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1997年4月19日 〜 7月13日 [終了しました.] ギャラリーA





2月20日 : 丸山洋志氏から入江経一氏へ


入江様へ

E-mailを今読んでいます.ばらばらによんでおりますので,気がついたことから何か書いていこうと思います.

「賭け金」は戦略にはなり得ません.また,自分が出したお金=各自のプログラムの「実像」に「目印」をつけるバカはいないと思います.「ギャンブル」とはそういうものではないからです.

私の比喩が短絡的だったのかもしれません.実際のお金をだすとき(とりわけ売買ではなくギャンブルのとき),そのお金には各自の思い=勝手なプログラム=幻想がまといついています.もし,お金に張りついた自己の思いを心底から愛着するなら,お金を箪笥にでもしまっておけばいいです.ギャンブラーとは,私が考えるかぎり,二葎背反した存在です.自分が出す「賭け金」には誰よりも自分の「思い」(=幻想としてのプログラム)をのせているでしょう.そして,誰よりも「真のプログラム」がそんな「私」の「思い」を無視することも知っています.だからギャンブルラーなのです.

また,そのようなお金(この場合,既に実体性は全くなくなっている)にまとわりついている各自の思い(=勝手なプログラム)に反応する,あるいは考慮するバカなディーラーもいないでしょう.

だから,私が主張した「あらかじめ提出するプログラム」は「反応」とか,その「インスタントなアクション」とか,「目標」とか,「実現」とは全然関係ありません.では,なぜそんなものを出すべきであると私が主張したのでしょうか.ひとえに,「倫理」のためです.私は心底18紀的なロマンチックな人間なのです.

ここで,ギャンブルを誰かとだれかのサシ(例えば今回なら12人のvisitorどうし)の戦いをイメージしないでほしいのです.だから,担当の週の人を「ディーラー」と呼んだのです.せいぜいが「ディーラー」だ.そして,賭けのの相手はもっと大きなものです.

12人のvisitorの「思い」(=勝手なプログラム)に反応していたら,このギャンブルに勝てません.ディーラーも実体としてのお金に刻まれた個々の思い(勝手なプログラム)が「基」にして「生まれる別空間」(これを関数的空間と言っても良い)の「プログラム」解析なしには歯がたちません.

ここで,恐らく入江さんのデータ・ベース世界と接点をもつと思いますから,この後は述べません.

最初に提出する各自の「becoming」プログラムなんて,はたから見ればお笑い種でしかないでしょう.そして,私が「ディーラー」になっても個々のプログラムを笑うでしょう・・・「君達は間違っていた(過去形に注意)」.でも,そのとき,私はその「関数的空間」を支配して,そういうのでしょうか.とにかく,データ空間がそうであるように,「最初から」の「becoming」プログラムなんて「論理」的にいって「無理だヨーン」と各自の提出したプログラムを一笑することまちがいなしです.

しかし,しかし,しかし,私は各自のプログラムを見ながら「倫理」的には「涙」を流すでしょう.
何故なら・・・・・私もそんな馬鹿なことに加わった,バカな「思い」に取りつかれた一人であり,その思いがどんなものかわかっているから・・・・・私の信用する「倫理」とはこんなものです.入江さのように,一挙に「データ」「プログラム」にいける人がうらやましい・・・・ほんとうに私は18世紀的なんだから・・・

「関数」「becoming」「なる」「インタラクティヴ」をテーマにするかぎり,「見せ」なければならないものは,「データ」の処理でもなければ,「インタラクティヴ」の実践でもなく,何らかの「倫理」の「かたち」です.何故ならば,「それ」だけが「欠けて」「賭けて」「架けて」「駆けて」いることにみんなが既に気がついているからです・・・・・・・なんか荒川調になってきた・・・・もうやめなければ・・・・

こんなところから,私は「なる」の構造を考えます.そう,私がディーラーになったら「私は・・・・にならなければならい」.でも,どうして? 何に? 誰のために? ディ-ラーは誰のため? この続きは,またあした送ります.そして,私が考える「所与」も・・・・・・

Feb 20,1997  丸山洋志