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《Telematic Dreaming》はISDNの電話回線の中に存在するインスタレーションである.ふたつのインターフェイスが離れた場所に設置され,これらのインターフェイスそのものがカスタマイズされたTV会議用ユニットとして機能するダイナミックなインスタレーションである.両方の場所にはともに1台のダブル・ベッドがしつらえられ,一方の場所は暗く,もう一方は照明に照らされている.明るい方の場所に置かれたベッドの真上にはカメラが設置され,カメラはベッドとそれに横たわる鑑賞者/ユーザーのライヴのヴィデオ映像を,暗い方の場所に置かれたもう一方のベッドの真上に設置されたヴィデオ・プロジェクターに送り込む.送られたライヴのヴィデオ映像は,もう一人の観賞者/ユーザーが横たわるベッドの上に映写される.プロジェクターと並んで設置された第2のカメラは,ベッドに映写されたライヴのヴィデオ映像を,明るい部屋にあるベッドをぐるりと取り囲むモニター列に送り返す.つまり,このテレプレゼンス映像は,別の人間の映像の中に自分の映像を映し出す鏡として機能する.《Telematic Dreaming》は,テレプレゼンス映像の映写面としてのベッドに曖昧で複数の含意を積極的に持たせようとする.複雑な心理的状況をもたらすこの物体は,地理的距離や一貫したISDN環境に組み込まれたテクノロジーを消し去ってしまう.こうしてユーザーは,自分の置かれた空間と時間の外に存在できるという実感を味わうことになるが,その実感を可能にするのが,ベッドというコンテクストによって強化され,このテレマティック空間による明確な感覚転換によって引き起こされる不気味なまでにリアルな触感である.ユーザーの意識は,自分自身を覗き見するという行為によってテレプレゼンス化された身体内に存在することになる.身体がインタラクションを行なうことで因果の連鎖が生じて,それによってこの身体固有の空間と時間が決定される.そしてこのインタラクションをISDNの光ファイバー・ネットワークによって拡張することで,身体は光速度でどこにでも移動してインタラクションを行なうことができる.《Telematic Dreaming》ではふたりのユーザーが互いの触感を交換し合い,自分の手を目に置き換えて互いに触り合うのである.

《Telematic Dreaming》の成功のおかげで,ドイツのカールスルーエにあるZKM(アート・アンド・メディアテクノロジー・センター)のジェフリー・ショーと知り合うことができた.のちにショーは私をレジデンス・アーティストとしてZKMに招待してくれて,1993年11月に行なわれた「マルチメディアーレ3」に出品した新しいテレマティック・インスタレーションの研究と制作の場を与えてくれた.このときは自分としては《Telematic Dreaming》から余り隔たったものにしたくなかったので,結果としてその技術にしても形態にしてもきわめて類似した作品を制作することにしたのである.

《Telematic Vision》は,テレプレゼンス空間内に存在するインスタレーションである.その空間は,別々の場所にあるふたつの大きな青いソファーの間に存在している.一方のソファーの真正面に設置された1台のヴィデオ・カメラが,そのソファーの上に座る鑑賞者/ユーザーのライヴの映像を,クロマキー合成用「ブルーボックス」ヴィデオ・ミキサーへと送り込む.もう一方のソファーの正面に設置されたカメラは,このソファーともうひとりの人物の映像を同じミキサーに送り込む.ふたつのソファーの映像はミックスされ,同じソファーとテレプレゼンス・スクリーン上にふたりの鑑賞者/ユーザーを一緒に並べてしまう.この混合映像は最終的に各ソファーをぐるりと囲むモニター列へと送られて,各ソファーからどの角度でも等距離で身体をコントロールできるようにしている.多くの点でソファーとベッドは結局ほぼ同一のものと見なせる.ふたつは「ソファー/ベッド」として互いに転換が可能である.ベッドの持つ豊かな含意は《Telematic Dreaming》できわめて効果的であることがわかったのだが,今度のソファーにもやはり豊かな含意があり,同じように効果的である.《Telematic Vision》とそこに使われるソファーが《Telematic Dreaming》とそのベッドと異なるとすれば,それはそのスペクタクルのシナリオと劇空間が異なるからなのである.ソファーはベッドとテレビの中間に位置して,一方でベッドとの記号上のつながりを維持しながらも,直接的にはテレビの方を向いている.テレビとソファーはひとつの分かち難いシナリオの中にからめ取られているのである.《Telematic Vision》では,ソファーはテレビに映るスペクタクルを見るための座席であり,そしてそのスペクタクルとはソファーに座る鑑賞者以外の何物でもない.

《Telematic Dreaming》と《Telematic Vision》では,いずれの場合も鑑賞者/ユーザーは互いに視覚的身振りによってしかコミュニケーションを行なえない.音声によるコミュニケーションは不可能である.お互いは無言のパフォーマーという役割を果たさなければならず,このパフォーマーがいなければインスタレーションはメロドラマ的な可能性をたたえるたんなる空っぽの空間にすぎない.アーティストとして私はコンテクストを提供し,ベッドやソファーといったような複雑な心理的状況を生み出す物体を中心に据えたシステムのダイナミクスをデザインする.そのため作品は極度に緊張度の高いものとなり,ときには鑑賞者がパフォーマーの役をつとめることをためらうことすらある.鑑賞者は大抵,最初はどうしても人前でパフォーマンスをするという意識にとらわれてしまうからである.しかし,鑑賞者がひとたびパフォーマーの役割を引き受けると,人前という意識がなくなって,今やっているパフォーマンスがテレマティック空間で起こっているのであって,ベッドやソファーの上で起こっているのではないということに気がつくのである.パフォーマーは,最初に感じていた当惑的状況を意識しなくなってユーザーとなる.自分のこの身体がこの場所で動いていると感ずるのではなく,遠方のテレマティック空間でインタラクションを行なっている身体が意識されるだけなのである.ここにはある種の高次の自己知覚が展開されている.パフォーマーとしては現実の身体は内側からしか眺められない[感じ取れない]が,ユーザーとしてはテレプレゼンス化された身体は遠方から眺めることができる.こうなると,自我を現実の身体へ連れ戻すことは,はじめの時点で自分の身をベッドなりソファーの上に置くことに劣らないくらい難しいことになるとともに,現実の空間とテレプレゼンス空間の両方で同時にコミュニケーションを行なうこともほぼ不可能になる.《Telematic Dreaming》と《Telematic Vision》は結局次のことを明らかにしてくれる.すなわち,私の身体はインタラクションが起こるあらゆるところに存在し,私の身体をテレプレゼンスすべく選択したあらゆる場においてインタラクトすることが可能だということである.