ICC





はじめに
入場料
岩井俊雄氏インタビュー
西田雅昭氏インタビュー
参加作家
イヴェント




ニュースクール'95パソコン倶楽部
公開講座
2月2日(金)
2月4日(日)
 
1996年2月 [終了しました.] NTT/ICC推進室





はじめに


「コンピュータ・ネットワークでコンピュータのことを考える」

ネットワークを一つの世界と言ってしまうならば,
それはコンピュータが作り出した世界である.
コンピュータの機能によって実現された世界の中で,
われわれは出会い語り合う.
NewSchool '95は,ICC主催のネットワーク
「ICCnet」上での通信教育ということで行われる.
テーマは,「ネットワーク」ということだ.
コンピュータはわれわれが,ネットワークを語る上で,
大切なのは環境(インフラ)である.

今日,インターネットは非常に盛り上がり,
その勢いに乗じて多くの人がコンピュータと
接する機会を多く持つようになってきている.
「ネットワーク」の世界がより多くの人に一般化していく過程の中では,
ハードウェアとしてのコンピュータは見えなくなることが,本来の理想であろう.
機器のセットアップに労力を払うことなく,
操作に戸惑うこともなしに,
トラブルもなくすぐにアクセスできる環境の実現が,
より多数のネットワークユーザーに提供されるべきである.
この講座のさまざまなプログラムを通じて,
「ネットワーク」がわれわれに何をもたらし,
その世界はどう進展してゆくのかを考えるときに,
その世界の基本的な成り立ちについて翻って考えてみることは重要である.

そこで,
コンピュータそのものを改めて考えてみることにしよう.
コンピュータを,高度なエレクトロニクスの成果とだけ,
とらえていたのでは,見誤るものがある.
エンジニアにとってはそうかもしれないが,
社会学者が語るとき,アーティストが語るとき,
それはまた異なる姿をそこに見てとっているだろう.

ここで切り口をいくつか変えて,コンピュータを考察してみる.
もう一つのアプローチとして,目の前におかれたハードを解剖してみる.
これは,この講座の最終段階で,ワークショップとして
個人的なオリジナルコンピュータを作ってみる
ということにつながってゆく.

ハードウェアがどういう構成で,どのように動いているのか,
確かめることによってコンピュータ自身をいわば
「実感」しようというものである.
ここまで,たどり着いたなら,その日から
あなたのキーボードやマウスを操作する手がうんと優しくなれるか?

 


テーマは,それぞれの人にとっての
「僕(私)とコンピュータ」

コンピュータと,どうつきあってゆくか.
これは今を生きる人にとって,避けがたい課題であるように思う.

1980年代はコンピュータにとっては熱い時代だった. その昔,ウルトラ警備隊は,コンピュータから出てくる
紙テープを読んでいた.
誰もが思い浮かべるあのロッカーにオープンリールのくっつた姿は,
あくまで僕らとは違う世界の出来事だった.
それがパーソナルコンピュータの発売を契機として,
世界が身近なものになっていった.

ちょっと,コンピュータがアートの中での関わりの例をあげてみよう.

1:自動演奏装置としてのコンピュータ(シーケンサー)

機械のイメージは,繰り返しのイメージである.
機械は動力を必要とし,エンジンやモーターのようにたいていそれは,回転運動を繰り返す.そういうところから何度やっても同じものが,まさに大量生産されてゆくイメージが,機械時代を印象づけていた.
コンピュータによって,そのイメージはくつがえされていった.
コンピュータにプログラムすれば,きめのこまかい制御が可能になったのである.
夢の自働機械は,機械時代のあこがれとするものであった.
(そのむかし,音楽を自動演奏させる夢の機械の例はたくさんある.)

2:入力と出力の関数装置(ファンクション・ジェネレータ)

ある入力条件に対して,決まった処理をした結果を返す.
ある条件(映像,音声)が,コンピュータというフィルターを通過して,
ある効果(エフェクト)を与えられるわけである.
アプリケーションが整った環境で,絵を描いたり,
音楽を作ったりするのも,デジタル加工処理を施すという意味で,
コンピュータはファンクションジェネレータの役割を果たしている.

3:インタラクティブな関係装置(インタラクティブ・メディア)

さらに不特定な操作者のリクエストに応じて,情況に応じた反応を返す.
幅の広いリクエストに,その場その場で高速な演算能力で対応できるようになった.
個人的なターミナルが,インターネットにつながってゆくのも,ネットワークを世界レベルでのコラボレーションと考えれば,非常に巨大な関係装置だ.
1,2,3,とコンピュータの利用法が拡大するにつれて,高速なコンピュータの処理能力が要求されてゆく.また同時に,コンピュータを表現媒体としてみた場合,コンピュータのアウトプットの行き先が,まさに,パーソナルな方向に向かっているということであろうか.
表現行為も表現されたものも,すべて身近なレベルで語られることになっていった.何かにつけて,「パーソナルな...」ということは,今のさまざまなものを理解するうえで重要である.

 


「非常に個人的なコンピュータ史」

最初は,写真をやりたかった.

写真というものは,表現の過程の中で化学的な処理過程を経るものである.ちいさな頃から科学博士にあこがれて押入に実験室を作っていた僕としては,写真は錬金術のようなあやしげな要求を,満足させてくれるものだった.
(確かに,写真はある意味で,世界で一番早いテクノロジーを使った芸術だといわれている.)

カメラのそのものの機構や現像処理のテクニックに大いなる関心を寄せていた.それは一種のコンプレックスでもあり,心をときめかしてくれるものの正体でもあった.
メカニカルフォーカルプレーンシャッターがどうしたとか,レンズのカラーバランス特性がどうのとか.同時にそれはある意味で,コンプレックスでもあった.
つまり,写真の出来上がりよりも,写真の手法そのものに関心が偏っていたのである.トホホ状態.

そういった興味が直接的に作品につながってゆくということで,「テクノロジー・アート」は非常に魅力的だった.ちょうど,家庭用ビデオやパソコンが普及し始めた頃で,自分の身丈にあった世界で表現できる土壌が整いつつあったといえる.
興味の矛先は完全にそちらの方向に行ったようであるが,本来からの性癖はそこでも変わりなかった.ある種の開き直りで,あーとにとってのテクノロジーを考えることで,テクノロジーと向かい合うアーティストの姿を模索する方向がみえてきた.

アート・アンド・デザインの教育では,形態や色彩というふうに造形要素を解析して理解してゆく方法がとられているが,同じように,エレクトロニクスの現象を要素に分解し,構成する方法を作品に取り入れるようになる.僕がエレクトロニクスのパーツにこだわるゆえんである.
電子回路というものを,ひとつのエレクトロニクスパーツによる構成(コンポジション)ととらえているのである.(生け花は,生花を使用した一種のコンポジションであるというのと,同じようなとらえ方かもしれない)
コンピュータを使った作品では,コンピュータというファンクションが,作品全体の中でどう関わり,どのように機能しているかということが重要になってくる.
そんな中で僕はだんだんコンピュータがこわくなっていった.コンピュータはあまりにも巨大な構築物として映るようになってきた.自分の表現としてなら,コンピュータをブラックボックスとして使用することに抵抗を感じた.

所詮はコンピュータも小さな半導体のかたまりではないか.
物理学者が,物体を原子のレベルまで解析してこの世界を理解する手がかりをつかむように,ひとつの半導体が有機的に組み合わされたときに,コンピュータという怪物が誕生するものとして,理解を試みているのである.

僕とコンピュータはそういう意味で,非常になかよしなのである.

モリワキ ヒロユキ