Twitter上の情報から「その人」を推測します.ワークショップ参加者は3人ずつのグループに分かれ,これまでのつぶやきからお互いの特徴を推理し合いました.
昨年(2010年)5月にICCで開催されたトーク・イヴェント「リアルタイム・ウェブの現在とこれから」の中で,「Twitter人格」という言葉を僕がぽろっと使ったことがきっかけとなって,今回,研究会の最初のメンバーとしてお招きいただいたとのことで,ありがとうございます.今,さっそく資料を拝見していたのですが,「Twitterを筆頭とするウェブ・サーヴィスの中ではユーザの多重人格性が拡張される」というくだりがありました.まずはここを切り口にして,話を始めてみたいと思います.つまり今,本当にTwitterなるネット・サーヴィスの仕組みが「多重人格性」を押し進めているのかどうか.
というのも,「ネットが多重人格性をもたらす」という議論は,これまで散々やられてきた経緯があるからです.そもそもインターネットが登場して間もない90年代前半くらいの頃,「ローグ」のようなテキストオンリーのネットRPGや,ごく簡易的なチャットシステムのような初歩的なコミュニケーション・ツールしかなかった頃から,「コンピュータ上のサイバースペースがユーザの多重人格化を促す」みたいな言説が,それこそシェリー・タークルやロザンヌ・ストーンあたりのメディア学者によって言われていたんですね.当時,「それって本当なの?」という議論が散々やられていたわけですが,それから10数年以上が経過した2010年代の現在,Twitterが「多重人格性」をもたらすかもしれないという議論は,果たしてどれくらい事の本質を言い当てているのか.そこをまずは最初に押さえなくちゃいけない.
僕の考えでは,「多重人格性」云々というのは,何もTwitterに限らないんですよ.何かヴァーチュアルな空間上で,「別のアカウント」を立てることができるサーヴィスであれば,それでもう「多重人格化」はしてしまうわけです.今,むしろTwitterを巡って考えるべきなのは,いわゆる「多重人格化」を促す側面も確かにあるけれど,その逆に,あるひとりの人格としての一貫性というか「自己同一性」を過剰に促す側面,いわば(「多重人格化」とは逆の意味で)「単一人格化」とでも言うべき効果が強まっているのではないか,ということなんです.
ありふれた例ですが,あるTwitterユーザが友達にウソをついて「俺,今日はその飲み会に行けないんだよ」と言っていたのに,別の飲み会に参加していたことをTwitter上でつぶやいてしまえば,回り回ってウソがバレますよね(笑).たとえ本人がつぶやかなかったとしても,周囲の人のつぶやきがフォローされていくうち,「なんだよコイツ,飲みに行ってるじゃん!」みたいなことが瞬時にバレてしまう.つまりそこでは,Twitterを使うことで,多重人格どころか「二つの顔を使い分ける」ことすら不可能になっていく.
そうしたTwitterの性質や影響力を「いい」と思う人もいれば「悪い」と思う人もいるのが,現状です.つまり,Twitterを始めとするソーシャルメディアというのは,「多重人格化」を促すかもしれないけれど,逆に「単一人格化」させるという2つの相反する側面があって,いずれにせよ「自分のあり方」をTwitterが変えてきているのかもしれない,と.ただ,僕が見てきた感じでは,2000年代以降の風潮としては,「多重人格化」よりも「単一人格化」の方が,より顕在化した問題としてフィーチャーされてきた感もします.
たとえば鈴木謙介さんの著書『ウェブ社会の思想』(NHK出版,2007年)の中でも,似たような指摘がなされています.あの本が出た頃は,まだTwitterは流行っていませんでしたが,鈴木さんはそれを「ユビキタス・ミー(遍在する私)」と表現されていました.それはどういうことかというと,今のネット・サーヴィスというのは,たとえばamazonの買い物履歴からお勧め商品が自動的に弾き出されて「お前さんの趣味はこういうものだ」とか押し付けられたり,mixiならプロフィール欄に自己紹介ならぬ他己紹介のコーナーがあって,「○○君は優しい人です」とか勝手に書かれてしまったりするというように,常に「自分」というものがつきまとうのだ,と.これを鈴木さんは「ユビキタス・ミー」,つまり「ネット空間上のあちこちで,先回りをして“自分”が現われてくるから,本当の自分をそれに合わせていかなくてはいけない」といった過剰適応的な機能が働き,それがある種の「宿命論化」を促すのだと分析したわけです.つまり,「自分の人生はこの一個だけしかないのだ!」と過剰に思い込んでしまうような現象が(情報環境の成熟によって)起きているのではないか,という指摘です.
あと,これは『アーキテクチャの生態系』(NTT出版,2008年)の中にも書きましたが,たとえば「2ちゃんねる」は「匿名掲示板」と言われていますが,あそこで匿名と言われているのは決して「人格を捨てる」ということではなくて,よくよく考えると「(コメントを書き込むことで)2ちゃんねらーになる」というサーヴィスなんですよね.つまり匿名といっても,無色透明な人格ではなくて,「2ちゃんねらーって,こういう時にはこういう言い方やふるまい方をするよな」という共通の前提があって,それで書き込んでいる.言い換えれば「2ちゃんねらー」という巨大な一個のアバターのようなものがあって,みんなはそれになりきろうとしているわけです.だから書き込む文体もやたらと似てくる.それがキャラクターの形で具現化されたものが,たとえば「やる夫」(2ちゃんねるで考案された,アスキーアートによるキャラクター)だったりするわけですね.
だから「2ちゃんねる」というのは匿名,匿名と言われながら,あの情報空間内でひとつの人格的なイメージが立ち上がっていて,それこそエヴァンゲリオンの「人類補完計画」じゃないけど(笑),みんなでひとつの姿を支え合うという……旧映画版では綾波レイが人々の魂を吸いとってめちゃくちゃ巨大化するシーンが描かれていましたけど,本当にあのイメージに近いな,と.こうした話題ひとつ取ってみても,「ネットが多重人格化を促す」という話とは全然違うアスペクトが見えてくるわけです.