まれているにしても,政治的な分断によって,外部化した自己の一部であるかのように存在しているこの島は,中華人民共和国という国家共同体の幻想の世界地図のなかでは,どこにもない場所=ユートピアであるに違いありません.

こうして,思い起こされるのは必然的に,〈陸の孤島〉としてのかつての西ベルリンです.ドイツの一部でありながら,第2時世界大戦後40年以上,占領下にあった都市.閉ざされているがゆえに,逆に世界を閉ざしていた壁.その壁が崩れたとき,世界は二極対立という,かりそめの安定した秩序を失ってしまった.壁=堤防が表象しているのは,閉ざそうとする力と,閉ざされまいとする力との拮抗です.島が刑務所,隔離病棟(死の島),カジノといった犯罪と死,あるいは享楽と消費に捧げられた空間であった歴史があるとして,このユートピアの〈膜〉の透過作用はどのように働くのか? 誰が入るか? 誰が出るか? 閉ざそうとする力と閉ざされまいとする力は何であり,どのように配置されているのか?
インターネットによってもはや情報において閉ざされた場は存在しなくなったとは言えるにしても,土地はあっけないほど簡単に占有され,封鎖され,人は容易に排除されてしまうものです.

ユートピアの可能性をめぐって,ネットワークのアトピアと都市の危険なディストピアの二面性の同時共存が浅田彰さんによって指摘されています.これはプライバシーとパブリックの関係性の問題でもある.両者はもはや明確に分離できない.矛盾したパッチワーク状の空間(カフカ的空間?)がすでにわれわれの現実であるとしたら,そして,この共存状態(あるいは不整合性)こそが〈都市的なもの〉のエロティックな魅惑の源泉であるとしたら,それはもはや都市がさまざまなスケープの(ランドスケープ,サウンドスケープ,メディアスケープ,ネットスケープ・・・)重層して,互いに矛盾した不整合性そのものとしてしか存在していないということではないでしょうか.さまざまなネットのほつれ,不整合性としての都市の蜃気楼.これに対して,どのような空間化が計画可能か?という問いは果たして妥当でしょうか? むしろ,たまごっち的な海市に蝟集するたまごっちの群れが夢見る,人工的に生成される都市生命体という夢を反転させ,生命体の成長の時間をどのようにアナクロニックに錯乱させられるかが問題です.世界卵を割ること.世界卵に裂け目を刻みつけること,あるいはざくろのように(ベンヤミン的トポロジー)外なる内密性(クリプティック)の場をさらけ出すこと.都市に穴を開けること.そして,同時に〈計画=企画〉の可能性を消尽すること.それは都市を散逸していくイメージとして実現することです.海市=蜃気楼というユートピアは,反復的に消滅へと失墜していく,自らを消尽する〈イメージ〉として立ち現れる.「人間は不在である,そしてしかし,その時,風景のなかにすべてがある」とセザンヌがいう,そんな無人の風景としてのユートピア.

岡崎さんのお好み焼きとは,そんな割られた卵の産物でしょうか?
ところで中国において,日本のまたの名は「東瀛(えい)」(東海に浮かぶあぶく)と言うのだそうです.このあぶく(バブル)はいつはじけるのでしょうか? それともあるいは,すでにそれは粉々に割れ砕けているにもかかわらず,われわれはそのことに気づかずにいるだけなのでしょうか?

田中 純 1997年4月20日