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1997年4月19日 〜 7月13日 [終了しました.] ギャラリーA





2月21日 : 丸山洋志氏から入江経一氏へ


入江さんへの私的返事

どうか「遅れて」ているなどと謙遜しないでください.「遅れ」たやつこそ私なのですから.

今日も,少ししか書けないでしょう.正直言って,私はこんなことを考え始めると自律神経失調症になるのです.

私が「なる」を考えるとき,いつも頭から離れないのは「存在」と「所有性」のむすびつきです(何のこっちゃ).

まず,ほとんどなぜだか解らないのですか,私は「データ畑」の耕作人でありたくないのです(またまた何のこっちゃ).

「データ」に「誰でもアクセス可能」とか「インタラクティヴ」とか「リンク」とか「階層レヴェルの可変性」とかの枕言葉をつけたうえで(もちろん私もそれぞれに納得しています),「データ」を「土」に変えてください・・・・・変えなくてもいいのですけれど,私は「土」を前にした「素朴」な人間の「在り方」がすぐに目に浮かんできます・・・・・・

その「土」を「コンクリート(本来の意味での)そして(材料的意味での)」に変え,それを「世界」と呼び,「時間軸」に沿って「自己」を規定していくことが,私にとってのハイデガーの「存在論」なのです・・・・つまり,「ある」ことです.

めちゃめちゃ暴力的的です・・・・・・私の解釈の仕方が・・・・・そして,私の解釈が万一まとを得ているならば,ハイデガーのやり方が・・・・

当然,私はその「万一」に賭けて,後者で進みます.そんな暴力的な「コンクリートネス」を捨て「土」に戻ることこそ,これまた私の「後期ハイデガー」の解釈なのです.こんな素朴な「住むこと」〔=人が主であること),「在ること」〔=人が土とともあること)の背後に私は暗黙の「平和な時代の所有制」を感じとります.さらに私は逆転します.「土とともにあること〔=存在〕」の背後の「平和な時代の所有性」を温存したまま「土」を「コンクリート」に変えたからこそ,今世紀の「存在」の悲劇,「ハイデガー」の悲劇があったと思います・・・・・

だから「土」に戻ること・・・・私もそれが解らないこともないのですが・・・・で満足する人は,それはそれでよいでしょうが,その「人」が「在る」ことに満足しないで「なる」ことを目指すのは,私にとってとっても矛盾に見えます.

私にとって,今日的デジタル「データ」を「インタラクティヴ」「クロス・レファレンス」「クロス・レイヤー」と呼びことによって「何か」から開放された気分で「在る」ことは,単に「後期ハイデガー」の反復にしか思えないのです・・・・「データは誰でもアクセス可能だ」「データはホモジニアスだ」・・・・これらが「平和な時代の所有制」の再現ではなくて何でしょうか・・・・そしてまた「危機」が・・・

私は決して入江さんを攻撃しようとか,否定しようとか思ってないことは何よりも入江さん自身が了解していることを信じています・・・・だからこんなことを書くんだもんね・・・・私は入江さんの懐の深さににすがって,ダダをこねているだけかもしれません.

私は「土」とともに「在る」のではなく,「月」に導かれた「有る」でありたい.これは,私がランボーから学んだことです・・・・・彼こそ「言語」に「なる」ことによって19世紀の空間〔=制度として確立した言語空間)から脱出した・・・私にはんな思いがあります・・・(単にあこがれているだけ)

私は「土」を「コンクリート」に変えたのを,また「土」に戻すことになぜか反発するのです・・・・私自身もあまり解らない.だから「コンクリート」に「論理」的にではなく「倫理的」的にひび割れを作りだそうとします・・・ほとんど「作り出さなければならない」になっています.

私自身も,「在ること」から逃れ得ません.だからその「ひび割れ」とは「在ること」と「有ること」の齟齬だと言っても良いかもしれません.私は「なる」「関数」「becoming」をこんなところからしか考えれない人間です.「計画」が,「展示」が,「事態」が,「出来事」が「なる」ことなど,私はまったく興味がありませんきっと「そんなのどうやってっも「前期ハイデガー」と「後期ハイデガー」でくくれるもんね」とたかをくくっているからでしょう・・・・なにしろ自分でもあきれるほどの「ハイデガー解釈」だから・・・・

私が興味あるのは「私」が「・・・・・なる」ことです.だから述語限定proprietyを持ち出すのです.まだちっとも「なる」の構造や遺伝=所与性に行きつきません.また
あしたこの続きは書きます.

FEB.21.1997 丸山洋志