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グリッチとは,破損したデジタルデータが,破損しているにもかかわらず再生不能にならず再生される現象のことです.たとえば,内部の回路が故障してしまい正常に撮影できなくなったデジカメの写真,テレビの映像がアンテナの不具合などで細かい矩形のノイズで粉々になりながらも飛び飛びに放送されている状態,アップロード時にデータが欠損し元々の写真には無かった色合いに変色した状態でブログに掲載されたJPEG画像.

それらの現象では,システムやデジタルファイルの仕様,再生装置としてのコンピュータとアプリケーション,それらを実装したプログラマ,そしてわれわれ鑑賞者,そのいずれもが予期していなかった結果が表示されています.コンピュータはそのデータ破損をエラーだと認識していないか,織り込み済みのエラーとして無視しているのです.そしてそれらの図像はディスプレイ上に,壊れつつ表示されている.そのような現象がグリッチと呼ばれます.

グリッチは音楽の世界でいちはやく手法として取り入れられ,電子音楽の実験的成果として出発しながら徐々にジャンルとして定着してゆくことになりました.音楽の用語としてのグリッチは,まず,盤面が傷ついたCDが発する音飛びの音像によって知られるところとなりました.そして,CD以降のデジタルノイズを音楽の構成要素として用いるスタイルがグリッチ・ミュージックと呼ばれるようになります.

グリッチ・ミュージックから遅れること5年以上,ここ数年の間に視覚的なグリッチは,にわかに,また緩やかに「グリッチ・アート」と呼ばれるアートフォームの中に固定されつつあります.しかし,いまだその定義はひとによってまちまちです.

グリッチ・アートを巡って交わされる議論の中には,グリッチがわれわれに与える心象こそ本質だとする立場があります.その立場に立つ人々は真のグリッチは再現できないと言い,それらは一瞬で消え去ると言います.再現できないと主張する以上,彼らはグリッチ・アートをグリッチ抜きで構成しなくてはならないでしょう.一方で,ピクセルを恣意的に並び替えたり変形させたりした図像をもってグリッチ・アートとする立場があります.その立場から見ると,グリッチ・アートとはグリッチの視覚効果をモチーフとした人工的なアート作品ということになります.

この,心象としてのグリッチとモチーフとしてのグリッチは,グリッチという現象を中心に,二極へ乖離しながら,グリッチ・アートを固定しはじめています.おそらく将来的には,前者の主張はグリッチ論や美学の文脈へ流れてゆくでしょう.後者はより一般的な意味でグリッチ・アートの名を獲得してゆくに違いありません.グリッチ・ミュージックの先例に鑑みても,それはごく自然な成り行きだと思われます.

では,グリッチそのものはどうなるのでしょうか.冒頭に定義したような現象としてのグリッチのことです.私の作品の態度は,心象の中でのあり方やモチーフとしての扱いには,まったく無関心です.ここに提示しようと試みられているのは,その,現象としてのグリッチ,グリッチがグリッチ・アートへと展開してゆくとき,置き去りにされてしまうであろう「グリッチそのもの」という領域なのです.

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